3週間の南半球出張シリーズの最後は南アフリカでした。

南アフリカの「ヨハネスブルグ」で、インターネットを探すと「凶悪都市」という雰囲気がひしひしと伝わってきます。実際のところ、普通の現地人も、
Central Business District
(CBD)と呼ばれる中心街には足を運ばないし、外務省の海外安全情報によれば、CBDには「行くな」と勧めています。



さて、どんなところなんだろう?と、恐る恐る向かったヨハネスブルグ。実際のところ、CBDには一歩も近づかず出張が終わりました。



CBDにあった、ビジネスは郊外にほとんど引っ越してしまっていたのです。現地の人に聞いてみると、残っているのは「政府関連だけ」と言われました。アメ
リカは郊外に会社をど~んと建てるのがかなり普通なので、アメリカの郊外のビジネス団地と、ヨハネスブルグの郊外のビジネス団地ではたたずまいはあまり変
わりません。実際私が訪れたオフィスの窓の外にはきれいな緑の広がるゴルフコースが見渡せ、家々が散在していて、その部分の写真を撮ってアメリカの中西部
の郊外です…と言われたら信じてしまいそうな景色でした。



そして、人々のライフスタイルもアメリカの郊外と変わらないのです。ショッピングモールに出かけてお買い物。ヨーロッパやアメリカのブランド品のお店が並
び、その一角にはスーパーも併設されていて、人々は車でお買い物を楽しみにやってくると言う訳です。モールを歩いている人の人種は千差万別。南アフリカが
コスモポリタンな街であることを改めて知らしめてくれました。



アパルトヘイトが撤廃されたのが1994年。そこから20年近くが経ちます。街中には様々な色の人達が混じり合っています。けれども、実際のところ「経済
力」という見えない壁が厳然と立ちはだかっているという気がしました。私が見たのは、おそらく昔で言うところの白人社会です。もちろんいろいろな肌の色の
人達が入り交じってはいますが、経済力のある人の社会です。そして、そういうところには低所得層は入り込みません。それなりの移動手段がないと来られない
場所であり、その玄関にはセキュリティが幾重にも目を光らせているからです。



同僚が高速道路を通っているときに、くぼんだところにひしめいて家の建っている場所を指差しました。

「あそこのタウンシップはとても悪いところ。絶対行かない」と。

それに、飛行機の滑走路の本当にすぐ隣り、飛行機がタッチダウンする寸前のもの凄い爆音のするであろう場所に、マッチ箱の様な建物が暗く沈んでひしめいていたのも目にしました。



肌の色による差別はなくなったけれど、富の再配分は起きていないし、貧しい人はそのまま貧しく貧しい地域にひしめいているのです。



どうして、CBDが勢いを失ってしまったのか…それは、裕福な人と貧しい人が混じり合う場所だったからだと思います。虐げられて来た人が「仕返し」を正当
化し、それを嫌った富裕層が逃げ出した…そういうシナリオだと思います。富の再配分が暴力と略奪というカタチで行われてしまった残念な結末です。



そして、この富の再配分…あるいは低所得者層を中流に押し上げる力が働きにくい背景は二つある様に思いました。

一つは教育、一つはHIVです。



人口の7割方が残りの白人に比べて教育の機会も投資も得られずに育って来てしまっています。それなりのビジネスポジションがあったとしても、その仕事に就
けるだけの教育が備わっていないのです。そして、いざ教育…となっても、非常に高いHIVの感染率が仕事の幅を狭めます。例えば看護学校の入学にしても、
応募者の3割がHIVポジティブで入学することが出来ない…そんな現実があるのです。



南アフリカはHIVの感染率が世界で一番高いところです。おそらく低所得者層の感染率は高所得者層より高いでしょう。



失業率が3割、HIVポジティブの人が2割程度いると考えられていて、教育がある人が少数派という現実…ここから中流層を作って行く経済力と教育のための投資と仕組みを作り出すのは容易なことではないと…1週間程度滞在しただけの私でも想像がつきます。



