小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」 -31ページ目

小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」

「ガード下学会」「横丁・小径学会」活動の報告および、予定などをお知らせします。

先輩は運動、何をしていたんですか?

先週、あるOB会、マスコミ倶楽部での会話。

後輩とラグビー談義に話が盛り上がったあと、運動が好きで同好会のテニス部に所属していたとのこと。中学時代は野球をやっていたそうですが、レギュラーになれず、高校に入ってからはテニス部に所属、大学でも同好会ながらテニスを全うしたと、まさにカラダを動かしていなければ気が済まない、という健康人でした。

で、「先輩は、何をしていたんですか」と後輩。

「う、ん? オイラかい?」

「ええ、先輩はどんな運動していたんですか?」

「う~ん、学生時代? 学生運動しかしてないよ」

「え?」と怪訝そうな後輩。

「うん、だから学生運動だよ」

「学生、運動ですか? え~、言葉としては伺ったことはあるんですが」と後輩。

いやはや、運動ってから、学生運動していたって教えてあげたんですが。

東大闘争ってのがあって、キミの先輩は正門に「造反有理」と書いてね、なんて説明しようとしたんですが、いや~古いな~と思って、止めました。

ちなみに、「造反有里」というのは当時のML派、つまりマルクスレーニン派というのが正式名称でしたが、ボクらは毛沢東林彪派と揶揄していました。それは、パリのMLも同じです。まあ、70年の615日、雨の中、なんて思い出しはじめると、とどめがなくなってしまいますが(どうして何十年も前のことって沸き出てくるんでしょう。明日は午前10時から講座、午後1時からは3時間におよぶ講座(二コマ分ですね)、その後6時から読書会――なんですが、その講座で基本単語が出てこない、ボケじじいの困った状態です)、その造反有理の学生は某広告代理店に入ってコピーライターとして活躍しました。そんな先輩もいるんだよ、ってな話なんですが……。

ちなみに、ボクは中学、高校時代は陸上部。大学生では社研(最初はそういう名前じゃなかったんですが、社研が消滅したんで、社問研から社研に変更いたしました。ちなみに、社研とは社会科学研究会の略称。社研って、社会学研究会ですか? という時代になってしまったので、念のため)

これから小堀遠州!

今日は、東急セミナー主催の講座で、上野の東京国立博物館に行ってきます。

今の時期(いまが最後?)、本館裏の庭に入ることができます。その裏には、応挙館があり、小堀遠州の茶室があります。

天気もいいし、いい野外講座になるでしょう。

といいながら、初校を出さなけりゃならない案件と、レイアウト見本をつくらなきゃならない案件、編集上詰めなきゃならないもろもろがあるため、きわめて厳しい状況! 講座参加者に申し訳ありませんが、講座修了後、ただちに出版社に直行です。
次回、第10回「橫丁・小径学会」遊歩は、神宮の森を見納める――を行います
開催日:決まり次第お知らせいたします。
ナビゲーター:小林一郎
集合場所:JR山手線原宿駅」改札口前
集合時間:午後2時
内容:明治神宮内苑―グリーンベルト(もはやない?)―渋谷川(暗渠)―神宮外苑(バロック・パーク)を遊歩します。
東京オリンピック開催を契機に、現在の国立競技場が解体されます。高さ制限を撤廃し、巨大な施設を建設することが予定されているため、これによりバロック・パーク「神宮の森」が壊されることになります。最後の「神宮の森」を見届けたい、この目に留めておきたいという遊歩です。
*参加費無料。一緒に遊歩しましょう。

「横丁学会・三ノ輪遊歩」は下準備なしですが……
遊歩のナビゲーターをされる場合、事前に資料を集め、読み込み、ルートを考え、実際に歩いて時間を計り、さらに遊歩後の飲み屋についてもあたりを付けておく――という作業をこなしています。このなかで一番大変なのが時間の割り振り。早く終わってしまっては飲み屋が開いていないし、遅くなれば「早く飲み屋に入りたい!」なんぞという小生のようなものも登場します。ということで、大変な負担をお掛けしながらなんですが、久々の小生のナビゲート。実は、な~んにも下調べもせず、ルートも考えず、飲食店の当たりも考えず。一応、三ノ輪は毎日ツーキニストで通っている、ということと、大学の公開講座なので歩いている、とうこともあるんですが、まあ行き当たりばったり、というのもいいのでは、と自分自身で勝手に納得しています。
ただ、今回の、三ノ輪遊歩、戦災の地図を用意いたしました。東京大空襲の地図です。これによって三ノ輪が路地街になっている原因を探ります。とはいえ、実はこの被災地図を見れば分かりますが、三ノ輪橋の駅の付近は3月9日夜の空襲を受けていません。ということで、関東大震災後の帝都復興区画整理地図、さらにこれだけでは三ノ輪地区の説明ができないため、江戸切り絵図(駿河屋版)も用意いたしました。ここまでくると、三ノ輪の武家地が明治維新以降、桑茶令を受けて、桑畑にしたのかどうかが大きな要素として浮かび上がってきます。
今回の遊歩は、最初に少し時間をいただき、三ノ輪という地域の「場」について説明させていただき、なぜ〈路地街〉になったのか、それぞれテーマをもって歩いていただこう、と考えています。――ということで、ただ飲みに繰り出しているだけじゃないでしょう。

