マーク・フォースター監督、ユアン・マクレガー、ジム・カミングス (声の出演)、ヘイリー・アトウェル、ブロンテ・カーマイケル、マーク・ゲイティスほか出演の『プーと大人になった僕』。

 

原作はA・A・ミルンの「クマのプーさん」シリーズ。

 

幼いクリストファー・ロビン(オートン・オブライエン)は100エーカーの森に住むクマのぬいぐるみのプー(声:ジム・カミングス)と仲良しだったが、彼は寄宿学校に行くことになり、これまでのように「何もしないこと」ができなくなる。プーとお別れしたクリストファー・ロビンは成長して、やがて恋人のイヴリン(ヘイリー・アトウェル)と結婚して娘のマデリーン(ブロンテ・カーマイケル)を授かる。戦場から帰還して今では旅行カバンを売る会社に勤めているクリストファー・ロビン(ユアン・マクレガー)は、仕事に追われ、またリストラの担当者にされて責任に押し潰されそうになっていた。そんな彼の住むロンドンに仲間たちや蜂蜜が見つからずに困ったプーがやってくる。

 

ストーリーの内容に触れますので、これからご覧になるかたはご注意ください。

 

 

字幕版を観ました。

 

実は僕は「クマのプーさん」の原作本を読んだことがなくて、またディズニーのアニメ版も今までまったく観たことがありません。

 

 

 

作品のタイトルやあの黄色い“くまのプーさん”のキャラは知ってたけど、子どもの頃に「プーさん」に触れた記憶がないんですよね。そもそも当時はプーさん以外のディズニーアニメもちゃんと観たことがなかった(僕がディズニーアニメを普通に観るようになったのはごく最近)。

 

 

 

だから登場キャラクターたちのことを知らないし作品に対する思い入れもないので、明らかに原作やアニメ版の続篇的なこの実写映画を楽しめるかどうか心許なくて最初観る予定はなかったんですが、他の映画が時間の都合で観られなくなって代わりに急遽こちらを鑑賞することに。

 

「クマのプーさん」の原作本については昔ファンタジー小説についての書籍「ファンタジーの世界」(佐藤さとる・著)でプーとクリストファー・ロビンの別れについての文章を読んだことがあったので、それがファンタジー作品における主人公の少年と彼の空想の中に存在するキャラクター(=幼少期)との別れに至る物語であることは知っていました。

 

 

 

 

で、そういうお話には個人的に惹かれるものがあるし(最近観た『ブリグズビー・ベア』のテーマに通じるものも。奇しくもあちらも“クマ”ですが)、以前、映画評論家の町山智浩さんが作品紹介をされていて、10月にDVDスルーとなるイギリス映画『グッバイ・クリストファー・ロビン』のことも知って、原作者のA・A・ミルンやその息子クリストファー・ロビンにも興味が湧いてきたのでした。

 

あいにく僕はA・A・ミルンとクリストファー・ロビンの自伝や評伝などは一切読んでいないし、この映画の劇場パンフレットも買ってないから彼らの人生について詳しいことは知らなくて、町山さんの解説やせいぜいWikipediaでの説明ぐらいでしかわからないんですが、あるかたのサイトに彼らについて書かれた文章があったので参考にさせていただきました。

 

A.A.ミルンのWINNIE-THE-POOHを読もう!!

 

 

A・A・ミルンもいろいろ苦労して悩みも多かった人生なのがわかるけど、史実を知ると、もうクリストファー・ロビンが不憫で堪らなくて。そりゃ恨み言のひとつも言いたくなるだろう、と。

 

きっと、楽しくて美しい想い出と、そうではないつらい記憶の両方があったのでしょうけど。

 

僕は子ども時代に自分の父親と遊んでもらったことがほとんどないので(父は仕事以外に家事育児全般を一切やらなかったし、率先して家族サーヴィスをすることもなかった)、限定された期間だったとはいえ“100エーカーの森”でぬいぐるみを介して父子で楽しいひとときを過ごせたクリストファー・ロビンがちょっと羨ましいんですが、でもその代償があまりにも大きかったことを思うと、幸せな少年時代とか親子関係って一体なんだろう、って考えてしまう。