結局のところ、「無知な人々を作ってしまった」というアパルトヘイトの政策のツケを今利息付きで払っているのだろう…と、思います。





それでも、人々はポジティブでこれから国が栄えて行くであろううきうきした気分がありました。日本が直面している問題とは種類が違うので、もちろん比較は
出来ないことは十分承知ではありますが、南アフリカが乗り越えなければならない問題に比べれば日本の問題は小さい様に思うのでした。



「どうせ」としらけている場合ではない…



私はそう思いますし、世界にもっと目を向けてもらいたいなと思うのでした。



アルゼンチンの次は今週はブラジルにいます。サンパウロからリオ・デ・ジャネイロに移動し、またサンパウロに戻ってきています。

ヨーロッパ風のアルゼンチンからサンパウロにやってくると、急な丘にひたすら雑然と、もう本当に雑然とコンクリートの塊みたいな建物がずらずら並んでいるように見えて、その違いにまず圧倒されました。

そして、スペイン・イタリアといったヨーロッパ系の移民が大多数のブエノスアイレスと比べると、ブラジルは、人々も町並みも一緒、本当にごちゃごちゃの人種が混じっています。

けれど、何日か過ごすうちにごちゃごちゃに混じっているように見えて微妙に分かれていることが判ります。たとえばスターバックスに行ってテーブルを眺めると、日系は日系で固まっているし、ヨーロッパ系はヨーロッパ系でまとまっています。そういう割と値段の高いところでのアフリカ系の割合はやはり低いのです。

まぁ、似たような人種で固まってしまうのはある意味当然です。昔は人種が主な理由で区別していたでしょう。けれど、今は肌の色で固まっているのではなくて、その人の持つ「価値観」や「文化」が似ている人が集まって、その結果が似たような人種が集うという順番になっているのだと思います。

昨日はサッカー博物館に連れて行ってもらったのですが、英語のナレーションで非常に興味深い歴史の説明をしていました。サッカーといえばブラジルの国技状態で、貧富の差なくみんな大好きですが、最初はヨーロッパ系の移民のみ、サッカーのユニフォームもシルク、スタジアムに集う人たちは思いっきり着飾っていたのだそうです。すなわち、富裕層の社交場だったわけです。

それが、ドイツ人とアフリカ系の混血の選手が最初にプレーすることを認められ、そこから徐々に混血やアフリカ系の選手が入ってくるようになっていきました。けれど、そのままどんどん融合が進んだかと言うと、そんなことはなくて、また混血・アフリカ系の選手は排斥される時期がありました。けれど、経済発展によって混血・アフリカ系の人たちの声を無視することが出来なくなり、完全にオープンになっていったという歴史を経ているのだそうです。

そして、次のコーナーではヨーロッパ文化への傾倒ばかりだった黎明期から、「ブラジル固有の文化」という自己認識を経て、ブラジル人であることを高らかに誇らしく歌い上げるという文化コーナーに続きます。


いわゆる発展途上国というのは、富裕層は果てしなく裕福でほんの一握り、残りは貧困という二極化が特徴です。経済発展と共に変化してくるのは「中流の増加」です。このブラジルのサッカーの歴史も、ブラジル固有の文化に対する自信も、経済発展と中流の増加なくしてはありえなかった。。。そう、博物館の展示は語っていました。

そういうことを理解したうえで、改めてコンクリートの塊で本当に無秩序に並んでいる建物を見てみると、ブラジルと言う国で融合と成長という壮大な実験が、自然的に行われているような気がしました。すなわち、コンクリートなどの無機質なものさえも、この大地で成長・発展の流れに取り込まれているような気がしました。

この経済発展が続き、ブラジルの人々の幸せを願う政策で国が続けて安定していけるようにと、願いながらブラジルを後にすることにします。
仕事の関係でアルゼンチンのブエノスアイレスに来ています。南米のほかの国の同僚も一緒にいて、昨夜は一緒に街中にあるタンゴショーをやっているカフェに出かけてきました。

