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エフォートアカデミー塾長日記

静岡県三島市の学習塾「エフォートアカデミー」のブログです。
塾での出来事やお知らせを、私塾長の鈴木がお知らせいたします。
エフォートアカデミーのホームページは、
http://www.effort-aca.com
です。よろしくお願いいたします!

皆さんも経験があると思いますが、「隠れた名店」とは意外と「ボロかった」りするものです(笑)。食べ物屋さんなどがいい例ですが、味はピカイチだけど、どうして店舗はこんなにボロボロなの?というようなケースは意外にたくさんあるでしょう。

逆にお店の造りは素晴らしく、お値段だって決して安いとは言い難い価格であるにもかかわらず、お味の方は「?」というところもあります。もっとも、食べ物屋さんだからといって必ずしも「味」にこだわる義務がある訳ではなく、高級店たる「雰囲気」を感じるだけで満足してしまう人も現実にはいる訳で、確たる「正解」などあるはずもないのです。つまりは食事に対する価値観など「人それぞれ」だと思いますし、それでいいと私も思います。

 

翻って、「学習塾」についてはいかがでしょうか?

味覚の基準が「人それぞれ」に対して、学力については誰にでも共通かつ統一された能力が求められます。非常に残念ながら、入試において「特異な能力」はあまり重視されず、「他者との比較」のみが尊重されているのが実情なのです。

そのような現実の中で、「見栄え」を重視する「塾選び」は極めてリスキーであることは確かなのです。受験という人生においての重大イベントへの「準備」としては、そのような思考はあまりにも杜撰ではないかと、私は考えてしまうのです。

大きな塾においては、そのほとんどが学力別にクラスが分けられています。どの大手塾も押しなべて「最上位クラス」は待遇がよく、塾生も講師も極めて意欲的です。場合によっては「特待生」として月謝を免除されるという特典さえあるのです。健全な競争心が旺盛で、自ら机に向かう習慣があるお子様であれば最適な環境なのかもしれません。

一方で「学力最下層」のクラスについては・・・あえて言及はしませんが、唯一満たされるのは「大手塾に在籍している!」という歪んだ自己肯定感だけでしょう。私自身、業種柄いろいろと聞き及ぶことも多々ありますが、一言で言えば「悲惨」です(笑)。

 

現状において「できる子」も「できない子」も、その子にあった「環境」というものがあるはずなのです。親として、我が子の「適性」をしっかりと見極め、適切な環境を与えてあげることが重要であることは言うまでもありません。そして、それは前述の食べ物屋さんの例と同じく、「見栄え」や「雰囲気」だけで判断するのはいささか早計であるという事実を、決して忘れてはならないのです。

 

だからといって、「皆さん、当塾へお越しください!」などと言うつもりはサラサラないのですが(笑)、言わば塾選びの「ミスマッチ」たる状況を目の当たりにする度、「何とかならないものかな~」と考えてしまうのです(笑)。

 

「寄らば大樹の陰」などと言う言葉がありますが、少なくとも「塾選び」に関しては当てはまらないような気がしています。お子様にあった「隠れた名店」を探す努力こそが、受験を成功に導くためには必須であると、私は考えているのです。

 

頑張りましょう!

受験生の皆さんは部活動もひと段落し、夏からはいよいよ「受験モード」に突入するものと思います。学校の先生や保護者様と突っ込んだ「進路についての話」をする機会も増えるのではないかと思います。

 

近年、「友だちのような親子関係」を構築するご家庭が増え、それはそれで一つの価値観だと感じているのですが、こと「進路」などのシビアな話題となると、なかなか事が上手く運ばないというケースが散見されます。

 

親が我が子に対して、親としての明確な意見を述べることができないご家庭が少なくないようで、少々驚いています。これは子供自身に原因があるというよりも、むしろ親の問題ではないか?と私は思うのです。

我が子がほんの少しだけ「個性的」であることが、親としての「引け目」となってしまい、我が子に対して「強く言えない」保護者様がいらっしゃいました。同じ親として、そのお気持ちは痛いほど理解できますが、それでも「言うべきは言う」姿勢は堅持すべきなのです。少し「先行きが心配」なお子様なら、なおさら「親の諫言」が必要な場面があるはずなのです。いつまでも親が我が子の面倒を見続けることはできないという事実を鑑みた時、諸々の事情を考慮したとしても、時には我が子に厳しい指摘をすることも必要であることは言うまでもないでしょう。

 

