横綱の朝青龍が仮病を使って巡業をさぼり、モンゴルでサッカーに興じていた事件が連日のように話題を集めている。朝青龍は2場所の出場停止と4ヶ月の謹慎処分を受け、現在はうつ病の一歩手前まで精神的に弱っているらしい。
わからないことがある。朝青龍の仮病は疑惑でしかなく、確かな証拠があるわけでもないのに相撲協会が処分を下している点だ。サッカーができるくらいなら巡業に参加できるはずだ、日本の国技である大相撲の横綱には品格が求められ世間を騒がせた罪は疑惑であっても大きい、ということか。
ならば最初に提出された診断書はウソなのか?それを書いた医者はいったい誰で、訴えられないのか?確かな証拠を実は相撲協会は掴んでいるのか?
こういった疑問をしっかりと質問して、その答えを聞き出し、伝えているメディアはない。なぜ記者たちは曖昧さを排除した、こういう具体的な答えが必要とされる質問をしないのだろうか。
ヒーローインタビューをするアナウンサーの質問にも違和感を覚えることが多い。それはしっかりとした文脈のある質問をしなくてもある程度のことを言えば日本では選手が察してしゃべってくれることが多いためだ。ただそれは日本の中だけでしか通用しない曖昧なもので、違う文化の、異なる価値観を持った世界の選手には質問の意味が通じないような気がする。
日本には“阿吽の呼吸”や“以心伝心”といった言葉があり、短歌や俳句などにはすべてを言葉にしなくても想像させて本来の意味以上の表現をするというやり方がある。そしてそこに美を見出したりする。
だが、そういった“曖昧さ”はいつでも効果を発揮するわけではなく、全くもって万能ではないことを自覚すべきだし、メディアは明らかにすべき事柄が明らかになるような具体的な質問から事態の状況や選手の心情をしっかりと聞き出して大衆に伝えるべきで、それが義務であると思う。
また気になるのが、メディアの勝手な先入観とか希望的観測により作られたものである。
ある選手の英語のインタビューを訳してもらいながら使いどころを探っていたディレクターの、この選手はこういう性格の人なのでこういう感じのこと言っていませんか?という通訳への質問を聞いたことがある。しかしそれはそのディレクターの先入観であり、そうであってほしいという希望的観測なわけで、そんなやり方では選手のその時々の微妙な感情の動きをインタビューなどから視聴者が感じ取ることはなくなるだろうし、そういうやり方をしてしまうことの弊害はかなり大きいと思う。
選手だけではなく、メディアにも“世界標準”が求められるものだという自覚が必要だと思う。