久しぶりにKさんの話をしようと思います。

私が戻って来た時にもり立てておくよ…と言って、新しいポジションのオファーを断ったKさんですが、その後も次々といろんな所からオファーが入ってくる様になりました。

「Kさんが冷や飯を食っている」と言う情報が周りに知られる様になっていったからです。

一方、Kさん自身が留まって仕事をしようとしている方にも限界が見えて来ていました。Kさんが所属している所の上司はLさんの上司にべったりとくっついていれば生き延びられると言う信念で動いている人だったのです。信念とは言えないかもしれません。単なるコバンザメですから。Lさんの上司ににらまれたKさんを快く思う筈もなく、Kさんが建設的な提案をしても、その提案の内容すら吟味出来ず塩漬けにしたのでした。

そして、ある時他のビジネスの海外推進部の話がKさんの所にやってきたのです。Kさんは私と一緒に仕事をする中で日本だけに小さく縮こまっているより、外と繋がることを覚えました。ゆくゆくはそういう仕事をしてみたい…と思っていたのです。
そういうことから、この話はパスするには惜しいものでした。

私はKさんから、その仕事の打診があった時、Kさんはそちらに移るべきだと思いました。そして、「他にも候補がいるんだけどね」とKさんは言いましたが、私は彼が最終候補になると直感しました。

「最終候補になってオファーもらうと思うよ。その時は承諾しなよ」
私はそうKさんに言ったのでした。

Kさんは、その海外推進部の仕事が5年も10年もやって行く様なポジションではない…と言いました。
「だから、戻って来た時にきちんとした経験を積むことが出来ていて、それで一緒に仕事をする時もっと出来る奴になっていられると思うんだ」

Kさんは自分のグループを作ってしまうとそれを捨てて行くのは心苦しいと思っているのです。この海外推進部の仕事はどちらかと言うと一匹狼的な動きをする仕事です。それもKさんの考えの中にありました。

こうしてKさんは私の予想通り海外推進部の仕事を得て、一緒に働いた部門を去っていきました。私は本当に良かったと思っています。

仕事柄国際線の飛行機に長時間乗ることが多いのですが、その間仕事はしないことにしています。ほとんどの人は映画とかを見て過ごしていますが、ぎっちり映画を見るのもそれほど好きでないので、私は映画を見たり見なかったりです。

寝るのもそんなにぐっすりと長時間眠れませんので、結果的に手持ち無沙汰で消灯された暗い中じっと座っている…という状態になる訳です。

そんな時間を過ごすのに、最近は静かに心を落ち着ける時間として使う方法を覚えました。

まずBoseのノイズキャンセリングヘッドフォンで飛行機の雑音を打ち消します。
ネックピロー(首枕)で頭を支持する様にし、体を出来る範囲でリラックスさせます。
音楽を1曲選び、それをリピートにする様にします。(これは次の曲に行って意識が曲に引っ張られるのを防ぐためです)
ゆっくりと鼻から息を吸い、口から吐く様にします。
遠くを見る感じで浮かんでくるイメージを見続けます。このイメージは山の上からのご来光だったり、満天の輝く星空だったり、その時々で違いますが、浮かんで来たイメージに任せます。このイメージ、風景だけじゃなくて人のイメージの時もあります。それはそれでそのままイメージを続けます。

後は何も考えず、沸き上がってくる想いをただ受け止めます。


案外いろんな想いが沸き上がってきます。それが案外他の人に関することが多いです。一生懸命頑張っている気持ちに素直に共鳴して泣けて来たり、そういう想いを感じられる自分に感謝したり。一人で孤独に息づかいをしているというよりは、まるで共通の意識にアクセスして共鳴している感じです。その安心感とか活かされている感謝とかそんな断片的な想いを、本当にそのまま味わいます。

周りは暗いですから泣けて来ても気づかれませんし、(嗚咽する程泣きません)映画見て泣いてる人もいますしね(笑)。周りに人が沢山いるのも、案外共通意識にアクセスしているという点では助けになっているかもしれないです。

これを始めてから飛行機に乗っている時間が、昔程は苦痛じゃなくなりました。でもまぁ、お尻は痛いし窮屈であることに変わりはないんですけどね。


今回の帰りに使ったDidier MerahのBlessing of the LIght http://www.didier-merah.jp/musicindex/00002/
お久しぶりです。今福岡からで、出張で2週間弱日本にいます。
もうすぐアメリカに戻りますが、今回も様々なことがあり、様々なことを学びました。