「私たち(親)も、ろくに勉強してこなかったし、ヤンチャだったから・・・」と、我が子に対して積極的に対応しようとしない保護者様もおられます。我が子が学んでいる学習内容なんてさっぱりわからず(笑)、「進路」に対する知識も皆無、何も言うことができないとお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが、そうであるならば、今頑張ることの大切さを、自らの「失敗談」から語ればいいのです。もっと言えば、親自らが「反面教師」となることで、少なくとも我が子に「考える機会」だけは与えられるはずなのです。

 

「我が子への引け目」や「自分自身ができなかったから」という理由で、大切な我が子の「人生の節目」を「やり過ごそう」とする行為は、後々大きな禍根を残す結果に至るのではないかと、私は大いに危惧しているのです。少なくとも我が子が成人するまでは、親は「恥を忍んで」、大切な我が子の行く末に積極的に関与していくべきだと、私は考えているのです。大切なのは「親の面子」ではなく、我が子がいかに「頑張れるのか」ということであり、親として、そのことを決して忘れてはいけないと、強く感じます。

 

親子の軋轢を恐れることなく、「決して立派とは言えない親」として、「言うべきは言う」精神を貫かんとする保護者様を、これからも応援したいと感じた火曜日の朝なのでした。

 

頑張りましょう!

生きていると、時には「十中八九負けるだろう」という勝負に挑まなければならない時があります。大手塾が跋扈する昨今において、私共のような中小塾が生き残ろうともがくこと自体が、そもそも「負け試合」なのかもしれません(笑)。

 

そんな「負け試合」に意味を持たせることができるとするならば、一敗地に塗れるまでの過程において、いかに頑張ったのか、努力したのかという「事実」の積み重ねに他ならないと、私は思うのです。

 

受験においても、「とても受かりっこないだろ!」と思われるような、途方もない難関校を志望する「劣等生」が時折散見されます(笑)。人間「口だけ」なら何とでも言えますので、大風呂敷を広げることで幸せを感じるのであれば、それはそれでよいのかもしれません。「大法螺吹き」との誹りは免れないでしょうが(笑)。

 

それでも、周囲の人間から「大法螺吹き」と認知されようとも、目標に向かって必死に努力する「劣等生」たちを、私は決して見捨てることができないのです。少ない可能性の中に一筋の光明を見出し、全てを投げうって努力を重ねる親子を、いったい誰が笑えるのでしょうか?積み重ねた努力のひとつひとつが、後年必ず花を咲かせることを、私は信じて疑いません。

 

一方で、大風呂敷を広げておきながら、全く行動が伴わない親子も決して少なくないのは大変残念なことです。ひとたび「目標」を定めたのであれば、敵を知り、己を知り、今できることを精一杯実行することが、「大風呂敷を広げた人たち」の責務であると、私は考えます。「言うだけ」だったら、誰でもできるのです。問題なのは「結果」ではなく「過程」であることをしっかりと認識すべきでしょう。高い目標を掲げつつ、必死に努力する人を「勇敢な人」と呼ぶべきであり、何もしない人は文字通りただの「法螺吹き」であることを自覚すべきでしょう。

 

勉強とは実に「公平」で、正しく学習すれば「やればやっただけ」成果が望めるものであると、私は考えています。しかしながら、「受験」には極めて残酷な一面があって、生徒個々の努力の過程など考慮されることもなく、たった一度の試験で合否が判断されてしまいます。そんな理不尽極まる現実においてもなお、こつこつと努力を重ねる子こそが、真の「勇敢さ」を兼ね備えた人間だと、私は考えているのです。

 

「結果を恐れる」人たちは、学校の先生の「進路指導」をよく聞いて、その通りに事を進めればよいでしょう。自らの意思を曲げることなく、結果を恐れず、目標に向かって必死に努力する子たちを、私は「勇敢な子たち」だと考えます。そんな「頑張る劣等生たち」を、これからも応援していきたいと強く願っているところです。

 

頑張りましょう!