夕暮れ時、子供をつれた家族が町をあるいています。それを見て、同僚が
「家族連れが歩いてるんだから、歩いていけそうだね」と言いました。

ホテルからは「歩いていける距離ではあるけれど、お勧めしない」と言われたのです。そして通りに出て、タクシーを拾おうかどうしようか。。。というときに家族連れの歩行者に出会ったというわけでした。

我々は歩いて出かけることにしました。もちろんバッグはたすきがけで前に架けて両手には何も持たずにいける格好です。

そして、我々は人ごみのある大通りを選んで歩きました。距離で言えばものすごく遠回りです。

金曜日の夕方、そして翌週の月曜日は急遽祝日になったので、3連休の前の日でもありました。また、ブエノスアイレスでカーレースが行われるとあって、そのための交通規制も始まっていて、なんだか町は浮き足立つような雰囲気がありました。

途中、一緒に歩いていた同僚が「地図が見たいなぁ」といって、「このお店に入ろう」とさっと高級そうなお店に入りました。道路で地図を広げてあからさまに観光客であることを知られたくなかったからです。お店の奥のほうで地図を広げ場所を確認してから、また道に戻りました。

金曜日はごみ収集の日なのでしょう。大きなゴミ袋がいろいろなお店から歩行者道路の脇に投げ出されています。そして、それを漁っている人が実に沢山いるのでした。

彼らは道路をごみで汚すことなんて気にしませんから、結び目を解かれたゴミ袋からごみが外にあふれ道路や歩道に広がっています。

我々はそのごみをよけ、歩道にある穴に気をつけ、進んでいきました。

タンゴのショーは1時間半程度のノンストップ、とてもステキなショーでした。

お店を出る頃にはそろそろ11時という時間でしたが、町はまだにぎわっていました。
「これなら歩いて帰れるね」と、判断し、帰りも歩いて帰ることにしました。2ブロック毎に警察官が立っていて、町の治安に目を光らせていました。

行きがけよりも更に多くの人たちがゴミ袋を漁っていました。ゴミ収集車がごみを回収していましたが、既に散乱されたゴミ袋ですから回収した後も多量のごみが残っていて、回収した効果はあまり感じられない状況でした。


ごみを漁る人たちと我々を隔てる貧富の差は歴然と厳然と存在します。でも、彼らがそちらにいて我々がこちらにいる、これって「たまたまそこに生まれた」というファクター以外の何ものでもないんですよね。

医療関係に連なる仕事をしているので、場所によってそしてお金を持っているかどうかで、受けられる医療が全く違うことも知っています。これに関して言えば、お金を持っていても、いる場所によって受けられる医療が違います。

たまたま日本にこの時代に生まれたから受けている恩恵って計り知れなくて、これは明らかに自分の努力じゃなくて、恩恵としかいい様がないってこと。。。一歩普段の世界から離れると、思い出すことが出来ます。

タンゴの甘美な調べと共にそんなことを思った夜でした。
案じた通り、ボランティア先の患者さんは今朝旅立たれていかれたそうです。

Active dying phaseといって、自然に亡くなって行くときには、順番に臓器の機能が止まって行くのだそうです。昨日連絡があり、彼女がその段階に入ったということでした。大体3日位続くということでした。

ですので、「今日か明日か明後日か」ということは判っていたのですが、そのフェーズが余り長く続かなくて良かったです。最期は安らかであったということでした。

たった2回の訪問ですし、袖振り合うも他生の縁程度の関係ですが、少し心に穴があいた感じがします。

ボランティアコーディネーターの人はトレーニングのときに言いました。

「一人の人にずっと引きずられる気持ちは理解できるけれど、あなたを必要としている人がもっと沢山いることを忘れないで。」と。

そうして次の患者さんにまたお会いすることになります。

さようなら、そして安らかに。
2週間というのは、実はホスピスのサービスを受ける患者さんの平均サービス稼働日数なのです。本来なら、ホスピスは「余命半年」から受けられるサービスなのですが、ほとんどの人はぎりぎりまで回復に向けた治療を受けているってことなんですね。

