映画を観ているみたいに小説が読める イメージ読書術 -13ページ目

映画を観ているみたいに小説が読める イメージ読書術

小説の世界に没入して
“映画を観ているみたいに” リアルなイメージが浮かび
感動が胸に迫り、鮮やかな記憶が残る。
オリジナルの手法「カットイメージ」を紹介します。
小説を読むのが大好きな人、苦手だけど読んでみたい人
どちらにもオススメです。

 2021.1.30 カットイメージ・トークセッション(ZOOM)のテキストは、夏目漱石『三四郎』の冒頭部分。

 事前に5ページのテキストを送り、4ページ目までカットイメージ作業してもらう。

 セッションの場では、そこまでのイメージを交流し、疑問点などを話し合ったのちに、最後の1枚をその場でカットイメージ作業し、さらに話し合う。

 

 夏目漱石の『三四郎』は、熊本の高等学校を卒業した三四郎が、東京帝大入学のために上京する汽車の車内から始まる。京都で乗り合わせた若い女の顔立ちと肌の九州色(ようするに色黒)なところが三四郎の気に入って、ちらちらと見ている。

 途中で乗ってきた田舎者のじいさんが、女の隣に座った。二人が話しているのを聞いて、三四郎は女の身の上を知ることになる。

 

 それはさておき、じいさんが降りた後、三四郎が弁当を食い出すと、女はふと席を立つ。便所へでも行ったのだろうと思っていると、やがて戻ってくるが、自分の席につかずに窓から外を眺め出した。

 その辺の記述がよくわからない、ということでテキストをみんなでよく読んでみたが、やはりわからない。

 

 

 とくに「三四郎の横を通り越して」とあるが、女は自分の席から通路へ出入りするのに、三四郎の“前を通る”必要はあるが、“横を通る”必要はない。

 そこで、「三四郎の横を通って」というのは、「三四郎の前を横切って」という意味かと解釈すれば、何とかつじつまは合う。

 しかし、最後に女が窓から首を出すときの立ち位置はかなり不自然である。元の席に戻って窓から外を見ればよさそうなものだ。

 最初の座席位置を、三四郎は窓側、女は通路側と解釈すると、この最後の立ち位置は不自然でなくなるが、そうすると、自分の席から出入りするのに、三四郎の前を横切ることさえ必要なくなってしまう。また、戻ってきたときに、「元の席に帰ら」ず、「正面に立っていた」というのと矛盾する。

 けっきょく、明確な結論は出なかった。

 

 また関連して、もうひとつ疑問があった。

 このあと、女が窓から顔を出していたために、三四郎がちょっとした失態をおかすのだが、その際、「女の窓と三四郎の窓は一軒おきの隣であった。」との記述がある。

 しかし、図でわかるように、2つの窓は隣になるのがふつうで、「一軒おき」というのがわからない。

 明治時代の車両の写真をあれこれ見てみたが、窓が3つあるものは見つけることができなかった。

 

 これらの疑問は、イメージがあいまいなまま流して読んでいると、あまり気にならない。

 カットイメージで読むと、心の中で明確な映像にしていくので、こうした点にも気づくようになる、という一例であるが、映画化するときには、やはり問題になってくるだろう。

 これらの疑問点について、何か明快な解釈をお持ちの方がいれば、ご教示いただきたい。

 

 ※参加者の感想は、2021.3.30トークセッション報告②で

 

 

 前に、読んでから観た東野圭吾『手紙』の考察を書きましたが、映画ばかりかドラマも含めて、詳細に比較している記事を発見しました。

「のべる村」さんが書いた、次の記事です。

【手紙】原作小説と映画・ドラマの違いを比較!演出やキャラクター設定にズレはある?東野圭吾

【手紙】原作小説のあらすじや感想ネタバレ!結末についても考察!東野圭吾

 私のブログでも触れた、主人公の目指す夢の違いとか、設定の異なる点を比較表にしてわかりやすく解説しています。

 原作や映画、ドラマ、それぞれのよさを大切にしながら、ひじょうに丁寧に分析していて、感服しました。

 後の記事はネタバレ満載なので、小説をまだ読んでない方や映画を観ていない方は、要注意。

 前の記事だけなら、小説、映画、ドラマ、いずれにも興味を惹かれて、読みたい、観たい、と思う人が多いと思います。

 ドラマは、2018年に単発ドラマで放送されているのですね。

 私も、ドラマを見てみたいと思いました。

 

 

 前のブログ原稿を書き終えたその日に、映画『重力ピエロ』(2009 森淳一監督作品)を観た。

 

 

重力ピエロ

 

 