その中で、今まで興味深く観察してきたことのひとつ結論がつきました。

人が自分から「やりたい」と思っていない限り恐怖で脅してみてもうまくはいかない

ということでした。このブログにも度々登場してくるLさんの上司のことです。

年末・年始にかけてLさんの上司のグループから3人がいなくなりました。そして、メンタルで休む人が現れました。根本の原因は一人の人につながっていきます。言わずもがなのLさんの上司です。

Lさんの上司の前任者の私のところに、まぁある意味「お別れのご挨拶」も兼ねて、声がかかります。まるで人事部のexit interviewのように、私が理由を聞く機会がありました。(Exitインタビューというのは、誰かが自ら進んで違う道を選んでいくとき、その去り際に人事部の担当者が『なぜ他へ行くのか』という動機を聞く機会です。去っていく人は概ねそこで本心を語ります。)


一言で理由をまとめるなら「信用が失われた」ということでした。
発生のパターンはこうです。
Lさんの上司と辞めていった人の間には1層中間管理職がいます。Lさんの上司が、その中間管理職に言いたい放題のプレッシャーをかけます。そこで、その中間管理職がLさんの様に動じない人だったらその下の人たちは、Lさんの上司の圧力を受けずに済みますが、そんな強さのある人はほとんどいないというのが現実です。

中間管理職はLさんの上司に迎合し、同じだけのプレッシャーをその部下にかけていきます。これがすべてのレイヤーにおいて起こるわけです。そして、中間管理職は間に挟まれている分、鬱憤が増加されますから、その下のレイヤーの部下に話が落ちるころには、

Lさんの上司の圧力 + どうして自分(中間管理職)がそんな圧力を受けなければならないのかという鬱憤

の合計が下に落ちていくことになるのです。そうなってしまうと、もうロジックとかそんな話の内容ではなくて、「腹いせ」的な要素が大きくなっていってしまうのです。

更に悪いことに、Lさんの上司は「常に自分が正しい側についている」変わり身の早さを「正しいありかた」としている人です。すなわち、Lさんの上司と同じぐらい変わり身の早さを信条としている中間管理職でない限り、遅かれ早かれLさんの上司から違うことを言われ、攻撃を受けるのです。

中間管理職からしたら、「言われたからやったのに、もう、話が違っている」ということになります。

そして、違う話が鬱憤を加えて、下に落ちる。。。

もう地獄絵図ですね。

そういう展開で、部下が次々と辞めていきます。これが進むと、「中間管理職が悪い」となって、(だって、Lさんの上司は常に自分は正しいからです)最終的には中間管理職がきられる。。。という展開になるでしょうね。

そういう気分やの恐怖政治の只中にあって、完全に独立自由な気風の人たちがどうなっていくのだろうというのが私の悲しい観察でした。

完全にLさんの上司が恐怖政治で制圧するのか、元からいた人たちが跳ね返すのか。。。

結局のところ、これだけ誰も彼もいやな思いをすると、Lさんの上司をはずして周りが連帯し始めるということが起こってきているようです。すなわち、恐怖では心を完全に掌握しきれないってことですね。

なんだかみんなすごく遠回りの苦しい時間を過ごしてしまったのは気の毒ですが、これもまた学びと思ってみんなが反面教師にしてくれると救われるかな。。。と、思います。

年末から「格好よくなる」ことを目標にダイエットを始めたといくつか前の記事に書いたのですが、その後面白いことに気がついたのでそれを書きたいと思います。

ビジネス本などで「自分のコントロールの効かないところをぐずぐず思い悩まず、コントロールが出来るところをしっかりコントロールしよう」というメッセージを良く目にします。これをダイエットに適応すると、体重の管理や体のデザインというのは、「自分のコントロールできる範囲」の筈ですよね?