ケアセンターで療養している認知症の女性を訪問する様になって、10日位です。

ホスピスボランティアコーディネーターから今日メールがあって、「週末にかけて具合が急激に悪くなったので、もしも今日訪問する予定だったら見合わせておいて」という連絡がありました。

最初にお会いしたときには、4月の半ばになってもおそらくお会いするだろう…と、そんな先のことではない…とある程度確信したのですが、1週間後のこの前の土曜日にはベッドの上で静かに横たわられていて、月曜日には「訪問は見合わせて…」となっている。


もしかしたら今度の土曜日は訪問しないかも知れません。


その急激な変化に、ちょっとついて行けない自分がいます。

「平均は2週間」

そうトレーニングを受けたのです。頭では十分判っているはずなのです。にも関わらず「早く具合が良くなるといいですね」と、思いそうになり、慌てて、「もう具合が良くなることは多分ないんだった」と思い直し、そうやって旅立って行くんだと…理解しようと努力しています。

でも、なんだか、頭で理解する所と別の次元で何かが私を揺さぶるのです。本当に袖触り合わせた程度の係わり合いしかない人の最期にこんなに動揺しているというのは、自分でもびっくりです。



なかなか開始出来なかった、ホスピスのボランティアですが、遂に1週間前から訪問を始めました。

日本で言うところの特別養護老人ホームに当たるケアセンターに住んでいらっしゃる方です。
毎週1回訪問するプランです。とはいえ、認知症が進行し、基本的には意思疎通は出来ません。

初めて訪問したときはテレビルームで他の方々と一緒にテレビを見ていました。しばらくお部屋でご一緒し、「お元気ですか?」と、手を握ったりしてきました。割とお元気そうでした。

2回目にあたる昨日も同じ感じかなと、出かけたのですが、施設の方が
「疲れているので、今日はベッドで寝ていますよ」とおっしゃる通り、ベッドの上で静かに横たわっていらっしゃいました。1週間でなんだか小さくなった気がしました。

意思疎通は出来なくても、直ぐに帰ったりはせず、30分はご一緒しよう…と、自主ルールを決めているので、ベッドのそばに座り、遠隔でレイキを流して帰ってきました。


患者さんとご一緒の静かな30分誰にでも必ず訪れる最終章のことを考えました。

どれ位体がだるいのだろう

認知症で外界といわゆる普通のコミュニケーションは出来なくても、その人の認識する「現実の世界」というのがある筈で、それはどんな世界なんだろう。

もしも、ベッドで寝るだけの状態になったとして、家族や施設の職員さんがベッドのそばにいるのは一日の時間の中でも短い時間。ほとんどひとりぼっちなんだなぁ…


お部屋には昔の写真がボードに沢山貼られています。家族に囲まれて元気な頃の写真達でした。その姿と今ここで静かに横たわっている姿のギャップが、私に改めて「この世を去る」ということを考えさせました。正直少し怖く感じました。

ボランティアというのは「与えること」ですが、私は与えることによって「もらうもの」の方が与えるものより大きいと思っています。こうして、人生の最終章にいらっしゃる患者さんと一緒に静かな時間を過ごすことで、私が愛する人達の誰にも必ず肉体の終わりは訪れること…それは、絶対にやってくること…それを思い出しています。普通の毎日が愛おしいこと…そうやって輝く時間はそれほど長くはないこと、そんなことを改めて教えてもらった気がします。



昨日のブログの話の続きです。

社内で「次」のポジションに行きたい場合は、「今を頑張らないといけない」という逆説的な話をしました。

これって本当にそうなんだと思うんです。

今、部下に「昇進させてくれ」と、会う毎に言ってくる人がいます。数々の「あんな貢献もした」「こんな貢献もした」とメールを送って来て、挙げ句の果てには「昇進させてもらえないなら、他の仕事も考える」とまで言ってきます。

