ラージクマール・ヒラニ監督、アーミル・カーン、アヌーシュカ・シャルマ、スシャント・シン・ラージプート、サンジャイ・ダット、ボーマン・イラニ、サウラブ・シュクラ、パリークシト・サーハニー出演の『PK』。2014年作品。
ベルギーに留学中のジャグー(アヌーシュカ・シャルマ)はそこで付き合い始めたパキスタン人の男性サルファラーズ(スシャント・シン・ラージプート)との結婚が叶わず、母国インドに戻ってTV局で働くことに。ある日、通勤電車の中で神様を探してビラを配っている奇妙な青年(アーミル・カーン)に出くわした彼女は、インドの人々の宗教観にかかわる題材になると考えて、宇宙から来たというその青年“pk”を取材することにする。
『きっと、うまくいく』の監督と主演俳優による、宇宙からやってきた男が巻き起こす騒動を描く“宗教コメディ”。
『きっと、うまくいく』はとても好きな映画なので、最新作の存在を知った時点で映画の内容も確認せず予告篇も観ずに劇場へ。
ミニシアターの小さめの会場だったこともあって客席はほぼ満席でしたが、それを見越して早めに整理券をもらってあったので見やすい席で鑑賞できました。
きっと他のお客さんたちもすでに『きっと、うまくいく』を観ていたり、事前にこの映画の評判を知ったうえで来てるんだろうなぁ、というのがうかがえました。
僕はインド映画は2014年の『バルフィ!人生に唄えば』以来2年ぶりだし(上映していた映画館も同じところだった)そんなにしょっちゅう観ているわけでもないんですが、それでもたまに観るインド映画は結構粒選りで、今回の『PK』もまた評判にたがわず面白かったです。
だいたい本国よりも2~4年ぐらい遅れて日本で公開されることが多いんだけど、限定公開みたいなのじゃなくて普通の映画館で上映してくれるのは嬉しいですね。
20年ぐらい前はインド映画ってエスニックなかなり変則タイプの映画というイメージが強くて積極的に観ようという気はあまりしなかったんですが、2013年の『きっと、うまくいく』はシナリオや作品としてのクオリティの高さに驚いたのと、とにかく娯楽作品として単純に面白かったので、おかげでインド映画に対する認識が変わりました。
別の監督、主演俳優による『バルフィ!』もお気に入りの1本です。
だからインド映画は僕にとってすでに「変則タイプの映画」ではなくて、わざわざ日本で公開されるからには「面白い映画」なんです。
それではこれ以降、内容について書いていきますので、未見のかた、これからご覧になるかたはご注意ください。
映画の冒頭で「この映画はいかなる宗教も批判するものではありません」というような断わり書きが入って早速「おや?」と思わせる。
やがて巨大な宇宙船が地球に飛来して、荒野のど真ん中に首から光る大きなリモコンを提げた素っ裸の男を降ろしていく。
この男(アーミル・カーン)、大きな目を見開いたままほとんどまばたきもせずにすっぽんぽんのまま歩いていたが、たまたま出会った男に首のリモコンを奪われてしまう。
そのリモコンがないと母星に戻れないため、彼は未知の惑星で独りなんのあてもないままリモコン探しを始める。
僕はこの映画についての予備知識が全然なかったからこれからどういう展開になっていくのか予想もつかなかったんだけど、舞台はそこからいきなりベルギーに飛んで、アヌーシュカ・シャルマ演じるヒロインのジャグーとパキスタン人青年との恋物語が始まる。
彼女の話と冒頭の全裸男のエピソードがどう絡まるのかまったくわからないので、しばし戸惑いつつ観続ける。
このジャグーというヒロインはそこそこ、というかインドではそれなりにいいとこの出みたいで、自己主張もハッキリするし恋にも積極的。仕事も持っていて経済的にも自立している。
このヒロインの人物造形がちょっと80年代ぐらいの香港映画のテイストっぽいんだよなぁ。男性に対して強気でユーモアもあって美人、っていう。