 

ミルンだって息子のことを考えてある時期にプーの物語を書くことをきっぱりとやめたのだし、けっしてクリストファー・ロビンのことをないがしろにしたわけじゃないだろうに、でも息子は「クマのプーさん」という偉大な作品によってその人生が大きな影響を受けることになる。それは幸せなことばかりではなかった。

 

もしも父親が「クリストファー・ロビン」の名前を使わなければ、「クマのプーさん」が世界中で大人気になって脚光を浴びることがなければ、彼はその後も「『クマのプーさん』のクリストファー・ロビン少年」として持て囃されたり学校で苛めを受けて心に傷を負ったりせずに、もっと堂々と自分自身の人生を歩めたかもしれない(ちょっとこのあたりは古今東西の子役スターの光と影を思わせますが)。

 

比べ物にならないけれど、僕はちょっと珍しい名前なので子どもの頃から人に「変わった名前ね」「素敵な名前だね」「これ本名?」などと言われることが多くて、それは重荷だったんですよね。

 

だって自分の名前は自分が付けたんじゃないし、何か自分の能力や努力の結果で手に入れたものでもないから。

 

そのことでまわりに褒められたりからかわれたりすることがとても嫌だった。

 

もしも僕がどこにでもあるような平凡な名前の持ち主だったら、地味な自分自身とのギャップに悩んだり、名前負けしないようにひとかどの人間にならなければ、なんていう無意味なプレッシャーを感じる必要もなかっただろうと思う(今では自分の名前にそれなりに愛着もありますが)。

 

だから、僕は別にクリストファー・ロビンのような有名人にはなっていないけれども、ほんの少しだけ彼の苦しみが理解できる気はする。

 

また父親は数学の教師でしたが、僕は数学が大の苦手で(というか、算数の時点でもうよくわからなかった)、また父は野球が好きなのに僕は野球に興味がなかった^_^; どこまでも噛み合わない親子でした。

 

「クマのプーさん」の生みの親で世界的に有名な作家を父に持ったクリストファー・ロビンは自分でもいろいろ書いてみたが、父から文才は受け継がなかったのか世間に認められることはなかった。

 

自分の名前に不都合があるなら変名を使うことだってできただろうけど、やはり“あのA・A・ミルン”の息子の「クリストファー・ロビン」という名前の抑圧は生涯に渡って彼に重くのしかかっていたんだと思う。

 

劇中では、娘のマデリーンも両親がオビ=ワンとエージェント・カーターじゃ将来いろいろ大変そうだけどw

 

 

 

 

 

そういえば、ヘイリー・アトウェルは実写版の『シンデレラ』では(出番はわずかだけど)シンデレラの実の母親を演じてました。

 

ちなみに、この『プーと大人になった僕』ではクリストファー・ロビンの父親は息子が寄宿学校にいた頃に亡くなったことになってるけど、実際にはA・A・ミルンはクリストファー・ロビンが大人になってからも生きていたし(1956年に74歳で死去)、クリストファー・ロビンが働いていたのは旅行カバンの会社ではなくて本屋。妻は従妹で結婚したのは戦後。両親には結婚を反対されて、それ以来疎遠になった。ほんとの妻や娘は映画とは名前も違っていて(妻はレスリー、娘はクレア)、また娘さんには脳性麻痺があった。

 

映画の中ではクリストファー・ロビンは父の幻影に悩まされることはない。

 

だから、どうやら『グッバイ・クリストファー・ロビン』では史実通りに描かれているようだけど、この『プーと大人になった僕』の方はクリストファー・ロビンの人生も含めて完全なフィクションなんですね。

 

両者を続けて観ると非常に面白いんではないかと。ぜひ『グッバイ~』の方も観たいと思います。

 

どちらかといえば、僕はリアリスティックな話である『グッバイ~』の方にそそられますが。

 

ただ、『プーと大人になった僕』は幸せだった頃のクリストファー・ロビンがプーとの想い出を通して、大人になった今、再び家族とともに幸せを取り戻す物語なので、そこは同じように空想の中で遊んだ幼少期を持つ多くのかつての子どもたちに通じる、より普遍性がある作品になっている、とはいえるかも。

 