そこまで上司に言えるというのはよっぽど自分に実力がある…と思っているからに他ならない訳です。でも、冷たい言い方をしてしまうと…そこまで実際に「出来る奴」だったら、本人がどうのこうの言う前に昇進させてる気がするんです。

それから、もうひとつ…ちゃんとした組織というのは、人に余り依存していない筈なんですね。もちろん構成員で雰囲気も結果もがらっと変わってしまいます。でも、根本的に「誰かがいなくなったら立ち居かなくなる」というのは会社組織としては失敗で、どんなに重要な人でも「替えは存在する」ベキです。だから、「他の場所に仕事を探す」と、すごまれても、ちゃんとした組織であればある程「そうですか。仕方がないですね。新しいところでも頑張ってくださいね。」と言う反応になる筈なのです。


それと真逆に、「今」がやりかけで「これから面白くなる」ってところで、「次」のオファーが来るってことも案外起こります。その時に、「まだ余りにやりかけなので」と、断る人もいます。これって、今やっていることで余りに実力が発揮出来ているからこそのオファーなんだと思うんですね。

「次でもきっと頑張ってもらえる」という…。

とするならば、「出来る人」っていつでも、「やり残し感」を持って異動しているんだろうと思います。



アメリカの最近の若者は、「やり残し感」というのは全くなくて、この「出来る人」の異動パターンが「当然」だと思っている節があります。すなわち、1~2年でどんどん移って出世して行くのが「当たり前」なんですね。「長期的にこういうことを成し遂げたい」といった想いとは無縁です。

私は個人的には、まるで「チェックリスト」みたいに「これやったから次!」という感じで仕事を渡り歩いて行くのはどうかと思います。そういう人の下で働きたいとは思いませんから。


まぁいろいろ難しいですね。
そんなこんなをつらつら考えると、志を高くもって今日の業に励み、人に親切にする…レイキの五戒を実践するのがやっぱりあるべき姿かな…なんて思うのでした。


トルコとポーランドへの出張中に、中欧および東欧のビジネス担当者と同行しました。彼女は元々フランス人ですが、今はトルコに住んでいて、中東欧のビジネスの責任者をしているのでした。

彼女は別のビジネスからオファーがあり、同じ地域ですが別のビジネスの責任者に内定しそうなタイミングでした。新しいビジネスの方が現在のビジネス規模より大きく、彼女が最終的にやりたい仕事のポジションから考えると、この移籍は一歩前進と言えます。ですので、彼女も本当にこの移籍を喜んでいましたし、私も正直に移籍内定を喜びました。

ワルシャワで最後の夜、そんな伏線もあり、ワインを傾けながらそれぞれのキャリアディベロップメントの話になったのでした。彼女はこの新しいポジションのオファーが来る前に、二つポジションの話があったと言います。その二つのポジションはいずれも彼女がやってみたいと思っていた仕事でした。一つは、今我々が担当しているビジネスの西欧の責任者。ビジネスのサイズが中東欧とは桁違いに大きいです。その責任者が「後継者」として、彼女を押していたのでした。そしてもうひとつは、彼女の出身である、フランスのビジネスの責任者です。フランスのビジネスユニット全部を担当するということで、こちらは地域が狭いけれど担当するビジネスが広がります。こちらのポジションの方は彼女の直属の上司(すなわち私の上司でもあります)と、次のキャリアポジションとして話をしていたものでした。

彼女は言いました。
「結果的に、そのどちらのポジションも空きができた時、『応募してみないか?』というオファーすらなく、違う人が選ばれていて、そのアナウンスメントを知って愕然としたのよ」

それ迄の内密な非公式な話は何だったのだろう?…と、彼女はその度に憤慨したそうです。もちろん、その憤慨する理由はある意味最もなことでもありました。単に話をしているだけではなくて、人事のマネージャーと話しをしたり…そういう努力を彼女もしていたからです。