ベルギーでのジャグーとサルファラーズのラヴコメっぽいエピソードは観ていてちょっとこそばゆくもあるんだけど、でもハリウッドのこの手の映画をよく研究しているのがうかがえるし、そんなに違和感はない。
インド映画はいつもヒロインが美人だから楽しみなんですが、ちょっとアヒル口のアヌーシュカ・シャルマもまたなかなかキュートで、これまで観たインド映画のヒロインたちの中でもかなり垢抜けている。
やっぱり俳優さんたちがそれだけ堂に入ってるんですね。町なかで唄ったりイチャついてても絵になる。男優さんはイケメンマッチョだし。
もしも日本人の俳優が海外で同じようなことやったら大惨事になるだろうことは容易に予測できる。
ちなみに、過去に観たインド映画の出演者って男優も女優も(特に男優は)肌の色はそれなりに濃くてエキゾティックな雰囲気を醸し出してもいたんだけど、なんとなく最近観るインド映画では主役格の俳優たちの肌の色が薄くなってる気がする。
アーミル・カーンは肌の色も顔立ちも白人っぽいし、モデル出身のアヌーシュカ・シャルマもやはり色は白めで、インドというローカル色が薄めな外見。
たまたまなのか、それとも何か意味があってのキャスティングなのかはわかりませんが、たとえば『ムトゥ 踊るマハラジャ』のラジニカーントやサリーを着て踊っていたヒロインたちと比べると、時代の流れなのかかなり洗練されてるんですね。それがいいことなのかどうかはわからないけど、明らかに意識して今風な男女を描いている。
それと、『きっと、うまくいく』もそうだったけど、「インド映画といえば」な歌と踊りのシーンは少なくて、2~3ヵ所ぐらいしかない。
しかも、おなじみのサリーのおねえさんたちが大勢で踊るような場面はないのだ(『バルフィ!』にも、バックに歌は流れるが踊る場面はない)。
唄って踊るのはおっさんたちだけ。確か『きっと、うまくいく』もそうだった記憶が。
あえて女性たちには踊らせずに男性たちに踊らせてるのはなんででしょうね^_^;
女性たちのダンスがなくなっていくのと同時に、ヒロインは自己主張する存在として描かれるようになってきている。
このあたり、面白いなぁって思いますが。
さて、故郷の親や家族が信奉するヒンドゥー教の導師の反対を押し切ってベルギーにあるキリスト教の教会でパキスタン人のサルファラーズと結婚する約束をしたジャグーだったが、結婚当日サルファラーズの姿はなく、少年から受け取ったことづてには、国と宗教の違いを理由に結婚を断わる文章が書かれていた。
失意のままジャグーはインドに帰る。
ここですでにこの映画のテーマである「宗教」というものが顔をのぞかせる。
そして、インドでジャグーは宇宙人のpkと出会う。
“pk”とは酔っ払いのこと。あまりに理解不能な行動をとるので、彼は酔っ払いだと思われるのだ。
“お金”というものを理解していないpkは、紙幣に描かれているマハトマ・ガンディーの肖像画とモノを交換できると思い込んで、チラシなどガンディーが描かれた紙を集めまくる。
こういう発想は、普段から当たり前に“お金”を使ってると出てこない。
地球のルールを何も知らない宇宙人はちょうど頭の柔らかい子どもたちと同じで、こうしてpkは片っ端から世の中のさまざまな常識や普遍的な価値観と思われていたものを相対化していく。そして行き着くのが“宗教”というわけ。
pkは誰にリモコンのありかを尋ねても「神様に聞いてみろ」と言われるので、どうやら神様というのが一番偉くて自分が探しているリモコンを返してくれるようだ、と信じ込む。
だから神様に祈ったり賽銭をしたりするのだが、リモコンはいっこうに返ってくる気配がない。
こうして、リモコンを探すpkによってヒンドゥー教の神様が茶化されたり、大きさによって値段が違うみやげ物の仏像にツッコミが入れられたりする。
キリスト教では“ぶどう酒”が象徴的な意味合いで使われるので、イスラム教徒たちのところにそれを持ち込もうとして追いかけられたり(なんか『ブルーノ』みたいw)。