原作やアニメ版のファンの人たちにも概ね好評なのは、この映画で描かれているクリストファー・ロビンとプーの関係やプーのキャラクターがそれらに忠実だからなのでしょう(アニメ版とのキャラクターデザインの違いに不満を述べられている人も一部いますが)。

 

僕は原作もアニメの方も知らないから客観的にちょっと引いて観ていたんだけど、この映画がとてもよかった、泣いた、という人と、逆にイマイチ、面白くなかった、という人の感想を読み比べてみるとそれぞれ注目している部分が異なるのが興味深かった。

 

この映画がつまらなかったという人たちはわりと予定調和的な物語の展開やこれも型通りではある最後のハッピーエンドに不満を持たれたようだけど、この映画がよかったという人たちはもっと細かいディテールの方を見ているんですね。

 

プーやイーヨーたちの表情、仕草、言葉遣い。クリストファー・ロビンとの関係etc.。

 

ストーリーに涙するというよりも、かつて遊んだぬいぐるみたちとの再会や大人になったクリストファー・ロビンが失ってしまったもの、それでも彼が変わらずにいることなどを映画からすくい上げて、そこにジ~ンときている。

 

 

 

確かにプーの一切まばたきをしない、まさにぬいぐるみそのものな無表情ぶり、でもそれが微かに動くことで生きているようにも見える魔法、そこには僕も見入ってしまった。

 

クリストファー・ロビンがプーを抱いて歩いているシーンなんて、CGなのか本物のぬいぐるみなのかわかんない時があったりして(撮影は本物のぬいぐるみを使って行なったそうですが)。

 

あれはぬいぐるみが本物のぬいぐるみに見えるからこそ、より切なさが増すんですよね。もしもCG感丸出しの造形だったらきっとシラケてしまうと思う。

 

僕はこの映画を観ながら、何年か前に観たスパイク・ジョーンズ監督の『かいじゅうたちのいるところ』を思い出しました。

 

あの映画も児童文学作品が原作だったけど、やはり少年が空想の中の“かいじゅう”たちと冒険をして最後に彼らとお別れをする。

 

そして、いわゆるストーリーの面白さで惹きつけるよりも幼少期の出会いと別れを描くことで人生の断片を切り取ってみせるような、心温まりながらビターなテイストのある物語だった。

 

『プーと大人になった僕』ではそこで敢えて「別れ」ではなくて再会が描かれて、みんな幸せになって終わる。

 

プーとの別れは冒頭で描かれているので、その後は「大人になった僕」が幼い頃のあの幸福感、「何もしない」をする時間の大切さを取り戻す話になっている。

 

そこにノれるかどうかでしょうね。

 

僕はこの映画に涙することはなかったけれど、映画館で過ごしたこの時間はけっして居心地の悪いものではありませんでした。

 

というか、あまりに心地よすぎてなんと僕は途中でちょっと居眠りしてしまったのです(寝不足だったからかも)(;^_^A

 

マデリーンがプーたちと出会って自転車に乗ってたと思ったら、次に気づくとイヴリンとマデリーンが彼らと一緒に自動車に乗ってて、それからクリストファー・ロビンと合流して、いつの間にか問題は解決していた。

 

 

 

 

…あ、もしかして一番重要なシーンを観逃した?^_^;

 

そんなわけで、本来なら感想を書く資格がないんですが、言い訳すると僕は映画館で劇中で眠ってるプーのように「何もしない」をしていたわけで、そのまどろみの時間はとても心地よかったからこれでいっか、と。

 

こうやって劇場で観た映画の感想をブログに書くようになる以前は、映画館で上映中に結構居眠りをしてました。映画館は僕にとって「避難場所」でした。何を観るかとか、その内容がどうだったとかいうことよりも、ともかく現実のしんどさから逃避するために映画館に行っていた。

 

それが何かとても無駄な行為に思えるようになってきたから1本1本吟味して選んでもっと集中して観るようになったんですが、時々それがしんどい時もある。たまには何も考えずに映画館で居眠りしたっていいじゃないか、と思えたんですよね。

 

僕にとっては映画館で過ごしているこのひとときそのものが、かけがえのない時間なんです。

 

