頑張れオンボロ食堂奮闘記 ― ロクとクゥーのまかない哲学 ― -6ページ目

頑張れオンボロ食堂奮闘記 ― ロクとクゥーのまかない哲学 ―

町はずれの少し古びたレトロカフェ食堂。木の温もりと柔らかい光に包まれ、落ち着いた大人向けの空間です。読書やひとり時間も楽しめ、厨房ではゆるい日常が流れています。

今日も頑張って生きましょ。」

新しい一週間、  
最近は昼間は暑いぐらいですね。
体に気をつけて


ぼちぼちと、自分の歩幅で。

混ざりきらないままでも、いい。

今日も、ゆっくりでちょうどいい。

カウンターの端は、空いてます。


     — 甘さは、あとから来る —


深めの皿に、ひとつだけ沈んでいる。


形はそのままなのに、

輪郭だけが、少しやわらかい。




横に、小さく切ったパンが添えられている。


ロクは何も言わずに置く。


湯気だけが、ゆっくり上がっている。


「これ、崩していいやつですか」


クゥーがスプーンを当てる。


すっと入る。


「あ、これ……」


言いかけて、止まる。


しばらくして、横のパンに手を伸ばす。


カリ、と小さな音がした。


スープに少しだけ浸して、口に運ぶ。


「……あれ」


さっきより、少しだけはっきりする。


でも、何が変わったのかは言わない。


ロクは火を見たまま、何も言わない。


カウンターの端、いつもの席。


最初の一口では、何も起きない。


二口目で、少しだけ違う気がする。


パンを挟んで、もう一度。


さっきの一口が、少しだけ遠く感じる。


客は手を止めて、

皿の中を見ている。


何の味だったのか。


それはまだ、ここにあるはずなのに、

うまく掴めない。


「……まあ、うちはこんなもんです。お腹も心も、また明日で。」


今日の注意書き


・甘さは、あとから来ることがあります

・はっきりしたと思っても、すぐ戻ります

・最後の一口が、一番わからないかもしれません






      — 音は、そこで止まる —


焼き台の上で、皮が少しだけ持ち上がる。

ロクは箸を入れず、
そのまま見ている。

しばらくして、
小さく、はじけた。

「……」

ロクは何も言わない。

それが合図だったのかどうか、
そのまま裏返す。

音は、続かなかった。


「今の、聞こえました?」

クゥーが振り返る。

ロクは火を見たまま、
少しだけ首を傾ける。

「さあな」

クゥーは笑う。

「絶対鳴りましたよ」

でも、もう一度は鳴らない。

「一回だけって、ずるくないですか」

ロクは答えない。
火を、少しだけ弱める。


皿がカウンターに置かれる。

コト、と音がした気がする。

箸か、器か、
それとも、ただの気配か。

カウンターの端、いつもの席。

客は少しだけ手を止めて、
それから何もなかったように箸を入れる。

外で、誰かが通った気がする。

それも、確かめるほどではない。


「……まあ、うちはこんなもんです。
 お腹も心も、また明日で。」


■今日の注意書き

・音は一度しか鳴らないことがあります
・聞こえたかどうかは、人によります
・静かな日は、だいたい見逃します




1、動き出した季節


開店前。油はまだ眠く、店の中は静かだった。
勝手口の隙間から外を覗いていたクゥーが、小さく声を弾ませる。

「……あ、ロクさん。また一組通ったよ。
 

なんかさ、みんなちょっとだけ眩しいね」

桜並木の下を、親子が歩いていく。
少し大きめの鞄が、背中で揺れていた。

ロクは手を止めず、銀色の肌をした魚に刃を当てる。

「……ああ。今日からか」

包丁の音が、いつもより少しだけやわらかく響いた。



2、言葉にならない背中


「お祝いの日なんでしょ?
 もっとこう、わーっと賑やかでもいいのにさ」

クゥーが振り返る。

「ロクさん、なんか静かだね」

ロクは小さく鼻で笑って、視線を落としたまま答える。

「……賑やかなだけが、門出じゃないだろ」

指先で魚の身を確かめる。
脂はきちんと、季節を越えてきていた。

「手を離すと、軽くはなる。……そのぶん、空く」

それ以上は続けない。
まな板の上で、音だけが静かに残った。



3、明日のための「春」


「……難しいことは、やっぱりわかんないけどさ!」

クゥーは勝手口を少しだけ開ける。
入り込んできた空気を、大きく吸い込んだ。

「明日はさ、今日頑張った人が、ホッとできるやつ出したいな。」

外では、新しい靴がまだぎこちなく地面を踏んでいる。

ロクは並べた魚をひとつ持ち上げ、光にかざした。

「ああ。……明日に備えて、火加減をもう一度見ておけ」

「合点! 最高の“春”、仕込もうね!」

その声の向こうで、
少し遅れて歩く大人の足音が重なる。

桜のトンネルを抜けた先、
オンボロ食堂の暖簾は――


かすかに、春を連れて揺れていた。