カビール・カーン監督、サルマン・カーン、ハルシャーリー・マルホートラ、ナワーズッディーン・シッディーキー、カリーナ・カプールほか出演の『バジュランギおじさんと、小さな迷子』。2015年作品。ヒンディー語 ウルドゥー語。
パキスタンの山村に住む6歳の少女シャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)は口がきけない。母親は娘が声を出せるように2人でインドのデリーまで願かけに行く。しかし、夜、母子を乗せてパキスタンに帰る列車が国境近くで停車中に、穴にはまった子ヤギを助けるためにほんの少し車外に出たシャヒーダーを置いて列車は走り去ってしまう。取り残されたシャヒーダーは別の貨物列車でインドへ。そこで彼女はインド人の青年パワン(サルマン・カーン)と出会う。
昨年『パッドマン』の上映前に予告篇が流れていて、これは観たいなぁ、と思っていました。
インドの「三大カーン」(あと2人はシャー・ルク・カーンとアーミル・カーン。3人とも同い年)の一人、サルマン・カーン主演作品を観るのは僕は今回が初めて。三大カーンでは、これまで『きっと、うまくいく』などのアーミル・カーンの映画を何本か観ています。
『きっと、うまくいく』の劇場公開時に同じ予告動画でサルマン・カーンの主演映画も紹介されていたっけ。この『バジュランギおじさん』の主人公パワンの恋人役のカリーナ・カプールは『きっと~』でもヒロインを演じていました。
主演のサルマン・カーンはちょうどジョージ・クルーニーを1.5倍筋肉質にした感じの人で、彼が大勢と一緒に踊り出すとまるで竹内力がダンスしてるような迫力w
アクション物などに多く出てる肉体派スターで今回のような優しいおじさん役というのは珍しいんだそうだけど、そうだろうなぁ。絶対にその辺のカタギの人には見えないもの。マッチョ過ぎ^_^;
いやまぁ、三大カーンの皆さんは全員マッチョですが。
この人がまわりの人々から軽くあしらわれる、というのがまずヴィジュアル的にまったく説得力がない^_^; だって、怒らせたらめっちゃ怖そうなアニキじゃんw
『パッドマン』が実話を基にした作品だったこともあって、僕が予告から想像していたのは主人公がインドから隣国のパキスタンに少女とともに旅をするわりとリアリズム寄りの物語だったんですが、実際に観てみるとだいぶ予想していたものとは違っていました。
結構コテコテの話で。
何がコテコテって、まず主人公がまるで『ドラゴン危機一発』や『ドラゴンへの道』でブルース・リーが演じた主人公のような、正直者なんだけど度が過ぎててちょっとおマヌケなところもある、でも戦うとめっちゃ強い、みたいな「今どきこんなキャラ?^_^;」という人物。
インド映画でいえば、最近のアーミル・カーンの映画よりも『ムトゥ 踊るマハラジャ』のラジニカーントの作品に近い雰囲気。
つねに「宗教」を意識させられる、ということではちょっとアーミル・カーン主演の『PK』を思わせもするけれど、この『バジュランギおじさん』には宗教に対する懐疑とか皮肉はない。
親とはぐれた幼い少女を家まで送り届ける、という昔ながらの心温まる道中物の中に、インドとパキスタンという互いに宗教が異なり幾度も戦争のあった国同士の複雑な関係が絡めてある。そこが現代的ではある。
シリアス一辺倒ではなく、時々やり過ぎなほどに笑いの要素も加えて、歌や踊りもあるし、誰もが楽しめる娯楽映画に仕上げてある。
だから、そのコテコテでベタな作風と作品の根底にある真面目なテーマに、ふとズレのようなものを感じる時もあった。ちょうどナチスのユダヤ人収容所を描いた、ロベルト・ベニーニが監督と主演を務めた『ライフ・イズ・ビューティフル』を観た時に覚えた違和感に近いかもしれない。
とはいえ、『ライフ~』もそうだったようにこの映画自体は大変評判がよくてインドでも大ヒットしたそうだから、あくまでも個人的な好みの問題ですが。
インドやパキスタンを一緒に旅してるような気分になったし、シャヒーダー(ムンニー)を演じるハルシャーリー・マルホートラちゃんがめちゃくちゃ可愛いくて、希望と多幸感に溢れた結末を迎える作品でした。
パキスタンでパワンたちと行動をともにするTVリポーターのナワーブ(ナワーズッディーン・シッディーキー)はマスコミの理想の姿として描かれている
そしてあのラストを観た時に、なるほど、こういうベタな作りにした理由もなんとなく納得できた。
あんなふうに国を越えてみんなが声を上げて、ともに祝福しあえたらどんなにいいだろう。鉄条網で隔てられた国境も人の心は越えられるのだ、ということ。