なんだかそんなことをボンヤリ考えていました。

 

あるかたがTwitterで「妻のイヴリンが『このままでは壊れてしまう』と言っていたクリストファー・ロビンの帰宅時間が21時だったのが衝撃だった」と呟かれていて笑ってしまったんですが、日本ならきっと「贅沢だ」と文句を言う人もいるんだろうなぁ。

 

あれでクリストファー・ロビンが壊れてしまうなら、とっくに日本人の多くは壊れてるよ、と。

 

仕事に追われて家族との時間をとれないクリストファー・ロビンにイヴリンは「私はあなたの仕事に恋をしたんじゃない」と言う。

 

彼女の言い分もわかるけど、でも仕事しなきゃ家族が路頭に迷う。だからクリストファー・ロビンの肩を持ちたくもなる。

 

クリストファー・ロビンは、将来のためを思って娘のマデリーンもかつての自分の母校である寄宿学校に通わせようとしている(現実にはクリストファー・ロビンは寄宿学校で酷い苛めに遭っていたので、その忌まわしい場所に愛娘を通わせようとするのは矛盾しているのだが)。

 

だけど、僕たちはもう長いこと疑問に感じている。いくら頑張っても生活が豊かにならないのはどうしてだろう?と。

 

ひたすら努力すれば将来が保証される幻想に浸れた時代は終わってしまった。

 

クリストファー・ロビンと30年ぶりに再会したプーは、そうやってしゃにむに働こうとしている彼に尋ねる。「それは風船よりも大切なこと?」と。

 

 

 

プーのその問いかけは、僕たちに向けられたものでもある。

 

人生はなかなかつらいことがいっぱいあるし、思い通りにもいかない。努力がまったく報われず疲れ果ててしまうことも。それはもう、みんな言われなくてもよくわかっている。

 

この映画については「『メリー・ポピンズ』を思いだした」という感想を述べられているかたが結構いて、僕はちょうど少し前に「午前十時の映画祭」で映画館で『メリー・ポピンズ』を観たので、確かにあの映画はお父さんのバンクス氏がメリー・ポピンズに救われて家族との楽しい時間を取り戻す話だったなぁ、と思いました。

 

クリストファー・ロビンがイヴリンとマデリーンと家族3人で手を繋いで歩いている後ろでプーがそれを見つめている姿が印象的だったけど、あれは『メリー・ポピンズ』のラストと重なりますよね。

 

苦い“ひまし油”もひとさじの砂糖を加えればおいしく飲める。

 

この映画のプーと愉快な仲間たちは、現実の苦味をちょっとだけ忘れさせてくれるのだ。

 

あのハッピーエンドも、何か超常的な魔法かなんかで問題が解決するのではなくて、マデリーンのアイディアから、これまでお金持ちの娯楽だった海水浴を誰もができるように安価なカバンを作ればいい、と気づくことでもたらされる。

 

…そんなの誰でも思いつくだろ、というのは、まぁそこは目をつぶって^_^;

 

クリストファー・ロビンの上司で会社の社長の御曹司(マーク・ゲイティス)がわかりやすい悪者にされてるのがあまりにも作り物臭いとか、文句言いたくなる部分もなくはないけど、まぁそこも目をつぶって^_^;

 

でもプーがピグレットやイーヨー、ティガーたちとビーチで日光浴している、あのお気楽で安易にも見えるラストに、僕はかえって切実なものを感じてしまいました。今、ああやって「何もしない」ひとときを多くの人たちが必要としているのだ、と。

 

 

 

読ませていただいた他のかたのいくつかの感想の中に、特に前半が藤子・F・不二雄の「劇画・オバQ」(僕はとても好きですが)に似ている、という指摘があったけど、あのラストみたいにクリストファー・ロビンがプーと永遠にお別れしてしまうことになったら、ちょっとツラ過ぎる人もいるんだと思う。

 

だからせめて映画館の中では“彼ら”と一緒に遊んでいたい。そして元気をもらってまた現実に帰るのだ。

 

壊れてしまいそうな時にちょっと舐めてみる、これはそんな甘い蜂蜜のような映画なのでしょう。

 

 

 

「大麻解禁!」

 

 

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