毎週火曜日の三島教室の授業はS先生にお任せし、私は沼津教室にて授業を行っています。火曜日と木曜日については私が沼津教室を担当し、オンライン授業も駆使して何とか授業を回している状態で、文字通り「貧乏暇なし」の現状なのです(笑)。

 

そんな沼津教室での授業で、ちょっとだけ面白いことがありました(笑)。授業終了後の机を整理していると、何やら不思議なものが置いてあったのです。

塾生の中には「整理整頓」が極端に苦手な子が何人かおり、特に指定された宿題の存在自体を忘れてしまったり、全く異なる範囲をやってきたりして、私を大いに困らせていました(笑)。そのため、次回来塾時までの宿題をメモに書いて渡すことがあるのですが、沼津教室にて指導しているS君も、その「整理整頓が苦手の子」に一人でした。

そのメモはちょうど正方形の形をしており、用が済めば捨ててしまって構わないのですが、そのメモを利用して「鶴」を折り、塾の机の上に置いていったようなのです。

折り鶴といえば、病気の快癒やスポーツにおける勝利を願って折られるものだというのが私の認識なのですが、S君も何かを「祈って」、この鶴を折ったのでしょうか?そしてこの後も宿題が課されるたびに「折り鶴」の数は増えていくのでしょうか?(笑)。

 

S君には何か「祈らずにはいられない」事情があったのかもしれません。それが、

 

「少しでも宿題が少なくなりますように!」

 

などという祈りであれば、教える側の立場としては、少々複雑な気持ちになってしまいます。

いや、きっと、次のテストでは必ず良い点を取りたい!というS君の強い決意と祈りの結晶であるに違いない!と勝手に思い込むことにした私なのでした(笑)。

 

はなはだ微力ではありますが、塾生たちの「祈り」に応えられるよう、今後も誠心誠意指導に尽くす決意を新たにした私なのでした。

 

ところでS君、もちろん宿題はきちんとやってきたんだろうね?(笑)。

 

頑張りましょう!

 

本日も静岡は酷暑でした。ついに40度に到達してしまったようです。

 

こうなると、もはや「酷暑」と呼ぶには「生温い」ほどで、「危険な暑さ」と言った方が適切だと思います。

そんな中、本日は偶然にも「海岸清掃の日」でした。何もこんな日に・・・と感じてしまいますが、日程を計画した段階では、まさかここまで暑くなるとは思わなかったのでしょう。

 

この「海岸清掃」は、地域の自治会が実施しますが、大元は「沼津市」からの指示です。この「指示」が「是か非か」の論点については後述しますが、最終的な責任は「沼津市」にあることだけは確かなのです。

実際の清掃作業ですが、暑い中、多くの住民の方々が参加してくれていました。私は昨年も参加していたのですが、砂浜の状況は昨年よりも確実に悪化しているように感じます。空き缶や空き瓶、ペットボトルやスプレー缶などがそこかしこに散乱していました。

この日も「県外ナンバー」の車が多数駐車されており、多くの地域住民が清掃作業に従事する中、釣りやサーフィンに興じる方が少なくありませんでした。

最近では夜になるとバーベキューや花火をして大騒ぎをする輩も多く、ゴミなどを放置したまま帰ってしまうケースも多々あるようです。その残骸を地域住民がせっせと片づける構図は、

 

「なんか、おかしくない?」

 

と考えるのは、きっと私だけではないでしょう。

こんな看板も掲示はしてあるのですが、逆に言えば沼津市が行った具体的な対策はこれくらいで、この掲示内容を守っている人の方が少ないのが現実なのです。

 

本日の清掃作業の参加者は「お年寄り」が多く、五十路半ばの私などは、まだまだ「若手」の部類に入ります。朝から酷暑になることがわかっていながら、住民の「健康」を顧みることなく、何が何でも「計画通りに」事を運ぼうとする行政には、ほとほと呆れてしまいました。「住民の健康」よりも、「計画の遂行」に重きを置く人間たちとは、とても「わかりあえる」とは思えません(笑)。

 

何よりも、「受益者」には応分の「負担」を課すシステムを一日も早く構築すべきであると、強く感じた日曜日の朝なのでした。

 

幸いにも体調不良の方がいなかったようで、何よりでした。

 

頑張りましょう!