それに対して、私は彼女に言いました。
「私のゴールは、信頼出来る同じゴールに向かって思い切り頑張ることの出来るチームを作って、全力で頑張れたらどこまで行けるか見てみたいんだよね」と。

もちろん、あるポジションをやってみたいという気持ちは私の中にもあります。このブログで出て来ている仲間達と一緒に仕事をするという環境に自分を置きたいという希望があるからです。でも、彼女の様に、「西欧の責任者」とか「フランスの責任者」という「次」の為に具体的に動こうという感じは余りしないのでした。

「ナイーブかもしれないけどね、もちろん『どんな方向に行きたい』という意思表示はしておかないと行けないと思うけど、特定のポジションのために自分が一生懸命就職活動をするって言うのは、何となく自分の柄に合わない気がするの。今迄のキャリアの中で自主的に行動したのは2度。アメリカに移って来た時と、アメリカに移ってからビジネスを変わった時。それ以外は全部ポジションのオファーがあって、それで異動したんだよね。だから、次というのもそのために活動を沢山したいとは思わないし、そのためにごますりとかネットワーキングとかしようとしても上手じゃないから」

私はこう言ったのでした。ビジネスの結果と関係ない、「社内活動」が重要視される、現在の職場環境のルールに則るとしたら、「こんなことをしています」みたいな社内広報活動に80%位の時間と労力を使うべきなのです。でも、それが例え出世のルールだとしても、私は「見ている人は見ている」方を信じることに決めたのです。本当に、自分のために活動するの苦手ですし。

そんな話をすると、彼女は言いました。
「確かにね。私も振り返れば、オファーされたポジションばっかりだわ」

結局、彼女は前述の二つのポジションを得たくて、いろいろと活動をしたけれど、得られず、今、オファーを受けたポジションへ異動して行こうとしています。彼女にしても、「見る人はみている」ところから、新たなチャレンジを得たのでした。


就職活動はしないと仕事にありつけません。もちろん。
けれど、自分を売り込む…それってすごく難しいなぁと思います。特に社内では難しいです。やっぱり、今している仕事に真剣に打込んで、そこから道が拓けて行く…そんな風に考えるのがいいな…そんな風におもったのでした。

そして、目の前を見れば、ビジネスの担当も部下も増えちゃってますので(笑)、彼らとどこまで信頼出来るチームを作れるか、そして、そのチームでどこ迄行けるのか…まずはそれをすることだ…と改めて思ったのでした。






仕事の関係でこの1週間ほどトルコのイスタンブールにいます。ここはオスマントルコの中心地、往時の栄光を偲ぶいろいろなモニュメントがあります。トルコはその観光資源で観光立国という気がしますが、そうでもなく近年トルコは経済の発展も著しく、急な斜面の丘にへばりつくように家が立ち並び、建築もラッシュのようです。

平日はオフィスのある郊外にいましたが週末はブルーモスクやトプカピ宮殿にほぼ近い、昔で言うところのコンスタンティンノープルにあるホテルに泊まっています。最上階にあるホテルのレストランでライトアップされたモスクを見ていたら、多くの人がこの地にたって、世界に思いを馳せていたのだろうな。。。というのをひしひしと感じました。

ある人は戦地に赴いた家族の安否を気遣い、ある人は貿易船に乗っていった人を想ったことでしょう。そして、いろいろな国からやってくるもの珍しい文物に魅惑され、そういうものがある場所はどんなところだろうと想像力を働かせたに違いありません。

そんな人から見たら、このところ毎月どこか外国に出かけている私の生活なんて夢のまた夢信じられないことでしょう。往時の居酒屋(というかイスラム教なので酒場があったか定かじゃありませんが)で多くの話を語り、あるいはハーレムに通されて異国の話を姫たちに語ったかもしれません。