 兄「泉水」役の加瀬亮くんと弟「春」役の岡田将生くんは私のイメージ通り。

 というより、小説を読む前に予告編こそ観ていないけれども、映画のカバー写真は何度か見ているので、自然とそのイメージで読んでいったのだと、ふり返って気づく。

 

 その点で、配役を知らずにいた父の小日向文世さん、母の鈴木京香さんは、まったくイメージと違う。

 それだけに、小説を読んで自分の中に描いていたイメージが、より鮮明になった。父はもっと強面の感じだし、母はもっと若々しくて爽やかな感じである(鈴木京香さんごめんなさい)。

「夏子さん」の設定は、原作よりもストーカー色が濃く出ていて、演じている吉高由里子さんは、NHKの朝ドラに主演する前なので、こうした役どころが多かったのだろう。

 

 考えてみれば12年前の映画で、当時デビューして間もない岡田将生くんの演技は、飄々として清々しく、「春」らしさをよく出していると思う。

 

 脚本はおおむね原作をなぞっているが、兄と弟の当意即妙のやりとりはかなり割愛されているので、ストーリー展開のスピードにあまり違和感はない。

 

 だが、原作を読んでいない人が、ミステリーとしての謎ときにどこまでのめり込み、展開に意外性を感じるか。それは私にはわからない。

 

 また、前のブログで書いた、兄弟の絆、両親との絆がどこまで観ている人に伝わるかというと、その点は物足りない。

 兄と弟が互いを思う気持ちは出ているが、直感で生き、ブレない生き方が魅力の父と母の人物像は、今ひとつの気がする。

 

 タイトルになっている、重力を超越するピエロの場面は、最後の方に出てくる。空中ブランコの演技の実写だが、「無重力」感はイマイチである。父と母のセリフでそれを語ってはいるが、せっかくなので、もう少し映像処理してピエロの姿としてその感じを出してほしかったと思う。

 小説を読んだときには、その点を頭の中でアレンジして、「無重力ピエロ」(これが本来のタイトルであるべきか?)のカットイメージをつくっていたのだと気づく。

 

 今回は「読んでから観る」体験だったが、私は小説も映画も楽しめた。 

 逆はどうか。

 

「観てから読む」ならば、謎解きの答えは知っているので、ストーリー展開を追うよりも、兄と弟の超絶技巧の会話をじっくりと楽しんでいく読み方を勧めたい。

 

 

 

重力ピエロ(新潮文庫)

 

 前回書いたとおり、物語の相当部分を占める兄と弟(あと父も)の超絶技巧の会話に、脳の疲労が大きく、長くは読み進められない。

 しかし私は例によって、兄弟の会話も「カットイメージ」を意識しながら読んでいった。二人のセリフとともに、彼らの表情、しぐさを思い浮かべ、声のトーンも感じるようにする。

 すると、読書を中断している間も、頭の中では二人の会話がイメージでリピートしている。ことばそのものよりも、その表情、しぐさ、あるいは声の音色として。

 やがて、お互いに揚げ足を取り合っているようなやりとりが、子犬のじゃれ合いのように思えてくる。そこに浮かび上がるのは、二人の間にしかない情の通い合い、深い信頼、そして強い絆。 

 彼らの強い絆の大もとは、その父と母という市井の、しかし偉大な人たちである。

 

 十代から売れっ子モデルになるほど美貌に恵まれた母は、撮影で立ち寄った仙台で、一介の地方公務員である父に一目惚れし、仕事をすべて捨てて押しかけ女房となった。それは、父の根っこにある「人としてのすごさ」に気づいてしまったからである。

 そして泉水と春、二人の兄弟を産んで、早くに亡くなるまでいつくしみ育てる。

 

 また、父は「春」の誕生を「神」との対話で自ら決断し、それに対して一片の後悔もない。そして、癌の病床にあっても、いつも軽口をたたきながら、息子たちを信じ、見守る。

 

 この夫婦は、それぞれに理屈抜きの直観を信じて人生の決断をし、それを貫いて、いささかもブレることがない。

 空中ブランコから離れ重力を超越して宙を舞うピエロのように、社会通念や「他人の眼」という重力から自由に生きる彼らの姿が、私たちの憧れを掻き立てる。

 

 私たちはこんなに強く生きられない。でも、生きられたらいいのに……。

 それが、この小説の感動の源ではないか。

 結末の解釈はさまざまあるとしても。

 

“読んでから観た”映画『重力ピエロ』については次回に。

 

 

 伊坂幸太郎の初期作品はかなり読んだが、直木賞候補となった『重力ピエロ』はまだだった。

 映画もあるのは知っているが、先に観るのが嫌で、どちらも手をつけずにいた。

 この機会に、両方続けて「読んでから観てやろう」と思い、小説を読んだ。

 