みんな平等にコケにするw
なんでそんなことをするのかといえば、それぞれの宗教の教義が互いに矛盾するからだ。
こちらを守ろうとすればあちらのルールに違反することになり、またその逆も。牛は宗教によって生贄にされもすれば、奉られたりもする。一人の人間がすべての宗教の教えを同じように守ることはできないし、神様はこちらの願いを都合よく叶えてもくれない。
それなのになぜ人間は神を、宗教を信じるのか。
学校のある一角にそのへんにあった石を置いて小銭をばら撒いておくと、受験合格を祈願して賽銭を置いていったりする人たちが出てきていつの間にかありがたい場所に変わってしまう、という場面など、日本でもありそうw
イワシの頭でも拝めば神様になる、って奴ですね。
宗教批判、というよりも、そういう世の中の習慣をちょっと笑いに包んで見せながら「なぜ?」と問うてみる。
そして、“宗教”といえば避けられない要素である「テロ」についてもこの映画は触れる。
ひょんな出会いからいろいろと世話してくれた“兄貴”と電車の駅で再会したpkを爆破テロが襲い、兄貴は無残に殺されてしまう。
自ら信じるものを“守る”ためならば、反対の立場にいる者を傷つけたり、無関係な人たちの命すら奪っても構わない、という考えに対する批判。
pkはTVカメラの前での導師との対話で言う。
「神様は自分で自分を守れる。神を守ろうとするのはよせ」
あのリモコンを盗人から買ったのは、この導師だった。
pkは宗教を否定はしない。信じることで救われる者もいるからだ。それぞれ自分が信じたい神を信じればいい。
しかし、「神を守る」という名目で他の宗教を攻撃するからテロや戦争が起きる。彼らが信じているのは「嘘の神」だ。
地球にやってくるまでは「嘘」という概念がなかったpkは、人間の中にある「嘘」というものを知り、それゆえに宗教の中に潜む「嘘」を突く。
pkは、人々が間違った宗教を信じることを「電話の“かけ間違い”」と表現する。
本物の神様ではなくて、間違った神様に電話が繋がってしまったからだ、と。
神様を批判しているのではない。「間違った神」を批判している。
正直なところ、このあたりの「宗教の名の下に金儲けしたり、自分の主張を人に強制したりすること」への批判はウンウンと大いにうなずかされながらも、同時にちょっと説教臭さも感じてしまった。
pkに言葉で多くを語らせすぎな気がして。
『きっと、うまくいく』ではインドの急速な発展の陰で経済格差が広がったり理数系のエリートたちの自殺が急増している問題に触れていて、僕はこの監督の着眼点と、そのシリアスで重いテーマを「笑い」というもので包むことでエンターテインメントとして誰もが楽しめる作品にするスタイルに感動を覚えたんです。
今回の『PK』でも「宗教」という、これも物議を醸しそうな題材を扱っていてそのアグレッシヴさにまたしても打たれたわけですが、ただ作品のテーマをあまり台詞で語ってしまうとその効果が弱まっちゃう気がするんですよ。
インド映画で宗教批判とも取られかねない物語を描くこと自体スゴく勇気のいることだろうし、他にもいろいろと革新的なことをやってるとは思うんですが。
僕はこれまで観たインド映画で、これほどハッキリと娼婦(と呼んでいいのか、それとも風俗嬢なのかよくわかりませんが)が描かれた作品って初めてかもしれない。
しかも、兄貴がpkにあてがうおねえさんは、別に悪いことしてる、というふうには描かれていない。そういう仕事をしている人、ってだけで。
あと、劇中でジャグーとサルファラーズがキスしてましたが、ヒロインがキスする場面もこれまでにインド映画で見た記憶がない。確かインドじゃ人前でキスしたらダメなんじゃなかったっけ。
何年か前にリチャード・ギアがインドの公衆の面前でインド人の女優さんにキスして問題になってたし。
映画ではキスしてたのはベルギーだったから、ぎりオッケーなんでしょうか。それとも映画の中でなら女優さんはキスをしても大丈夫なのか?