私もそう思っていたのです。食べるもののバランスを健康的なものにして、その結果カロリーも下がったので、するすると体重が落ちていきました。ところが、3週間目からカロリーの摂取量は増えていないし、引き続きバランスよく食べているのに、

「ぴたり」

と、体重が減らなくなり、むしろ微増しているのです。

いわゆる停滞期というものです。
「停滞期」を検索すれば、散々その原因と対策は書いてありますが、ここで感心したのは、意志と明らかに相反するからだの動きです。もちろん、この長い歴史を生き延びて来た動物ですから、飢餓的な状況になっても生き延びるセーフティー機能が発達しているのは当然です。でも、面白いと思ったのはそのセーフティ機能が

「意志には全く影響されない」

という部分です。結局のところ自分の体ですら、自分の意志でコントロールできる部分は本当に一握りなんですね。

何でもかんでも「お任せ」にすることはいけないと思いますが、「出来ることをしっかり励むそれ以外は悩まない」…というのが、自分の体デザインにすら当てはまるのかと、感動したのでした。
先週末にホスピスのボランティアのトレーニングを終えて、この1週間、何回かブログを書こうと思ったのですが、なぜか思いがまとまらず、いろいろいろいろ諸般のことに埋もれて時間を過ごしていました。諸般のことに埋もれているから思いがまとまらない…のと同時に、思いがまとまらないから諸般のことに埋もれるんですよね。 まぁこれは表裏一体です。

とりあえず、どんなことに埋もれていたか書いてみようと思います。

11月から久しぶりに部下が一人できまして、そのコーチングにかなり時間を使いました。私のしている仕事は買収先のビジネスの世界展開です。買収先の会社はほとんど人を辞めさせずに残っているので、買収前の文化や考え方から一歩も変わってない人も多いです。新しい部下は買収元(すなわち私と同じ会社)の他のビジネス担当で実績をあげて来た人です。買収先の人からみたら、「こいつ何にも知らない奴じゃん。」となる訳です。

「認められるかられないか」は、これ本当に人間も動物も一緒だよなぁ…。と改めて思います。群れに入れてもらえるかどうかは、その新参者がその群れにとって「価値がある」と、群れに思ってもらえるかどうか次第なんですよね。で、私の部下…現在どうやって「認めてもらうのか」というところで、辛い状況です。

ある程度の時間以内に「こいつやるな」と思ってもらえないと、「何のためにいるの?」となりますし、余りに自分の経験を押し付けてしまうと、「俺たちのビジネス知らないくせに」となります。また、私がもり立てすぎると「あいつは、上司がいないと何にも出来ない」となります。

難しいですよね。私も、会議の時とかに出来るだけ同席してもらって紹介はしますが、それ以上やり過ぎると結果的には余り良い方向に行かないと思うので、後は部下の彼に頑張ってもらうしかありません。

それと同時に、彼がやってきた仕事のスタイルと、私の仕事スタイルもある程度足並みを揃えないといけません。全部私に合わしてもらう必要は全然ないんですが、世界中に限られた情報でも「理解してもらわないといけない」ので、メッセージをシンプルにすっきりとまとめる癖が今以上に必要になるのは必然です。だから、部下の思っていることを散々言ってもらって、それを一緒にまとめてどういうコミュニケーションをするのか…という擦り合わせに時間をかけています。


それに加えて、同じ部門の人が今月末で退職することになり、上司から私の「責任範囲の拡張」を打診され、「どういう位置づけでいくか?」というのも考えないといけなくなりました。単純に言うと、仕事が広がって増えて部下も増えるってことです。勤怠管理だけしていればいいと言うものでは決してありませんし、その人達を「まとめて持つビジネス上の意味」も考えないといけません。そして、「まとめて全部よろしく」と言う感じの上司からの押しつけを少しは押し返す必要もあります。

去年ビジネス展開の土台をほとんど作ってしまったので、今年はそこにちゃんと肥料を与えて水を与えてやればいいだけだから楽だなぁ~と思っていたのですが、そうは問屋がおろしませんでした。

更に、去年「今年は楽になるから…」と思って、始めた日本のサポート勝手連のプロジェクトがそれなりの展開を見せそうになって来て、長い時間は使えなくても深く集中して活動しないといけない感じになって来たことでした。アメリカの会社にはdiversity(多様性)の担当者という人達がいます。そこのトップの人に我々のプロジェクトの話をしに出かけたのでした。そのトップの人は実は10年位前に一緒の部門で仕事をしたことのある知り合いです。すると、そのトップの人は、プロジェクトのことを気に入ってくれて、「会社のストラテジーを決める部門のトップに話が出来る様に掛け合ってあげようか」と提案してくれたのです。活動には「スポンサー」が必要ですが、そのスポンサーをしぼりきれなかったので、こういう提案は渡りに船でした。そして、スポンサーをしぼりきれなかった…ということは、どういうスコープでプロジェクトをするのかというのも決めにくいということでした。だから、「このプロジェクトをすることによって自分にとって何の益になるのか」ということをメンバーの間ですりあわせるというステップも加えたのです。(…これについては別途詳しく書いてみたいと思います。)

