文學界 伊藤比呂美×町田康 対談
12月号の文學界の目当ては、若手作家(上田岳弘×古川真人×鴻池瑠衣)の鼎談だったのだけど、伊藤さんと町田さんの対談が(ある意味)アツくてちょっと書きたくなってしまった。結論からいって、ふたりとも真逆の考えでぶつかっていて、よく対談として成立できてるな……といった感じ。伊藤比呂美さんのほう、わたしは疎くて、名前だけ存じ上げている方なのだが、有名な詩人で講師もしているらしい。それで、伊藤さんが書いている(教えている)現代詩というのは、かんたんにいって「わたし(自分)」を掘り下げて書いているということ。それに対し、町田さんは「いや、自分ばっかり語っているのつまらないですよ」とバッサリいってしまう。町田さんいわく「もっと外側を書かないとおもしろくない」。※外側というのは、とくに政治とか社会とかを書けばいいっていうわけじゃないらしい。現代詩つまらないといわれ、現代詩をやっている伊藤さんが怒らないわけにはいかず、ちょっとバトル気味になる。でも心底相手を嫌っているとかじゃないから、これがおもしろい。通じ合わないなりに、伝わっているものがあるというか……。で、わたしも少し考えるところがあって。詩って、自分を語っているものなのか……!? という今に至っての発見。そもそも、わたしが書く詩というのは、現代詩といえるものかはたまたただの歌詞なのかわからないものなのだけど、詩って「自分語り」なんだ……と驚いた。そうではない詩もあるのかもしれないけれど、「自分」を掘るのが今のところ主流なのだそう。詩(または歌詞)を書いているとき、わたしは、すごく簡易的な(説明をしない)小説を書いている心持ちで書いていた。だから、詩の気持ち=自分の気持ちにはちょっとなっていない気がしていた。確かに小説より、自分の気持ちに近いところはあるけれど、でもやはり詩もフィクションだからなあと思いながら書いていた。でも詩の気持ち=作者の気持ちという認識が一般的だから、投稿サイトで詩(歌詞)をあげると、フィードバックとして「あなたの苦しみが救われるといいね」と返ってきたのは、なんとなくうなずける(うなずきたくないが。なにがあなたの苦しみが救われるといいだよ)。おもしろいなあ~と思いながら読んでいくと、自分語りの批判をする町田さんは、「僕、あんまり自我というものがないのでよくわからない」というようなことをいっている。自我がない! 確かユリイカの特集で川上弘美もいっていた「わたし、自我がない」ということ。町田さんは、自我がない(あるいは弱い)せいか、バシバシ他人の影響を受けているのだとか。伊藤さんは、「うそ~! あの文体は町田さんのものじゃん」というようなことをいって、あんまり真に受けていない感じだったけども、町田さんは「いろんなひとの影響を受けて自分の文体になっている」ということをいっていた(影響を受けて、原稿の前半と後半で文体が違ってきてしまうこともあったらしい)。おもしろい。わたしも自我が薄いほうなので、文体とか作風とか既存の作家さんを模倣しながらつくりあげていく派だ。高校生の頃の読書体験なんかは危なかった。小説を読んでいる間、その登場人物の気持ちになって生活をしていた。太宰治を読んで「これはわたしのことだ……!」とガーンとやられてしまったのも……、そのあと他の小説を読んでたびたび「自分だ……!」と思ってしまうのも……、自分というものがよくわからないから、すぐ感情移入(または憑依)してしまう結果だと思う。(もしくは安易につなげすぎ)(三島由紀夫は自我がハッキリあるような気がするから、なんとなく受けつけないのはそのせいか……太宰治はどうなのだろう、自我? というよりも自意識? 違いがよくわからない←)フムフムと思いながら読んでいましたよ。対談はやっぱりおもしろい。(雑な締め)