インドって僕はいまだによく理解していないんですが、身体のラインが出るピッタリした服や、腕やおへそが出た衣裳で女優さんが踊るのはいいけど人前での抱擁やキスはダメとか、どこまでがオッケーで何はNGなのか基準がよくわかんないんですよね。
中東のいくつかの国のように、女性は顔も素肌もヒジャブやアバーヤで覆わないとダメ(それ以前に『少女は自転車にのって』のサウジアラビアみたいに映画製作そのものが禁止されてる場合も)とかいうんだったらむしろわかりやすいんだけど、インドはそこまで厳しくはないようだし。
でもつい最近でも未婚の若い女性が男性と親しげに会話してただけで、その女性の実の父親が彼女を焼き殺したという酷い事件が報道されてもいる。
都会と田舎じゃ人々の意識にかなりの隔たりがあるのかもしれないし、ニュースになったってことはけっしてそれが常識ではないからなんだろうけど、それにしてもインドという国は謎が多いですね。
昔の日本もそんな感じだったのかな、なんて考えてしまった。
だって開国したばかりの頃の日本では西洋人が驚くほど性的に奔放なところがありながらも、一方で「男女七歳にして席を同じゅうせず」みたいな道徳観もあったわけで。
ようやく戦後になってから日本映画でキスシーンが描かれて話題になったぐらいなんだから。
ともかく、ここのところインド映画は観るたびに新鮮な気持ちにさせてくれますね。
「電話の“かけ間違い”」というpkの言葉は大きなヒントになり、促されてかつて結婚当日にバックレたと思われていたサルファラーズにジャグーが電話してみると、実は彼はその日ちゃんと教会に来ていた。
少年から受け取ったことづてはまったく関係のない人物から別人に宛てたものだったことが判明する。
まぁ、かなり強引なオチだとは思うんですが^_^;
シナリオは『きっと、うまくいく』ほどの精度はなかったけれど、でも一見たわいないラヴストーリーから「宗教」というものについて考えさせられる、物語の先が読めないことにおいては『きっと、~』にも勝るとも劣らない作品じゃないでしょうか。
「宗教」っていうと僕たち日本人にはあまり関係なく感じられるかもしれませんが、でもこの「宗教」を「映画」とか「アイドル」に替えてみたらどうでしょうか。
途端に身近に感じられませんか?w
あるいは「思想」とか「政治的信条」としてみてもいい。
そうしたらこれが、人と人の間の争い、諍いについての物語だったことがわかるでしょう。
自分が好きなものを好きでいることも、信じたいものを信じるのもそれは自由だ。
だけど、それを「守ろう」として他者を傷つけるな、ということ。
身につまされるなぁ。
アーミル・カーンがただでさえ大きな瞳を目一杯見開いて演じるpkはほんとにどこか別の星から来た人みたいで、しかも無駄にマッチョなのも彼の宇宙人っぽさに拍車をかけているw
アーミル・カーンの大きな耳は『きっと、~』でも自らイジってたけど、今回も手でパタパタさせてましたね。
この人については『きっと、~』の感想でエミネムとジュード・ロウが合体したような顔、と書いたけど、この『PK』ではさらにそこにトム・ハンクスも加わったような感じがwww
『バルフィ!』で主人公を演じていたランビール・カプールが、最後にやはり裸で宇宙からやってきてpkに地球の風習を教わる青年役で顔を見せてました(ヒンドゥー教の導師役のサウラブ・シュクラも『バルフィ!』に出演していた。むこうの人はほんと、ヒゲを生やしてる時と剃った時の顔の印象がまったく違うのですぐに判別できなくて困る^_^;)。
言われなきゃ同一人物だとわからない^_^;
ジャグーの上司役のボーマン・イラニは『きっと、うまくいく』では意地悪な学長を演じていた。今回はイイ人の役でしたね。
愚か者だと思われていた男が物事の本質を見抜き、彼の巻き起こす騒動が世の中に対する風刺としての機能を果たす、というのは昔からよくある手法だけど、宇宙人という「宗教」や「神」すらも外側から見てしまう存在によって、古くからの慣習や疑問を持つことを許されないような決まり事に切り込んでいくこの映画は、とても挑戦的なことをやっていると思います。
次にこの監督と主演俳優の新作がいつ作られて日本で公開されるのかわかりませんが、今から楽しみにしています。この映画ももう一度ぐらい観たいなぁ。
※サルファラーズ役のスシャント・シン・ラージプートさんのご冥福をお祈りいたします。20.6.14
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