ここ数日、沼津・三島近辺は異常な暑さです。

 

「本来、そんなに暑くはならない時期に、なぜか暑い」のが「異常気象」「地球温暖化」なのでしょう。これが「真夏」ならまだしも、まだ7月に入ったばかりなのです。

 

金曜日は三島で母が「そろばん教室」を担当しており、通常であれば自宅のある沼津まで電車とバスを乗り継いで帰宅するのですが(出勤は私と一緒に車で行きます)、この暑さの中に「後期高齢者」を放り出す訳にはいきません(笑)。たまたま妻が三島近辺で用事があったため、三島教室まで迎えに来てもらうようにしました。

 

後で聞いたのですが、車中で妻と母は「昔話」に花を咲かせたようです。

 

・父が早くに亡くなり、大学生の頃から私が「父親の役割」をせざるを得なかったこと。

 

・父の死後、同居していた祖母が私を運転士のようにコキ使っていたこと(笑)。(父の死後、父の愛用していた車が残されてしまい、誰も運転する人がいないため、急遽免許を取りに行かされました。そうしたら、祖母が病院への送迎を私に頻繁に依頼するようになったのです)

 

・昔の私はスマートな「イケメン」で、よく女の子にモテていたこと(笑)。※今は見る影もありませんが(笑)。

 

・父の死後、まだ大学生でありながら、冠婚葬祭などの親戚付き合いに駆り出されていた私に、申し訳なさを感じていたこと。

 

等々、妻が知らなかったような「昔話」にまで話が及んだそうです。母が八十歳を超えた今もなお、私の塾経営の手助けをしてくれているのは、生粋の「教員気質」に根ざすものだけではなく(母は公立小学校の一教員として四十年以上勤務していました)、若くして「家長」の責任を負わさざるを得なかった、私への贖罪の意味もあったのかもしれません。

 

私にとって「父の死」は、その時期があまりにも早く、そういう意味では確かに「想定外」ではありました。一方で、両親が健在である大学生には「知り得なかったこと」を図らずも学べた時期でもあったように感じます。誰にとっても「いつか訪れる瞬間」が、私の場合は少しだけ早かっただけなのでしょう。

 

父の葬式を出し、その3年後には自宅で倒れていた祖母を発見し(発見時には既に死亡していました。私が発見してよかったと思います。母はこういう時は全く「役立たず」なのです)やっぱり葬式を出したこと、その他多くの「冠婚葬祭」に訳もわからないまま駆り出され、嫌でも「しきたり」や「親類の関係性」を学ばざるを得ませんでした。換言すれば、この時期は私にとって「無理矢理大人にされた時期」だったと、今になって思っているところです。

 

人は「元気」な時には、「死」を意識することはあまりないと思います。一方で、家族にしろ友人にしろ、ペットであったとしても、「愛する存在の死」に直面した時には、「死」に向き合うひとつのきっかけに成り得ます。「何事も、いつかは終わりが来る」という事実を意識するだけで、「今の生き方」が変わってくるのかもしれません。私に関する「昔の話」は、まさにこの点に集約されているのだと、五十路も半ばを過ぎて、ようやく自覚するようになりました。

 

世の中の皆様が、等しく、

 

「健康に100歳まで生きて、孫に囲まれながら「まあまあの人生だったな・・・」と感慨に浸りながら、幸せに死ぬ」

 

ことを心よりお祈り申し上げます(笑)。

 

頑張りましょう!

先日、沼津の救急医療センターにて大きな事件が報道されました。

 

どうやら2億円を優に超える着服をしていた経理職員がいたようで、驚くべきことにその職員が死亡した後にようやく不正に気付いたとのこと。事務長なる方が謝罪会見で滔々と事件の流れを説明されていましたが、これだけの高額の着服を長年にわたって見過ごしていた事実を、事務方の責任者としてどう考えているのか、少なくとも専ら「被害者面」してやり過ごそうとするのは、いくら何でも「無理がある」と考えるのは私だけでしょうか?

 

私自身も若い頃は医療業界に身を置いていたので、当該施設の「怪しさ」はよくわかっていました。グーグルの「口コミ」を見れば、この医療機関の評判が極めて悪いことはすぐに理解できます。「口コミ」だけで全てを判断するのは拙速ではありますが、輪番勤務していると思われる医師の「対応」を含め、その存在意義さえ疑われるような状況だったように感じます。その上で今回の「大事件」ですから、このような施設は廃止の方向で話を進め、同時に外科当番医(ほぼ朝まで対応)と同様に医師会の協力を得て、朝まで対応可能な内科当番医制を新たに設置すべきだと考えます。

 

私は大学卒業後に某医療機関の経理に関わっていましたが、やはりそこでも特定の女性職員が小口現金を一手に「仕切って」いました。細々とした現金支出については、事務長は勿論のこと、経理課長でさえ詳細には把握できず、この女性職員が数年にわたり一手に担っていました。管理職の人間たちとすれば、「全てお任せ」が最も「楽な方法」であり、漫然と長期間にわたって小口現金の管理を一人の女性職員に「任せきり」にしていたのですが、私は経理に携わった当初から、