あれは多くの人々の願いなんだよね。
現実にはなかなかあのようにうまくはいかないかもしれない。でも映画の中で実現させてみるのは無駄なことではないのだ、と。
物語はフィクションでも、インドとパキスタンの間の壁や対立は現実に存在する。
後味のよい「物語」の中に、はっきりとしたメッセージが込められている。
では、これ以降はストーリーの中身について書きますので、これからご覧になるかたはご注意ください。
主人公が行って帰る、という物語自体はシンプルながら、その過程はなかなかの紆余曲折で、まずシャヒーダーの父親がインドへの参拝の時に一緒に来られなかったのは戦争の時に兵役に就いていたからで、つまりインド側からすれば敵兵だったためにビザが下りないから。
そして娘とはぐれてしまった母親が引き返すことができないのは、すでに列車が国境を越えてパキスタンに入ってしまったので、再びインドに入国するためにはあらためて手続きをとらなければならないから。広いインドで行方不明になった子どもを捜すのは容易ではない。
そんなわけで、たまたま出会った“バジュランギ”ことパワンについてきたシャヒーダーは、しかし口がきけず文字の読み書きもできないため自分のことをまわりの大人たちに説明できなくて、名前もわからないので「ムンニー」と呼ばれることになる。
これまでどうやって両親と意思の疎通を図っていたのか、とか、そういうツッコミは野暮ですかね。
警察もムンニーを預かってくれないし放っておくわけにもいかず、パワンは父の友人宅で自分も同居している婚約者のラスィカー(カリーナ・カプール)の実家に連れていく。
パワンはムンニーの顔を見て「色白だからきっとバラモンかクシャトリヤだろう」と言うんだけど、肌の色で身分が決められるようなことを主人公が当たり前みたいに口にするところに少々引っかかった。パワンはヒンドゥー教徒で、彼はどうやらカースト制度に疑問を感じていないらしい。
一方、パキスタンはイスラム教の国なのでムンニーもムスリムで、そのためにパワンとムンニーの間でさまざまな騒動が巻き起こることになる。それを笑いを交えて描いている。
インドは多宗教の国だからイスラム教徒もいるが(ムンニーと母親が参拝したのはイスラム教の聖者廟)、ヒンドゥー教徒が多数を占める。だからラスィカーの実家の家族たちも皆ヒンドゥー教徒。
ヒンドゥー教徒は菜食主義者が多く、パワンも肉は一切口にしない(なのにあんなにムキムキなのがスゴいが。『ダンガル きっと、つよくなる』でも鶏肉をめぐる夫婦の間でのやりとりがありましたね)。ところがムンニーは肉、特にチキンが大好きで、パワンが目を離した隙に近所のイスラム教徒の家に上がり込んで、その家の人たちと一緒にタンドリーチキンにかぶりついてたりする。
そのチキンがまた旨そうなんだよなw
また、クリケットの試合ではラスィカーの家のみんながインドのチームを応援する中でムンニー1人だけがパキスタンのチームの得点に狂喜して、パキスタンが勝利を収めるとダンスまでしちゃう。
インド人一家の中でただ一人パキスタンのチームを熱烈に応援する強心臓なムンニー
彼女がパキスタン人であることがわかると、家主であるラスィカーの父親は激怒。彼女をこの家に置いておくのは罷りならん、さっさとパキスタンに送り帰してこいとパワンにカミナリを落とす。
パキスタン大使館に赴くが、ムンニーがパキスタン人だと証明できるものが何もないので取り合ってもらえず、しかもそこで反パキスタンの暴動が起こって施設が閉鎖されてしまう。ここでも隣国との対立が描かれる。パワンとムンニーは引き裂かれた両国をそれぞれ象徴するキャラクターでもある。
パワンは旅行代理店の男に「ツテがある」と言われて、ラスィカーが貯めていた結婚資金を譲ってもらい、その金でムンニーを男に託すが、男はパワンから受け取った大金を騙し盗ったうえにムンニーを売春宿に売ろうとしていた。
それを知ったパワンが怒りに燃えてブルース・リーかジャッキー・チェンばりの大暴れとなるんだけど、これも6歳の少女が売春宿に売られる、というのがまったくの絵空事ではないことがうかがえて恐ろしい。
この映画は笑いでオブラートに包んでいるけれど、なかなかシャレにならない現実が背景にある。
パスポートもビザもないパワンとムンニーはパキスタンに密入国するしかない。
ひたすら歩き続けるパワンとムンニーに密入国業者が声をかけ手助けするが、トンネルを使って密かに入国したパキスタンでパワンは国境警備隊に密入国の理由を正直に話し、正式な入国許可を求める。
