3週間にわたり、全米オープンテニスでニューヨークのフラッシングメドウズを訪れた。

今大会は、約50年前にアフリカ系アメリカ人として人種の壁を打ち破って女子シングルス初優勝を果たした故アルシア・ギブソンさんに捧げるセレモニーで幕を開けた。

全米オープンの特徴のひとつに、過去の偉大なプレーヤーを再び称えることから社会問題に問い掛けるというニュアンスがあり、スポーツがスポーツを超えるという前提がそこにはある。


緑や自然に囲まれた他のグランドスラムとは違い、全米オープンはニューヨークの喧騒の中で、ミュージカルなどのショーに負けないエンターテイメント性でもって、より華やかに行われる。


そのナイトセッションには世界のセレブが顔を見せ、マリア・シャラポアが夜のパーティを意識した赤いドレスのようなユニフォーム姿を披露すれば、ロジャー・フェデラーがこれまたタキシードを思わせる全身ブラックの衣装でプレーに華を添えた。

フェデラーのナイトセッション用のブラック衣装は、靴下の微妙な長さなどから当初は“いまいち”といっ評価だったが、そんなことは全く忘れさせてしまらいの彼の強さとエンターテイメント性溢れるプレーは観客を魅了し続けた。彼の登場にはダースベーダーの曲が流れ、ブラックフェデラーは昼間に行われたファイナルにも登場し、ストレートでセルビアのジョコビッチを下して4連覇を達成した。                  





衣装ではいつもほどには目立たなかったセレナ・ウィリアムスは準々決勝で第1シードのエナンに敗れた。その後の会見では悔しさから大人気ない態度や発言が見られ、ニューヨークのメディアでさえが批判の対象としていた。同じアメリカ人として、一流のアスリートでありながら一流の人格者であってほしい、という願いからの論調と思われたが、それでも彼女のパワフルなプレースタイルや時折見せる、いわゆる“女の子”の仕草は大いに大会を盛り上げたし、彼女のファンが多いのも納得できた。


その全豪王者のセレナと全仏王者のビーナスを立て続けに破ったエナンは、決勝でもクズネツォワを寄せ付けず圧勝した。今年の初めに離婚を経験し、人生の中での苦しさや本当の意味での幸せについて考え、一回り人間的にも大きくなったエナンは、セレナの発言にも寛容な大人の対応を見せ、プレーヤーとしても圧倒的なまでの強さで魅せてくれた。


今回の全米オープンは、スポーツの素晴らしさ+アルファの部分が如実に見えて、今まで以上にエキサイティングで意味のあるものであったし、よりテニスを好きにさせられた大会となった。


*写真は優勝後に観客に応えるフェデラー

07全米フェデラー

横綱の朝青龍が仮病を使って巡業をさぼり、モンゴルでサッカーに興じていた事件が連日のように話題を集めている。朝青龍は2場所の出場停止と4ヶ月の謹慎処分を受け、現在はうつ病の一歩手前まで精神的に弱っているらしい。


わからないことがある。朝青龍の仮病は疑惑でしかなく、確かな証拠があるわけでもないのに相撲協会が処分を下している点だ。サッカーができるくらいなら巡業に参加できるはずだ、日本の国技である大相撲の横綱には品格が求められ世間を騒がせた罪は疑惑であっても大きい、ということか。


ならば最初に提出された診断書はウソなのか?それを書いた医者はいったい誰で、訴えられないのか?確かな証拠を実は相撲協会は掴んでいるのか?