 

「これ、簡単にお金パクれるんじゃね?ヤバくない?」

 

と率直に感じたものです(笑)。いつか「大事になる」と考えたことが、その職場を早めに「オサラバ」したひとつの原因となりました。こと「お金」に関しては、誰か1人に「全て任せる」などということは文字通り「愚の骨頂」であり、多少効率性は犠牲にしてでも、「ダブルチェック」は必須であると考えます。

 

翻って学習塾、とりわけ当塾のような「個別指導」においても同様のことが言えると思うのです。当塾のようなマンツーマン個別指導の場合、一人の講師が責任を持って一人の塾生を担当させて頂くのですが、一人の講師の塾生に対する所見は、あくまで「一講師の所見」であり、「客観性を欠く」部分を完全には否定できません。時折あえて講師の「入れ替え」を行い、他の講師の所見を求めることによって、それまで「見えていなかった部分」が露見されることも珍しくありません。講師間の意見の擦り合わせ、つまりは「客観性の確保」が、学習指導においては極めて重要だと考えています。

 

適性な資金管理も学習指導も、「客観性」は極めて重要なことだと改めて感じた次第です。

 

頑張りましょう!

とある大手学習塾が「自習室」を開放したところ、質の悪い生徒が殺到し、さながら「おしゃべりサロン」と化して、自習室自体を使用禁止にしてしまったことがありました。自習室に訪れた塾外生を入塾させる目的があったように感じますが、そうは「問屋が卸さない」典型的な例でしょう。「かき回されるだけかき回されて」、それで「おしまい」です(笑)。

 

まあ「さもありなん」という感じですが(笑)、そもそも「家では勉強しないから」と安易に「自習室」に送り出そうとする保護者側にも責任があるように感じます。家よりも自習室での学習を好む子は、本来であれば「ライバル」の目を意識しながらある種の緊張感をもって学習したり、ちょっとした質問に対応してくれる環境を求めているはずですし、そうでなければいけないのです。「勉強しなさい!」と小うるさい親からの「逃げ場所」だと定義している子たちにとっては、自習室など何の意味も持ちません。それどころか、真面目に学習する子たちの「迷惑」となっていることを自覚すべきなのです。

 

安易に「自習室」を利用しようとする前に、まずは家庭での学習環境を整えることを考えてみるべきでしょう。受験生を抱えているご家庭においては、受験生本人のみならず、ご家族の皆様のご協力も必須です。どうかご家庭でも集中して学習できる環境を整えてあげて下さい。当塾でオンライン授業を実施していた際に、ある生徒のお父様が「重いゲーム」をされていて、その影響で通信が途切れてしまったことがありました。一日中働いた後、自宅でゲーム三昧を楽しみたいお父様のお気持ちは痛いほど理解できますが、お子様の授業中だけはご配慮頂けますと幸いです(笑)。当塾では、最終的には「自学自習できる子」の育成を目指しております。そのためにはまずは家庭環境の整備が不可欠なのです。

 

上述のような家庭環境が十分に整備された上で、さらに「自習に通いたい!」という希望があれば、その自習室による「効用」は計り知れないものとなるでしょう。「自宅で勉強しない子」をただ単に「自習室に追い出す」だけでは、本質的な問題解決にはならないということだけは、知っておいて頂きたいと強く感じます。

 

勉強はある意味で「公平」です。中学レベルの勉強であれば、もともとの「才能」など関係なく、「やればやった分だけ伸びる」ものなのです。ほとんどの学力不振の原因が「学習不足」に起因する現実を鑑みて、まずは家庭における学習環境の見直しと改善を進めてみてください。

 

「自習室」が単なる「勉強からの避難場所」とならないように(笑)。

 

頑張りましょう!

私の居場所には「テレビ」というものがありません。そのためほとんど「テレビ番組」を見る機会がないのですが、唯一テレビに触れる機会があるのが「車の中」なのです。

 

本来であれば、運転中にテレビを見るのは「ダメ」であり、ほとんどの場合は「聞き流し」状態なのですが、昨夜帰り際に流れていた放送にはちょっと注目してしまいました。

 

 

平野美宇さんといえば、言わずと知れた女子卓球の第一人者で、パリ五輪の代表選手でもあります。沼津市役所にオリンピック出場を祝う看板が設置されていて、沼津と何のご縁があるのだろうと思っていたのですが、生まれてから2歳までは沼津で過ごされたとのことです。