経済発展の波が来ているという、特有のわくわくそわそわしている現代人の気持ちと、昔の人の世界に思いを馳せた気持ちが私の中で交錯し、なんだか特別の感慨に浸りました。

それと同時に、世界を想った昔の人たちは、私みたいなことをしてみたいと、夢を語り、結局その夢は達成できた人はほんの一握りだったはずです。たまたま、今のこの時代に生まれて、こういう仕事をするようにめぐり合わせがあって、世界中を飛び回り、歴史と文化の交差点で、トルコの熱い紅茶を飲んでいる。。。自分がなしえることなんて、コントロールできることなんて本当に一握りだと感じます。

だからこうして、この場所にこうやって生きていることに感謝して、思う存分楽しもうとおもうのでした。

世界は広いです。けれど、そこにいる人たちはそれほど違わない。。。世界中を旅させてくれている、私の実感です。

2012年、私的には海外移住をしたりといった、そんなに大きく周りを取り巻く状況が変わる年ではない…と、なぜか思っていました。いえ、今でも思っています。

去年の末に買収先のビジネスをほとんど海外支社に移管してしまいましたし、今年は少し腰を落ち着けて、市場を開発するためのプログラムだの仕掛けだのを考えて作って行ける年になる…と考えていたのでした。

有り体に言えば、あんまり忙しくなく考え事の出来る年になるかな…と。

まぁそう言う時って、そうは問屋が卸さないんですよね(^^;)

私の上司は就任してから2年間の間組織をいじることをしませんでした。非常に不思議なレポートの構造になっている上に、上司自身が状況に振り回されているので、ちっとも能動的に「何かをする」という組織になっていなかったのです。

そして、「何となく仕事がなくてあてがわれている」といった状況の元ディレクターやら、何となく仕事がないマーケッターという、「あの人達なにしてるの?」という、一昔前には日本にも沢山いた「窓際族」の人も2人いたのでした。

(窓際族ってきっと死語ですよね)

さて、

年末に会社が全社的に早期退職制度を実施しました。アメリカの退職制度は、そもそも「この年齢になったら終わり」という日本の退職年齢に相当するものがありません。働きたかったらいつまでも働いていられるのです。ですので、早期退職制度というのは「この条件を満たす人の中で手を挙げてください。早めにちょっと色つけますから」というものなのです。

当社はアメリカの会社ですが、20年30年勤務するのはざらなので、大学時代のアルバイトから起算して、30年とか勤務していても、まだ50代と言う人達がざらにいるのです。そういう人達は、それなりに安定した経済基盤も築いているので、こういう「プラスα」で案外手を挙げちゃうんですよね。

ということで、「ええ、この人にいなくなられたら痛いじゃん」みたいな人が結構辞めていきました。そして、前述の窓際元ディレクターも手を挙げたのです。

実を言うと、我々の中では、「おぉ遂に!」という、こっそりとハッピーなイベントでした。元ディレクターで降格し、そして最後窓際的になっていたとしても、人というのは、頂点にいた頃の「権威」を忘れることは出来ないのだと思うのです。仕事をしないくせに邪魔…有り体に言うとそんな感じだったのです。降格してもそれほど大幅に減給はされていなかったでしょうから、それも我々の神経を逆なでしていました。

それに合わせて、上司が急に「組織」に手を加え始めたのでした。窓際の人に気兼ねをしていたのではないと思うのですが、彼が居た事で自分が作りたい組織構造にしにくかったというのはあった様です。私だったら、さっさと追い出しちゃいましたけどね…。

といういろいろなことが起こり、上司に直にレポートだった2人が新たに私のグループとなり、買収先で一緒にやって来ていたマーケティングの人もグループに入ることになりました。部下が一人から一挙に4人に増え、買収先の事業展開だけではなくて、現在コアとして行っている事業の全てに関わらないといけなくなってしまった…ということなのです。

あらあら…。

今年は、そんなに大きな職域+部下もらう予定じゃなかったんですがねぇ。

でも、これって「信頼をベースにしてチームでどこまでやれるか」というテーマに対して、調理する食材を与えられたってことか…と、改めて思い直しました。

どう調理するか、組織の夢はどこにあるのか…探って行きたいと思います。