こういった疑問をしっかりと質問して、その答えを聞き出し、伝えているメディアはない。なぜ記者たちは曖昧さを排除した、こういう具体的な答えが必要とされる質問をしないのだろうか。



ヒーローインタビューをするアナウンサーの質問にも違和感を覚えることが多い。それはしっかりとした文脈のある質問をしなくてもある程度のことを言えば日本では選手が察してしゃべってくれることが多いためだ。ただそれは日本の中だけでしか通用しない曖昧なもので、違う文化の、異なる価値観を持った世界の選手には質問の意味が通じないような気がする。



日本には“阿吽の呼吸”や“以心伝心”といった言葉があり、短歌や俳句などにはすべてを言葉にしなくても想像させて本来の意味以上の表現をするというやり方がある。そしてそこに美を見出したりする。


だが、そういった“曖昧さ”はいつでも効果を発揮するわけではなく、全くもって万能ではないことを自覚すべきだし、メディアは明らかにすべき事柄が明らかになるような具体的な質問から事態の状況や選手の心情をしっかりと聞き出して大衆に伝えるべきで、それが義務であると思う。



また気になるのが、メディアの勝手な先入観とか希望的観測により作られたものである。

ある選手の英語のインタビューを訳してもらいながら使いどころを探っていたディレクターの、この選手はこういう性格の人なのでこういう感じのこと言っていませんか?という通訳への質問を聞いたことがある。しかしそれはそのディレクターの先入観であり、そうであってほしいという希望的観測なわけで、そんなやり方では選手のその時々の微妙な感情の動きをインタビューなどから視聴者が感じ取ることはなくなるだろうし、そういうやり方をしてしまうことの弊害はかなり大きいと思う。


選手だけではなく、メディアにも“世界標準”が求められるものだという自覚が必要だと思う。

AFCアジアカップで日本はPK戦の末、韓国に敗れて4位となった。


オーストラリア戦、サウジアラビア戦、韓国戦と、いずれも退場者を出して少ない相手に対して得点が奪えないという展開を嫌というほど見た。引き気味になった相手に対して日本の攻撃にはスピードがなく、変化がなく、高さもなく、相手がたくさんいる中にサイドから不正確なクロスを放り込むということしかできなかった。


中田英寿がドイツワールドカップ時にこう言っていた。


「日本には世界でも活躍できるだけの力を持った選手はいるが、その自分の力の100パーセントを出し切る術を知らない」


「絶対に勝つという覚悟や信念がない」


オーストラリア戦、サウジアラビア戦で生まれたゴールは、ドイツで揉まれ続けてきた高原の個人技と、「絶対に勝つ」という覚悟を感じさせた中沢のヘッドだけだった。そのいずれのゴールも相手に得点を奪われた直後に取り返したもので、それぞれの“個”を強烈に感じさせるものだった。



しかしそれ以外の日本は、およそ意味もないパスを回しあうだけのサッカーに終始し、疲れてきた頃にはそれがパスカットされ逆襲を食らった。トラップも不正確になっていった。

変化がないから相手は10人でも恐くなかったわけで、全体のスピードを変えるダイレクトパスや、ミドルシュートを狙ってこぼれたら死に物狂いで押し込もうとするプレーや、スピードのあるフレッシュな選手の投入といったことがなされることなく時間だけが過ぎていった。


中村俊輔は韓国戦に敗れた後に、悔しさをにじませながらも「形は出来てきた…」と言った。しかしそれは練習でやることではないかと思う。試合の中で…、ということかもしれないが、実際に試合でそれが決まらないならばどうするのかを考えて実践しなければ勝ってはいけないのではないかと思う。


オシムの「考えて走るサッカー」、「ボールと人が動くサッカー」というが、まずは日本に希薄な概念である“個”というものがあってからの話だと思う。言われたサッカーを実践しようとするあまり選手各々の個性が消えてしまっている気がする。自分がどういう場面で力を出せる選手なのか、どうすれば生きる選手なのかを選手自身が考えてやるべきで、監督ではない。



ドイツでの中田英寿はチームを機能させようとするあまり彼の個性を消していた。そしてそんな彼のプレーは見ていて応援したくなったが、魅了されるものではなかった。


少し良くはなってきたが現在の浦和レッズにおける小野伸二にもそれが言えると思う。チーム事情によりいろいろと与えられたポジションを器用であるが故にこなせてしまうのだが、それによって彼の個性も消えているし、そのやっている仕事は他にもうまくできる選手がいたりする。


