1、動き出した季節
開店前。油はまだ眠く、店の中は静かだった。
勝手口の隙間から外を覗いていたクゥーが、小さく声を弾ませる。
「……あ、ロクさん。また一組通ったよ。
なんかさ、みんなちょっとだけ眩しいね」
桜並木の下を、親子が歩いていく。
少し大きめの鞄が、背中で揺れていた。
ロクは手を止めず、銀色の肌をした魚に刃を当てる。
「……ああ。今日からか」
包丁の音が、いつもより少しだけやわらかく響いた。
2、言葉にならない背中
「お祝いの日なんでしょ?
もっとこう、わーっと賑やかでもいいのにさ」
クゥーが振り返る。
「ロクさん、なんか静かだね」
ロクは小さく鼻で笑って、視線を落としたまま答える。
「……賑やかなだけが、門出じゃないだろ」
指先で魚の身を確かめる。
脂はきちんと、季節を越えてきていた。
「手を離すと、軽くはなる。……そのぶん、空く」
それ以上は続けない。
まな板の上で、音だけが静かに残った。
3、明日のための「春」
「……難しいことは、やっぱりわかんないけどさ!」
クゥーは勝手口を少しだけ開ける。
入り込んできた空気を、大きく吸い込んだ。
「明日はさ、今日頑張った人が、ホッとできるやつ出したいな。」
外では、新しい靴がまだぎこちなく地面を踏んでいる。
ロクは並べた魚をひとつ持ち上げ、光にかざした。
「ああ。……明日に備えて、火加減をもう一度見ておけ」
「合点! 最高の“春”、仕込もうね!」
その声の向こうで、
少し遅れて歩く大人の足音が重なる。
桜のトンネルを抜けた先、
オンボロ食堂の暖簾は――
かすかに、春を連れて揺れていた。