『ライオン看板――昭和の成熟と喪失』

「ライオン看板ってなに?」と聞かれたとき、指を指しながら「ライオン看板? あれだよ」とこたえる。すると、「ふ~ん」とうなずく。それに「いいだろ」と同意を求めると「うん、いいね」とこたえる――と、これだけで終わってしまうライオン看板をネタに一本話を書き終えたのが2週間近く前。その初校(著者校)が戻ってきました。ネタとしては面白いんですが、時間を経て、もう一度読み直すと……。初めての(紙媒体を電子化したものではない)電子書籍になります。

来週も天気がよさそう!
第9回「橫丁・小径学会」三ノ輪遊歩を行いますよ。
「横丁・小径学会」三ノ輪遊歩
開催日:11月23日(土・祝)
ナビゲーター:小林一郎
集合場所:JR常磐線「南千住駅」西口改札前
集合時間:午後2時
内容:三ノ輪ラビリンスを遊歩します。
*参加費無料。一緒に、遊歩しましょう。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」

明治の建築物がいっぱい残っていた!

いままで、建築物を観る際、面的なロケーションで考えていました。たとえば、東京駅赤煉瓦駅舎の斜め前が中央郵便局。その斜め前が、丸ビル。道路を隔てて隣が新丸ビル。その前が日本工業倶楽部会館。倶楽部建築です。その隣が興業銀行(いまはなんていいましたっけ?)で、さらに隣が東京銀行協会――といったようにです。これらのたてものを面で捉えていくと、位置関係も含め判りやすい、ということになります。

で、年代。これは、都内ほとんど、大正末期から昭和初期。大正12年に震災に遭い、ほとんどが崩壊、焼失し、その再建の震災復興事業の最終年が昭和5年なので、基本的には昭和5年まで。しかも、外装材を観るとそのころ流行していた建材が使われているため、なにも事務所に帰って資料に当たるまでもない、というのが現状です。

ところが、このほど、こういう面的な捉え方ではなく、時間軸で整理紹介して欲しい、と某版元からの依頼。いや~、時間軸で掲載するとみな昭和初期にかたまってしまって、書籍にならないですよ、と小生。まあ、やってみるだけやってみますけど、といいながら翌日パソコンを使って並べてみると、なんと明治のたてものがごっそり! ボクの頭のなかより、パソコンで整理したデータのほうが正しいんでしょうね。いやはや、結構、誤解というのはあるものです。

ということで、みなさん、都内には明治時代につくられた建築物がまだまだ残っています。古い、とか時代がかっているといった印象をもつかも知れませんが、こってりとした西洋建築も観てください。(ボクは毛深い、とはいいませんよ)

闘わないル・コルビュジエがいる?

ル・コルビュジエ展でコルビュジエのデッサンを見ました。すると、闘うコルビュジエにしてはずいぶん線が細く、ひ弱ともいえる線を描いていました。線に力強さも、闘う姿勢も感じられません。と、ここまで書いていて、ふと思い出したことがあります。美術出身、なかでも彫刻の方に出会ったり、インタビューする機会があると、必ず住所氏名を書いていただいていました。なかにはうん? と怪訝な顔をされる方もいらっしゃいましたが、それでも書いていただくと(ただ、字を書いて、といっても何を書けばいい? ということになるので住所氏名を書いていただいていました)、力強い字を書く方が多いという傾向がありました。絵画の方にわざわざ書いていただいたことはありませんでしたが、絵画の方は線が細く……、と書こうとパソコンのキーボードを叩いていたら、結構、みなさん力強かった(なんのことはない、彫刻も絵画も変わらない?)こんなところで、名前を出すと申し訳ありませんが、彫刻の超著名な方はボクのようにグシュグシュッとした字で、この性格でその造形ができる? なんて思ったことがありましたが……。勝手なことをいって申し訳ありません。話を戻して、コルビュジエの場合、本当は闘い続けるような強い人間ではなかったのかも。サロンデ・ボザールと闘ったり、荒い気性でアイリーンの別荘に嫌がらせの絵を描いたり、というのではなく、ほんとうは気弱な人だったのかも、というのがル・コルビュジエ展で得た小生の印象でした。