その選手にしかできないプレーに人々は魅了されるし、それが集約された“個”の融合こそがチームスポーツの本質であるはずだ。





それには組織のために自分の良さを消してしまうプレーではなく、まずは自分が生きるプレー、自分にしか出来ない“個”というものが感じられるプレーをまずは考えるべきではないかと思う。

MLBもプロ野球も折り返しを迎え、オールスターゲームの話題が盛り上がっている。MLBのオールスターではマリナーズのイチローが7年連続の出場を果たし、史上初のランニングホームランを放つなどMVPを獲得した。ドジャースの斎藤隆も3者凡退に抑え、32番目に投票で選ばれたレッドソックスの岡島の登板は残念ながらなかった。


選ばれた選手たちは、パレードのように家族といっしょに車に乗り、ファンに囲まれて球場へ向かい、映画祭さながらのレッドカーペットの上を歩いて球場入りした。MLBのオールスターは1試合しか行われず、勝ったリーグにはワールドシリーズでのホーム開幕アドバンテージが与えられるため、お祭りでありながらも集められたスター選手たちの真剣勝負が見られる。岡島のように選ばれても出場できない場合もあるし、ヤンキースの松井であっても、あのレッドソックスの松坂でさえも今回は選ばれなかった。


そういう意味での希少性や演出、球場の雰囲気など、だれもが憧れるシーンがそこにはあって、まさにこれこそがオールスターと言える。



プロ野球も先日、ファン投票によって選手が選出されたが、残念ながらそこにはMLBにあるような名誉な雰囲気はあまり感じられなかった。仙台での開催ということもあり楽天の選手が多く選ばれたが、オールスターと呼ぶにはいささか不釣合いな結果となった。楽天から選ばれてよさそうなのは新人ながら7勝を上げて球界を盛り上げている田中と今年はホームラン王と打点王を狙えそうな山崎くらいだが、あとの選出はどうやら組織票なるものの影響らしい。


なぜ、旧態依然とした球界に改革を起こすべく誕生した新設球団が、プロ野球界の悪しき習慣みたいなことをしたのか残念でならない。自分のところだけ良ければ、今が良ければ、という感覚での軽はずみな行動は時代と逆行している。


普通に考えてみてほしい。あれがオールスターか?



プロ野球には何年か前からオールスターに出るよりは休みたいというような選手が出てきた。それはオールスターに選ばれることが名誉なことと感じられていないわけで、希少性という部分での配慮がないために起こっているような気がする。


まず、真剣勝負でなければならないし、ワールドベースボールクラシックで世界一になった日本チーム対日本チームのようなメンバーでなければ、選手たちも名誉なことと感じられないし、見る者を魅了することなど到底できない。


少なくとも昔のプロ野球のオールスターには夢があった。

試合数や選出や演出など、本当のプロ野球のオールスター戦となるように、すべてを見直す時期はとっくにきているといえるが、それを担うべき人たちだけがそれに気付いていない。

07全仏カメラ席から


昨年に引き続き、テニスのフレンチオープンの仕事でローランギャロスへ行って来た。やはりあの赤土のコートとそれを囲む赤いゼラニウムの花の雰囲気は、テニスというスポーツをよりエレガントにしていたし、選手の芸術的プレーとマッチして、多くの人々にとっての、いわゆる“贅沢な時間”というものを演出していた。


 編集という仕事上、ほとんどの試合を映像でしか観ないわけだが、男子の決勝戦はカメラ席や中継ブース付近から観戦する機会を持てた。


ロジャー・フェデラーはすべてにおいて万能でNBAのマイケル・ジョーダンのような存在にそのうち到達するのではないかと思っていたが、決勝でラファエル・ナダルにまたしても敗れた。