更に、来週から日本でトレーニングをすることになっていて、その講師としてスライドも作らないといけませんし、新製品を出すに際して、海外諸国にどうコミュニケーションをとって行くのか…というのも擦り合わせが必要です。


…と、読んでいる人にはおそらくさっぱり判らないであろうことをつらつら書きましたが…………


読んでいる人に判らないということこそが、私の一週間の「諸般に埋もれていた」具合を的確に表現してくれるだろう…と思って書いてみました。

すなわちこの一週間高いところから見渡すより、足下を見て石につまづかない様に原野をかき分けていた…という感じなんですよね。ちょっと小高い丘に登って新しい地平を見渡す必要性を感じています。

明日は少し時間かけてレイキしようかな。それと、やることのない国際線の飛行機で考えもまとめてみたいと思います。




昨日一日ホスピスのボランティアトレーニングでした。
前回のトレーニングは2日でしたが、トレーニングする方も「大変だ」と思ったのか、今回は1日に短縮(凝縮)されていて助かりました。でも、前回1日トレーニングだったら、前回でトレーニング終了できていたんですけどね…。

それはともかく、

今回のトレーニングでボランティアの先輩が3人いらしてその経験を語る…というパネルディスカッションの時間がありました。お一人はこのボランティアをして19年、もうひとりは3年、そして最後の一人は2年でした。彼らの経験から出た言葉で印象的だったのが、

「このボランティアをしていくことで、与えているよりもらっているものの方が多い」
「本当に何気ない毎日が愛おしくなる。感謝して生きていける」

ということでした。普段「明日は来ないかもしれない」なんて思いながら生きている人はそんなにいない訳です。明日はほぼ当然やってくる…と思って生きていますし、「明日は来ないかも…」なんて心配ばかりしていたら、逆に今を生きることが出来ません。むしろ、「明日がやってこないかもしれないことを理解した上で今日生きていられることを感謝する」そういう風に思います。

それから、今回のトレーニングで印象に残ったことは
「ボランティア(関係ない第3者)が許可をしてあげることで家族が救われる場面がいくつかある」ということでした。
不思議なことかも知れませんが言われてみると「確かにそうかも」と思えます。

誰か家族が死んで行くということは、家族にとっても本人にとっても「平常心でいられないこと」です。でも、それで平常心でいられないことを「おかしいんじゃないか?」とか思って苦しむ家族というのもかなりいるのだというのです。感情に押し流されそうになる一方で、「それはダメなんじゃないの?おかしいんじゃないの?」と見ている自分もいる…それが葛藤になるというのですね。
更に人によっては、攻撃的になったり落ち込んだり、誰しも経験することが、それに関して自覚症状がある人もいればない人もいる…。

そんなところで、「当事者じゃない関係者」であるボランティアやホスピスのチームの人達が敢えて冷静に
「そうやって悲しむことは誰にでも起こるのですよ」と言ってあげられるというのは一つ、家族の落ち着きを取り戻すのに効果があるということでした。

もちろん、病的な鬱になって自殺願望が出て来たりする人もいますから、その辺りのサインはホスピスチーム全員で気をつけて連絡を取り合ってケアをしていく…ということです。


あと、「確かにそうなのかも」と思ったことがあります。実際はそんなに「オンタイム」にことが運ばない様ですが

死に行く人は最後まで残された人のことを気にかけていて、「逝くに逝けない」状態になったりすることがあるそうです。自分のために魂を体につなぎ止めておきたい…というより、残された人のためにつなぎ止めておく…って感じでしょうか。本当に最後の時、残された家族から

「ありがとうね。もう逝っていいよ。向こうでまた会おうね」

と、言ってもらえることで安らかに息を引き取ることが出来る…というのです。
もうそういう時点では意識はない状態の筈なのですが、「家族に『いいよ』と言ってもらえることで明らかに効果がある」…と、(もちろん統計をとって実験している訳ではありませんが、実感として)言うのです。