 

重力ピエロ(新潮文庫)

 

 

 仙台の街で起こる連続放火事件とその近くに現われるグラフィティーアート(カラースプレーのラクガキ)の謎。

 その謎ときに挑む、遺伝子情報会社社員の兄(私・泉水)とラクガキ消し業の弟「春」。

 「春」は道行く女たちを振り向かせずにはおかない天性の美貌と、ピカソ(ピカッソと春は言う)の生まれ変わりかという画才の持ち主だ。

 

 読んでいくと、兄と弟「春」の当意即妙のやりとりに圧倒される。

 例えば、こんな感じである。

 

「もったいぶるなよ」

「もったいぶるのは、知っている者の特権なんだって」

「急かすのは、知らない者の特権だよ。もしくは兄貴の特権だ」

「おしなべて兄貴というものは、早く生まれただけのくせに、偉そうなんだよな」

「マイケル・ジョーダンは子供の頃から兄貴にバスケで勝てなかったんだぞ。彼の23という背番号は、45番をつけていた兄貴のせめて半分でも上手くなりたいっていう思いからつけられた」有名な話を、私はわざわざ持ち出してみる。

「それってさ、結局、弟のほうが優れていた、っていう例え話じゃないの?」

                   〈伊坂幸太郎『重力ピエロ』新潮文庫版 P56-57〉

 

 お互いにああ言えばこう言うの巧みな切り返し。

 その中に次々とくり出される有名人の金言やエピソード、科学的知識のうんちく……。

 頭の回転が早すぎて、これはもう超絶技巧といってよい。

 

 おもしろいが、読んでいるこちらも頭を使うので、仕事で疲れた帰りの通勤電車では、長く読むことができない。

 ある程度読んだら、本を閉じて頭を休める。続きは、また明日……。

 というわけで、中盤過ぎまでは読み進むのに難渋した。

 しかし、後半に差し掛かり、さまざまな伏線のつながりが暗示されてくると、もうやめられず、最後まで一気に読んだ。 

 読み終えると、この兄弟と父母4人家族の深い情愛の絆に胸がふるえる。……

 (②につづく)

 

 

“映画を観ているみたいに小説が読める”イメージ読書術」(カットイメージ・リーディング)を活用したトークセッション(ZOOM)のご案内です。

 

 1月30日(土) 9:30~12:00 

 

 カットイメージのセミナーに参加経験のある方が対象です。

 初めての方は、1/23(土)の体験セミナーからご参加ください。

 

 このトークセッション、いつもはテキストをクローズにして、申込みの方にお送りする形ですが、今回は、予告します。

 夏目漱石『三四郎』の冒頭です。

 ただし、ふつうの読書会とは異なるので、参加申込みされた方には、テキストをお送りし、カットイメージの作業課題をお伝えします。

 『三四郎』冒頭をテキストとして、カットイメージによる読みの体験を深め、交流して行きます。

 詳しくは、HP「教育エジソン」の「セミナー/研修会」のページをご覧ください。

 

  

 昨年、カットイメージの体験セミナーを受講して下さったⅠさんが、『超簡単!イメージ読書術』を読んだご自身の体験を、素敵な文章にまとめてくださいました。

 

 もともと本好きなⅠさんですが、友人たちと読書会をしたとき、自分の発言がなぜか、周りのみんなとずれている空気を感じて、読むことが苦痛になっていったそうです。 

 また、もともと映画を観ることが苦手だそうです。登場人物の区別がつかなくなったり、ストーリーを見失ったり……。

 そんなⅠさんが、『映画を観ているみたいに小説が読める 超簡単!イメージ読書術』を手にとったものの、そのタイトルにも戸惑いを感じ、読み始めても、カットイメージの作業の面倒さにめげて、中断していたそうです。

 でも、気になっていたⅠさんは、私のセミナーが実施されることを知り、お友達を誘って受講して下さったのです。 

 その結果……。

 

 その続きは、ぜひご本人の文章をお読みください。

 以下のリンクからどうぞ。

 

 

 

 高校の国語教師である私は、自分が中学生・高校生だったころから国語の授業に疑問を感じていました。

 一方的に説明するだけの先生は言語道断。それでも当時はけっこういました。

 生徒たちに発言を求める先生でも、突飛なことを言う生徒には困り顔。最後にできそうな生徒にあてて、うれしそうに「正解です」と言って終わりです。

 けっきょく、先生が求める答えを探すだけだからつまらないし、読む力もつかない……。

 