映像で見る限りは同じような球を打っているように見えたが、ミスを重ねたのはフェデラーで、フェデラーとナダルの違いはフットワークと打球音にあった気がする。

ナダルは強靭なフィジカルに裏打ちされた、まさに無尽蔵のスタミナで赤土のコートを走り周り、強烈なスピンのかかった跳躍するような、重そうな球を打っていた。

フェデラーの生涯グランドスラム達成はまたもならず、負けた後の彼の表情から、彼をもってしても、その達成の難しさが伝わってきた。


しかしこれからも目標へ向かって挑み続ける彼の姿が見られるわけで、まだまだ続きがあることに楽しみを覚えた。


女子で印象に残っているのは、エナンの赤土での圧倒的強さもあるが、シャラポアの“勝利への希求心”かもしれない。


シャラポアはあまりにも勝利にフォーカスするあまり、フランスのファンやメディアに不満を持たれていた。

自分が不利な状況下で、体が不調でないのにドクターを呼んだり、ラケットを交換したりして、一種の“間”をとったり、シュニーダー戦での観客の大声によるサーブポイント(シュニーダーが観客の心ない大声でプレーを中断したがシャラポアのポイントとなった)をやり直すことを申し出ることなく自分のポイントとした態度に対してのもので、そういうメンタリティを彼らは好まないようだった。


以前ヒンギスが、日本の選手は熱心に練習をするけれど試合の練習が足りない、と言っていた。それはゲームマネジメントやメンタルな対応のことで、試合中の頭脳の使い方と駆け引きの緊張感の体得ということらしい。


活躍からして忘れがちだがシャラポアはまだ二十歳でこれらのことを実践していると言えるし、プロとして勝利を重ねていくという覚悟がそこにはあると思う。


絶対に妥協を許さない、時には偏執的ととられる勝利への希求心は、プロのアスリートのパフォーマンスに対して切実さを与えていると思う

レッドソックス松坂が地元ボストンでのマリナーズ戦でメジャー二度目の登板を果たした。


戦前からのメディアの論調や世間の注目は、松坂vsイチローの「夢の対決再び」一色。


結果から言うと、松坂はイチローを無安打に抑え、7回3失点と好投したが打線が沈黙し負け投手となった。相手投手が良すぎた、仕方ない、という部分もあるだろう。


しかし、


「肉を切らされ骨を截たれた」 という感じを受けるのは自分だけだろうか・・・。



松坂はイチローに対してはほぼ完璧に近いような投球をしていたが、イチローに集中しすぎるあまり、その後の打者に高めに浮いた球を痛打されての失点だった気がする。


イチローとの対決はまさに夢の対決だったが、本当の意味での勝負にも勝って欲しかった。



松坂にとってシーズンの序盤にこういう経験が出来たことは非常に大きかったのではないかと思う。プレーオフに入ってからの絶対に勝たなければならない試合の中で必ず生きてくるように思う。


絶対に勝たなければならない試合で、例え一人のバッターにやられようとも、勝負をトータルで考えながら最終的にゲームには勝っている、という状況を作り出せるピッチャーがメジャーの中でも超一流なのだと思う。


松坂はそんな投手になる存在だと思うし、それがまたイチローとの対決をさらに価値のあるものにさせると思う。

世界フィギュアで、男子は高橋大輔が男子史上初の銀メダル、女子は安藤美姫が荒川静香以来3年ぶりの金メダル、そして浅田真央が銀メダルと、日本勢は最高の結果を残した。


そして視聴率は安藤と浅田のどちらが金メダルなのかを発表する瞬間に50%を超え、女子は平均で38%を記録した。これだけ娯楽が発達した現在において、この数字はお化けのような驚異的な数字であり、中継に携わった者としても嬉しいものとなった。



中継映像には最終滑走を終えてキス&クライ(選手が得点を待つ時に座っているところ、喜びのキスをしたり泣いたりするかららしい)で結果を待つ安藤と、中継映像ではない裏回線のカメラの映像にモニターを見つめている浅田が映っていて、それを同時に眺めていた。


結果が発表されると安藤美姫は喜びの叫びをあげてモロゾフコーチと抱き合い泣き出した。それと同時に浅田真央はガックリのリアクションをした後に悔し涙を流し、カメラの前から立ち去った。