やっぱり「死んじゃえばそれで終わり」なんじゃないんでしょうね。
そんな風に思った一日でした。


おはようございます。 今朝6時半で外はまだ真っ暗です。
そろそろ起きないといけないんですが、ベッドの中でブログを書いています。

タイトルの「目が覚める」ですが、これは毎日の睡眠から目が覚めるの「覚める」ではなくて、「おぉ!っと気がつく」という話をしたいと思います。

同じことを言われていても、「あぁそうか!」と合点する時としない時があります。とある状況を目の前にしていても、その切迫性に全然気がつかなくて、ある時突然それに気がついて慌てたり。

あるいは許すということについてもそうで、ある日突然振り返ってみると
「もう、そんなことどうでもいいや。」と思えている自分を発見する…って言う感じですよね。

「許す」ということの方が判りやすいかと思うので、それを使ってもう少し掘り下げてみたいと思います。

ある人が自分に「ひどいこと」をしたとして、それによって傷つくし憤慨もします。周りの友達は「忘れなよ」とアドバイスするかもしれません。あるいは自分で、「こんなバカバカしいこと忘れよう」と思うかも。

でも、「それに囚われなくなる状態」をゴールだとしたら、それに徐々に近づいていく…って感じじゃないですよね。あるところにバー(ハードル)があって、それを越したらいきなり「あぁ、囚われてないわ!」と目が覚める感じです。そして、そのバーを越している瞬間って実は気がついていなくて、「振り返って初めて、バーを越えていた」って気がつく感じだと思うのです。

脳の働きのパターンが「徐々に電流が増える」というよりは「しきい値を越えたらいきなり電流が流れる」という反応の仕方なのかも知れないなぁ…と思ったりもします。

だから大体において、「全てのものは目の前にあったのに見えてなかっただけ」って言う結論が出ちゃうんですよね…振り返ると。


自分がどんな物を今年見える様になって行くのか…楽しみです。
アメリカでは肥満に二つの言葉があります。 Overweight(オーバー・ウエイト)とObese(オビース)です。Obeseは形容詞なので、名詞にするとObesity(オビーシティ)と言います。

Overweightは普通の肥満。その上がObeseになります。例えばBMIで言うならば、OverweightとObeseの境目は30です。Obeseがどれ位の感じか…というと、身長が仮に164cmだったら、体重が80kgを超えるとObeseになります。80kgというとかなりの体重ですよね。

その定義で、アメリカでは成人の6割がObeseと言われています。

そういう人達が周りに沢山いるので、多少太っていてもそんなに気にならないのですよね。で…気がついたら会社に入った頃と比べて(まぁ20年かけてですが)15kg位太ってしまっていました。さすがにObeseにはなりませんでしたが、どこからみてもOverweight。12月に日本で過ごして
「格好よくなろう」と目覚めたのでした。
お正月を挟みましたが一応順調に体重は減って来ていて4年位前の体重に近づきつつあります。

とりあえず最終ゴールはその増えた15kgを減らすと言うことにしました。BMIで考えても一番健康な数値なので。
会社生活をしていると、「この人がなんでこんなに偉いポジションにいるんだろう?」と首を傾げたくなる様な人と出くわします。

ビジネス的な判断はおかしいし、どう考えたって出世できる頭の良さを持ってないです。でも、上にいる。(すみません。言葉悪くて)

何故それが起こるのでしょう? 今日はそれを逆説的に考えたいと思います。

そういう人に共通するのは、「謙虚さのかけらもなく、自分大好き」な所なんですよね。「自分は偉いんです」と周りからおだてられ、それを「当然」として受け取っていられるんですよね。私だったら、もういたたまれませんし、そういう薄っぺらい煽てをする人とはお近づきになりたくありません。

でも、これを逆に考えると…どうでしょう?
「もう自分なんて全然ダメだめで」と、二言目には言う人をリーダーに担げるか…というと、これも出来ませんよね。

絶対成功確実な道筋なんて判らないんだから、どこかで「えいやぁ!」と決めて進まないといけないのです。そこで、全く自信のない人の決めることにはついて行けない…ってことなんです。ということは、「自信だけある」人が「えいやぁ!」と決めてしまったことの、「良さそうかどうか…」なんて、多くの人は見抜けないので、その「自信たっぷりさ」だけに引きずられてしまう…その結果、自信のある人が上に立っちゃうってことなんだろうと思うのです。

自分の信じたことをやり抜く強さを持っているLさん…実はかなり地味な人です。
「地味だよね~」と、私が散々言ったら「地味ですかぁ…」といって嫌がるので(笑)、「じゃぁ、『派手じゃない』に変更しましょう」といって二人で笑ったのですが、「地味」という言葉が悪ければ「謙虚」なのです。