 それならお前はどんな授業をするのだ? そう自問自答して長年、試行錯誤と失敗の連続で実践を重ねてきました。

「カットイメージ」はその最大の成果ですが、他にもいろいろなアイデアが生まれ、生徒たちと取り組んできました。

 私のホームページ「教育エジソン」の「国語授業」のコーナーに一部を紹介しています。

 

 その中で、今回お知らせしたいのは、「夢診断士になって夏目漱石『夢十夜』を読む授業」。

 高校1年の国語教科書に載っている『夢十夜』(第一夜、第六夜)を、もちろん、最初は「カットイメージ」で読むのですが、その後の展開に工夫を凝らしました。

 

 生徒一人一人が夢診断士となって、2つの夢を「夢分析」し、「診断書を書く」という課題。
「夢は深層心理の表れである」という考え方で、小説に描かれた夢を吟味することにより、結果的に作品の読みを深めるのがねらいです。

 

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

 

「百年待っていてください」と言って死んだ女を待ち続ける『第一夜』では、自由に夢診断させた結果、漱石自身の恋愛体験や恋愛観にメスを入れた生徒たちの作品が目を引きました。

 

 明治の代(現代)の護国寺で仁王像を刻む運慶の姿から芸術の意味を考えさせる『第六夜』では、夏目漱石自身の“相談”を受ける設定を用意しました。

 実際に漱石が直面していた、「大学教授になるか、新聞社専属の小説家になるか」という悩みに、生徒たちが『第六夜』の夢を診断してアドバイスします。
 

 グループでの作品交流やクラスでの発表、ロールプレイなど多彩な学習活動に、生徒たちは嬉々として取り組みました。

 事後のアンケートでは、作品の読みが深まっただけでなく、自分を見つめるきっかけになったという感想も見られました。

 

 次の論文にまとめてあるので、興味のある方はご覧ください。

 夢診断の手法を用いて夏目漱石『夢十夜』を 読む 授業

 

 今後、「カットイメージ」のセミナー(ZOOM)」では、『夢十夜』を体験教材に取り入れて行きたいと考えています。

「カットイメージ」については、拙著をご覧ください。

 

 

 

美女読書 浦沢凛花さんの『イメージ読書術』紹介動画

 

 

 東野圭吾の名作『手紙』。

 弟を進学させたいばかりに、強盗殺人を犯してしまった兄。

 その弟を苦しめる「殺人犯の弟」というレッテル。向上心を持って努力しても、社会の中で人生の夢が次々潰されていく現実。

 

手紙 (文春文庫 ひ 13-6)

 

 東野圭吾の小説として、謎解きの要素がないわけではないが、基本的にはミステリーではない。 引き込まれていく物語であり、読者は主人公の視点に立って、彼の無念さを味わう。

 そのイメージ体験を通して、「犯罪加害者」とその家族という、新たな視点から社会を考えさせられる。

 ふだん私たちは、犯罪者を別世界の住人として見ている。彼らと距離を置きたいという気持ちを正当化し、彼らの苦しみには気づきにくい。

 そうした現実を丁寧に描き、私たちの心に問題意識の波紋を広げる作品である。

 

 この小説は、山田孝之主演で2006年に映画化されている。その映画を、最近、観てみた。動画配信サービスはありがたい。

 

手紙

 

 「観てから読む」ことで気づく映画の物足りなさとして、小説で丁寧に描かれていた人物の心の襞が単純化され、説得力を失う、ということがある。

 たとえば、主人公が殺人犯の弟であることを知ったときの、周囲の態度の変化である。

 それを知ったからといって、誰も露骨に彼を差別しようとはしない。しかし、無言で距離を置き、彼は孤立していく。

 その微妙な心理は、小説ではリアリティを持って描かれるが、映画では、「会社としても、やっぱり困るんだよね」といった、露骨なセリフになってしまう。

 これは、ある程度、映画の限界であろう。脚本・演出と演技者の努力の余地は否定しないが。

 

 映画を観て、とくにがっかりしたのは、主人公の夢が「ミュージシャン」から「お笑い芸人」になっていたこと。

 しかし、この設定は、映画の結末で生きてくる。

 厳しい世間の風に耐えて生きていかなければならない、主人公(とその家族)の現実は変わらない。しかし、そこに一筋の光明が差し込むような、感動的な結末になっている。

 小説は小説、映画は映画。そう思ってみると、この結末には素直に感動できた。

 

 やはり原作と比較して観ると、その映画のよさを見過ごしてしまう。

 小説がよいものであればあるほど、「読んでから観る」ときには、「原作と比較しない」、「映画を映画として楽しむ」心がけが大切だと感じる。