いつも笑顔で演技後の感動の涙しか見せたことのない浅田真央の悔し涙はかなり以外だった。世界基準の抜群の実力と愛くるしいキャラクターに隠れていたが、当然ながらにアスリートであることを思い起こさせられたシーンだった。


しかしそのすぐ後の表彰式には、そんな事実があったことを全く感じさせない笑顔のいつもの浅田真央がいた。驚きの切り替えの早さだった。只者ではない何かを演技以外でも感じさせられた。



安藤はトリノオリンピックの惨敗から様々な苦難を乗り越えての快挙達成に、それこそ例えようもない充実感を味わっただろう。


安藤の演技の最中に実況解説席にいた荒川静香が泣き出してしまったことがあった。当然ながらまだ金メダルが決まる前の話だ。


話によると演技をしている安藤と目が合い、その際に安藤がニコッと笑顔を送ってきたらしい。金メダルをかけた演技の最中の話である。


「演技の最後のほうで一番力が欲しい場面だったから…」と安藤は話していたが、これにもただならぬものを感じさせられた。


安藤美姫も浅田真央もまだ十代の女の子である。



スポーツや芸術の世界には、時として年齢や普通の常識からはかけ離れたところに存在し得る人間がいることを、改めて感じた。

プロ野球のパ・リーグが開幕する。今年からセ・パ両リーグでプレーオフ制度が導入されるなど楽しみもあるが、正直なところ2月のキャンプに始まり、いつまで練習試合ばっかりやっとんねん、という感じである。


そして西武の裏金問題に始まったプロ野球界の最近のいきさつを黙って見ていたが、相変わらずだなあという印象が強い。


プロ野球界が大事な何かの決断を迫られている時、ニュース映像などで見るのはかなり年配のオッサンばかりなのはなぜだろうか?


今回のドラフトの希望枠撤廃も相変わらずの歯切れの悪さで先送りとなった。どこか日本の政治と似ているというか、不祥事を起こす企業のイメージと重なる気がするのは自分だけだろうか・・・。



2月いっぱいはキャンプ取材で宮崎へ行っていた。ジャイアンツとライオンズの担当で、毎日取材をしているとそれなりに愛着も湧いた。


ライオンズは、選手と報道陣の距離が近くて取材しやすく、選手たちで地元の小学生とドッチボールを企画したり、気軽にサインに応じたりと良い印象を持った。


ジャイアンツはというと、プロ野球人気低迷のこの時代でも、どこか「取材させてやっている」、「サインしてやっている」という感じがあり、現在でもジャイアンツの選手たちは自分たちが強くなれば、無条件でまた以前のような人気が復活すると錯覚しているようだった。


そういう感覚を、年齢が自分と同じか少し下の選手でさえも持っていることに少し驚いた。外部との接触を持つことのない野球エリートの集まり、という印象が残った。


人気低下や裏金問題など、プロ野球を取り巻いている問題は、現在では機能しなくなっている旧来のパラダイムに支配されていることに起因する。


野球は本当におもしろいスポーツである。プロ野球選手は本当にすごい。


しかし現在の世の中には、スポーツに限らずとも野球と同じかそれ以上のインパクトやカタルシスをもたらすものが多く存在しているし、物事に対する新たな価値観も日々生まれている。


「リアル」なものであること、「フェア」なものであること、これらが強く求められている気がする。


野球界にもさらなる進化が求められる時代であることを認識してほしい。そしてそこには瞬発力とかスピードが必要であることも早く理解してほしい。


テニスの4大大会の優勝賞金はウインブルドン以外で男女同等だったわけだが、ようやくウィンブルドンも同等になるらしい。


USオープンが1973年に男女の賞金を同額にしたのを皮切りに、今ではオーストラリアもフレンチも賞金が男女同等。フレンチは昨年からながら、ウィンブルドンが最後まで抵抗していたという。USオープンから30年以上かかったということになる。