ほとんどの人は「その人の信じる道の善し悪し」なんてほとんど理解できずに「ついて行こう」という判断をしますから、最初の印象としては「薄い」んですよね。けれど、誠実ですから時間をかければそのうちLさんの良さを理解する人は増えて行くのですが、直ぐにみんなにリーダーとして認められるにはもう少し派手にしてもらった方がいいんですよね。

では、派手になってもらうにはどうしたら良いか…

これはやっぱり自分を良いところも悪いところも全部ひっくるめて認めてあげることから始まるのだと思います。

前にも書きましたが、光と陰は一対です。光が強くなれば強くなる程陰も濃くなります。他人からの評価は、光を見る人もいれば陰を見る人もいるでしょう。でも、陰を消して光を強くすることは出来ません。だから光だけ見ていればいいのだと思うのです。

年末にLさんに会った時にこういいました。

「年末に業績考課であなたのことをどうせあなたの上司はけちょんけちょんに言うかも知れないでしょ?心から褒めるってことは、まずなさそうだわ。でもさ、それは光を見るか陰を見るか…ってだけでね、『悪いところを克服しよう』なんて考えなくていいよ。むしろさ、自分のこと誇りに思って幸せになった方が近道だと思うよ」と。

そして他の共通の知人を例に出して、周りの人の味方次第でそれが強さにも欠点にもなり得るという話をしました。
「そう。他の人に対して誠実であるってことさえ心に留めて実践しようとするならば、自分に対してストイックになる必要ないよ。もしも上司がいろいろ言ったって、結局その人のオピニオンだからさ」と。

Lさんはちょっとびっくりした様子でした。けれど、Lさんも続けて

「確かに、改善しましょうって言って、それが独立に改善できるのであればいいですけれど、大体において良いところと連動してますものね。」と、いいました。

Lさんは上司から「あなたの様な人間は信じられない!」と完全否定された経験があるのです。仕事の内容ではなくて、人間否定です。(スゴイですよね!)「そんなことはないさ」と気にしない様にしていたとしても、その心の傷は治るのに時間が掛かります。

「そうそう。だからね、気にしなくていいから。楽しく仕事できることだけ、みんなと沢山笑えることだけ考えな(^_^)」
私はLさんがいつかLさんの部下に対してもそうやってニコニコしながら言える様になっているといいな…と思ったのでした。




2週間の休暇中、2冊の本を読みました。
シルバーバーチの霊訓〈1〉/著者不明
¥1,260
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人は死なない-ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索-/矢作 直樹
¥1,365
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この二冊、独立に選んだ訳ではありません。自分の大きなテーマである

「善く生きること」


「善い終わりを迎えること」

は、表裏一体なんですね。最期に満足できるためには生きている時に充実している必要があります。
もう、10代や20代の時と違って「努力すること」だけが「後悔しない(満足な)人生」とは思っていませんが、「後悔しない生き方をしたい」というのは今でも変わらないからです。

それでは、「終わり」ってなんなのでしょうか?…というつながりで上記の2冊を読んだのでした。


私はスピリチュアリティの信奉者でもありませんし、死者と対話したいとかも思わないのですが、矢作直樹さんが巻頭で書かれている

死んですべてが終わりなら、生前好き勝手やってもいい筈なのに何故そうならないのか?

という疑問は至極最もなことだと思いました。「後悔しない最期」が良い死だとするならば、周りのことや倫理観なんて横において本能の赴くまま本当に好き勝手やりきってら…後悔しないかもしれません。でも、それって良い人生だった…とは、ほとんどの人は思いませんよね。


肉体がある間、いろんなことが制限される…その肉体の軛を引きずりながら魂の成長をさせる…それが生きている間の課題だと…そして、魂の成長は利他・慈愛の心を育てて行くこと…その様に宇宙は出来ていて、それを摂理とも神とも呼べる…と、この2冊の本の語ろうとしている想いは繋がっている様に思いました。


本当にそうなんだろう…と、思います。
そういう風に世の中が出来ている…って、面白いと思います。
どんな所に自分が入っていって、どんな経験が出来るのか、ロールプレイング・ゲームの主人公みたいじゃないですか。そんな感じでワクワクします。そして、行動してみて、時々振り返って…「うん、成長したな」って思う…今年もそんな年になると思います。