ここでもパワンの言動があまりに突飛でマンガっぽいので、思わず大木こだまの声で「そんな奴おれへんやろ~」と言いたくなる。
ただ、映画を観ていると、この一見マンガっぽい誇張されたパワンのキャラクター造形は意図的なものであることがわかる。
これがもし従来のハリウッド映画だったら、パワンは最初のうちは自分に懐いてくるムンニーに対してもっと突き放した態度なんじゃないかと思うんですよね。それがいくつものエピソードを重ねるうちに次第に彼女への情が湧いてきて…といった展開になるのではないかと。
そして、さすがに彼のことをここまでバカ正直な人物には描かないでしょう。映画から現実味がなくなっちゃうから。
でも、この映画でパワンは善良で正直者という設定なのでわりとはじめからムンニーに親切だし、ムンニーは基本的にマスコット的な可愛さを振りまき続けるので、大人たちは彼女には優しい。彼女が危機に陥るのは先ほどの売春宿の時ぐらいだし、劇中でパワンとムンニーの関係が劇的に変化することもない。パワンは優しく、ムンニーは可愛い。
そこが物語として少々物足りなくもあるのだけれど、ここではインド人の青年とパキスタン人の少女という、国籍も宗教も違う者同士の交流を通じてそれぞれの生き方や信条を尊重しあいながら異なる両者が共存することの可能性について描いていて、パワン(菜食主義者で、嘘をつかない)とムンニー(パキスタンの国旗にキスして、イスラム教のモスクで祈る)がふたりともしばしば笑ってしまうほど頑固に自分の主義を貫こうとする姿に強い意味が込められている。
“変化”することも大切だが、「変えない」ということも大事だ、と。どちらかが正しくてどちらかが間違っていると断定するのではなく、相手が信じていることを重んじながら自分は自分の生き方を選ぶ。他者に強制はしない。この映画でその姿勢はずっと一貫している。
それでもパワンはムンニーが欲しがった腕輪(バングル)を彼女に贈り、両親の許に帰り本名のシャヒーダーに戻ったムンニーはパワンに向かって「おじさん!」と声に出して叫び、「ラーマ万歳!」とパワンの信じるヒンドゥー教の神を称える言葉を贈る。
誰もがパワンのように強い意志を持っているわけではないし、シャヒーダーのようにみんなから愛されるわけではない。彼らは理想化されたキャラクターだが、それでも彼らのように互いの違いを知ったうえで愛情を交わし合うことはできる。この映画はそう言っている。
今、隣国との間でいろいろと揉めている僕たちの住むこの国だって、『バジュランギおじさん』で描かれていたように人々の間では互いに交流があるし、それぞれの国の文化や風習に敬意や愛着を持ち合ってもいる。
簡単には解決しないさまざまな問題を抱えてはいるけれど、痛みや喜びを感じる同じ人間としてわかりあえる部分も多いはず。
この映画のストーリーやその中のエピソード、登場人物はフィクションだけど、インドとパキスタンの間で現実にあった病気の子どもの心臓手術にまつわるニュースが発想の基になっているそうです。
そして、映画が現実に良い影響を与えることもある。
パキスタンで保護されたインド人の聾唖の少女が15年後にこの映画の影響でインド政府が動き、帰国に繋がったのだそうな(それまで放置されていたのが驚きだが。この『バジュランギおじさん』の中で描かれるインドの警察のやる気のなさは大げさじゃないってことですな)。
だったら、もっとこういう映画を作ったらいい。憎しみ合いを煽るのではなくて、互いに笑顔で手をとりあう映画を撮れば、それは希望や目標になるから。こうありたいのだ、という強い想いに。
撮影は大変だったそうですが、それも納得のインドのさまざまな土地の美しく雄大な風景が映し出されて、それだけでも映画館のスクリーンで観る価値はある。
あいにく僕が住んでいるところではこの映画の公開期間はたったの一週間(しかも一日1回の上映)ですでに終了してしまいましたが、ほんとにもったいないな。この辺では興味を持って「観たい」と思っても、もう観られないなんて。
僕は幸い初日に観られましたが、お客さんいっぱい入ってたし、もっと長くやってくれればいいのに(※追記:その後、再上映されている模様)。
この『バジュランギおじさん』は2015年の作品だからちょっと前ですが、たとえ時間がかかっても素敵な映画はこれからもぜひ上映してほしいです。
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