いたずら描きも作品?――ル・コルビュジエ展

ル・コルビュジエ展が昨日(11月4日)まで、上野の西洋美術館で開催(常設展示場)されていました。
常設での展示ですので、ちょいと数点コルビュジエの絵を飾ってお茶の濁す程度、と思いながら入ると、いやはや、力のこもった展覧会で、これは特別展として入場者を募ってもいい、とても内容の充実した展覧会でした。
というのは、最初の吹きぬけのホールには、コルビュジエの造形作品。この吹きぬけホールを囲う展示スペースには、初期のキュビズム、ピュリスムから始まり、コルビュジエの作品を四期に分け(最後はメタモルフォース)展示――しているんですが、なんと、チャディガールの「開いた手」の造形版も展示されていました。う~ん、誰でもいきなりあるものをつくるわけではなく、同じテーマで、さまざま試みるんだよな~ということを再確認させられます。
で、一番驚かされたことは、カップ・マルタンのアイリーン・グレイの別荘に描いた、いたずら描きが写真で展示。いや、いったい能書きにはなんて書くんだ? とみると「E1027に描かれたル・コルビュジエの壁画」ですって。
E-1027というのはアイリーン・グレイの別荘の住所のことで、別称名を通称「E-1027」と呼んでいました。コルビュジエはアイリーンと親しくしていて、というのは、旧態依然の装飾で飾られた様式建築を排したコルビュジエのたてもののなかには、インテリアという室内における新たなスッキリとしたデザインの装飾が必要だったからです。
とはいえ、コルビュジエは、アイリーンの女性関係がゆるせず、アイリーンが外出している間に壁面いっぱいに同性愛を揶揄するいたずら描きを描き、以来、二人は目と鼻の先に住みながら(コルビュジエもカップ・マルタンが気に入って、アイリーンの近くに別荘を建てていました)仲違いに至った、といういわく付きの絵です。それが、なんと有名人が描くと作品になっていました。
小生も、これから名をなせば、いたずら描でも作品になるかも! 期待していてください!!

なお、小生の学生時代(40年前。古いな~)、西洋美術館は月一回のみ無料(常設展しかやっていない時)でしたが、現在は常設展のコーナー設けられているため、第2、第4土曜の2回、無料で入れるとのことでした。展示のほか、コルビュジエのたてものを見て歩くだけでも、有意義ですよ。
*ル・コルビュジエは画家です! 午前中に絵を描き、午後、建築設計をしていました。

113日は何の日?

また、今年も113日がやってきました。これは文化の日。ということで、前後何週間かを含め、東京都では文化週間、文化月間として都内の未公開施設等の開放、および民間あるいは区施設への施設開放依頼を実施しています。

ということで、113日は紛れもなく文化の日なのですが、わが家では毎年3パターが入り乱れていました。

ボクは「文化の日」で、明日はお休み。という話になると、母親は「そ-、明日は明治節だったのよね」と自分で理解できる用語に差し替えます。昔も休みだったそうですが、その日に小学校に行くと、紅白の饅頭をもらえたそうです。「オレは都会だから靴で行ったけど、お母さんは下駄だろう」。ここでひとしきり、都会と田舎の論議があって、と毎年同じ話の繰り返し。互いに大した所にゃ住んでいない、というかどっちにしたって、都心からみりゃ隅田川を越えた東側。五十歩百歩の話です。

すると、「あんたらね~」と祖母が参加。明日は「天長節だよ!」と譲らない。そりゃ、明治生まれのおばあちゃんにとっては、天皇=明治天皇。いちいち明治なんていわなかったんでしょう。ということで、「天長節」「明治節」「文化の日」と入り乱れていました。

と、いっても、明治節、といっていたおッ母さんはもう一年も病院のなか。明治節も天長節も関係ない脳天気に日々を暮らす生活です。