シャラポアが以前、「私はお金のためにテニスをしている」と発言したことがあり、私はそれを、確かな現実を実直に話していて良いと思ったが、金の亡者のようなところがテニスのエレガントなイメージにそぐわないと感じられる部分もあるようで、そういうイメージが足かせになりなかなか実現しなかったというようなところもあるようだ。


アンディ・マレーなどは、そんなにお金が欲しいなら、男子のように3セット先取でやるべきとまで言ったらしい。(女子は2セット先取で最長でも3セット。男子は最長5セット)


結局は、何でも社会問題にしたがる人たちがいて、「男女平等」という時代がウインブルドンを後押ししたようだが、そればっかりでもないと私は思う。



男子にはテニスの歴史上、最も圧倒的なプレーヤーのひとりといえるロジャー・フェデラーが君臨するが、女子にはシャラポア、エナン、キム、ヒンギス、モレスモーなど個性的なスタープレーヤーが数多くいて誰が勝ってもおかしくない楽しみな対戦が多い。


そういう意味でプロとして、男子たちと同じ量の客をよべるゲームをしているし、それだけの価値があると思う。

今、女子テニスは世界規模で大きなブームになっていて、WTA(Women'sTennis Association)主宰のトーナメントでも、毎週世界のどこかでメジャーな試合が行われている。


1月にオーストラリア・オープンが終わったらすぐ東京でトーレ・パン・パシフィック、パリでガス・ド・フランス、タイではパタヤ・ウィメンズ・オープン、ドーハでカタール・オープン、カリフォルニアのインデアンウェルズでパシフィック・ライフ・オープンと、これほどまでにトーナメントが世界のあちこちで行われていてもビジネスになっているのは、彼女たちの個性的なプレーが世界中のファンを惹きつけているからだし、彼女たちのスター性が世界中でテニスファンを増やしてきているからだと言える。


賞金金額の平等は、「男女平等」とかそういう社会的な倫理的な動機だけではなく、ビジネスとしての価値を考えた結果の側面もあると言えるだろう。




選ばれた人間のみが集うプロスポーツの世界にあっても、「圧倒的」と言える者がいる。

圧倒的な者のパフォーマンスは、時に芸術的で、時に宇宙的というか天文学的な要素を感じさせる。

私は、生まれた国が違えども同じ時代に生まれた彼らの、生き様の一片であるパフォーマンスを、目の当たりにしたいと常々思っている。


初めての海外だったアメリカへはNBAのマイケル・ジョーダンを見るために行ったがチケットが手に入らず、イタリアではサッカーのチャンピオンズリーグでのジネディーヌ・ジダンを見て、上海まで行ったF1ではミハイル・シューマッハの走りをみて、ゴルフではタイガーウッズをまだ見ることが出来ていない。幸運にもテニスの仕事で目の当たりに出来たロジャー・フェデラーもその一人である。


先日の全豪オープンでも圧倒的だった。1セットも落とすことなくすべてをストレートで勝ち続けたパーフェクトな優勝だった。今年は現場に行くことはなく映像を通しての印象だが、誰も彼を止められない。


マイケル・ジョーダンが全盛の頃は、周りの選ばれたはずのプロ選手が、高校生に見えた。そんな感じさえさせるフェデラーの強さである。


彼の凄さは圧倒的な正確さにあると思う。トッププレーヤーだからこそ打てる、時には捨て身を覚悟するような「快心のショット」を、彼だけは捨て身にもならずとも日常的に打てる。


これ以上は言葉が見つからない。



プロのスポーツ選手の中には、同じ時代に生まれたからこその幸運を感じさせる圧倒的なプレーヤーが存在する。


そんな彼らを知らずにいるのは非常にもったいない気がするし、出来れば生で、多少のリスクは払ってでも、動く芸術を感じておくことがこれからの自分の人生を価値あるものにすると思う。



*画像は2006年全米オープン優勝のフェデラー

2006全米優勝のフェデラー