 

そんな平野選手には妹さんがおり、同じ卓球選手だそうです。大変失礼ながら、私自身は存じ上げていませんでした。

その妹さんが広汎性発達障害を患いながらも、大学まで進学し、卓球においても成果を挙げられているとの内容を報じた番組でした。

 

元教員であったお母様が、分け隔てなく姉妹に接していたこと、我が子の障害が親である自分のせいではないかと、心を痛めたことなど、私自身も身につまされるようなお話をされていました。

一方で、妹さんが「卓球」を通じて、自らの障害に向き合い、少しずつではあるけれど主体的に社会に接しようと努力されている姿にも大変感動しました。

発達障害を持つお子さんは、特定の事象に強いこだわりを持つことが多いです。これは私の拙い経験の中でも何度も体験していることです。社会の「枠組み」という範疇において、これを抑制するのか、それともひとつの「個性」として大いに認めてあげるのか、その判断は人によって様々だと思いますが、私としては圧倒的に後者を支持します。芸術家や独創的な研究者に発達障害の方が少なくないというお話を聞いたことがありますが、まさにこの「強いこだわり」こそが、常人では成し得ない斬新な発想を生み出す源泉ではないかと、私は考えるのです。

 

多くのお子さんがいる中で、他の子と同じような「歩み」を辿ることができず、その責任を一身に抱え込んでしまう保護者様が散見されますが、そんなお子さんこそ「小さな成長」が大きな喜びに感じられるはずですし、他のお子さんが持ち合わせていない「個性」を持って生まれていることだってあるのです。

 

「オリンピックの金メダルは美宇の夢であり、私の夢ではない。障がい者と健常者の壁を取っ払うのが私の夢。」

 

平野選手のお母様のこのお言葉が、全てを物語っているのではないかと思うのです。当塾は進路実績ばかりをひたすら追い求める塾ではありません。「個性」溢れる皆様との「出会い」を、心からお待ちしております!

 

頑張りましょう!

早いもので、今年も甲子園大会の予選の季節がやって来ました。

 

今年は6月30日に開会式を実施するそうです。ここ数年あまりにも暑い夏が続いている影響からか、高校生たちの健康を考慮して少し早めに開会するようです。

 

ところで、この時期になると高校スポーツを「飯のタネ」にしようとする輩が湧いてきます(笑)。静岡においても、テレビや新聞に留まらず、県内高校野球専門の雑誌なども存在していて、それらマスコミの姿勢に、私自身は少々眉をひそめているところなのです。

 

冷静になって考えれば、将来「プロ野球」に進める子など、ごく僅かであるのは誰にでも理解できることなのです。さらに言えば、運よくプロ野球に進めたとしても、その大多数はさしたる活躍をすることもなく、数年で「お払い箱」となる極めて厳しい世界です。大学や社会人野球など「上のレベル」で野球を継続できる子だって、特定の「強豪校」と呼ばれる野球部の子以外は、ほとんど縁がないのが実情でしょう。いつまでも「夢」を見続けることは難しく、「現実」を知って自らの身の振り方をしっかりと考えることもまた必要なことなのです。

にもかかわらず、凡庸な選手を「これでもか!」というくらいに持ち上げて、あたかもプロ野球選手の如く、公共の電波や雑誌のカラーページを割いて、「祭り上げ」てしまうのです。「高校野球ファン」の方々には一定の需要があるのかもしれませんが、その「対象」が「子供」であることを決して忘れてはならないと、私は思うのです。

 

「もしかして、自分はすごい選手ではないのだろうか?」と勘違いする子、「我が子がすごい選手なんだ!」と勘違いする親を、これまでもたくさん目にしてきました。それによって大きく「道を誤ってしまった」親子も、何組もいたのです。

学生スポーツを真摯に応援する人たちやマスコミの報道を全て否定する訳ではありません。一方で、無垢な高校生を「商売の俎上に乗せる」ことには大反対です。毎年繰り返され、年々酷くなる一方の行き過ぎた「学生スポーツの商業化」を苦々しく感じているのは、果たして私だけでしょうか?

 

まあ、春夏とも甲子園大会を主催しているのが当の「マスコミ」ですからあえて問題化しないのかもしれませんが(笑)、学生スポーツの「本質」だけは決して忘れてはないと、私は考えているのです。

 

高校野球はごくごく一部の「野球エリート」のための「品評会」ではないのです。

 

頑張りましょう!