私は数年間インドに住んでいました。
よく「インドへ行くと人生観が変わる」と言いますが、確かに変わりました。
もちろん全員が変わるわけではなく、インドへ行っても何も変わらない人もいますが、私は変わりました。
どう変わったのかと言うと、「潜在意識が現実を作る」を心の底から信じられるようになったのです。
「既にある」を実感し、引き寄せの法則を使いこなせるようになってきました。もちろんまだまだ未熟ですが。
インドで人生観が変わった理由をご紹介します。
理由1:問題を問題だと認定しているのは自分のエゴだと思い知らされる
インドでは常に想定の斜め上を行く事態が展開し、想定の斜め上を行くプロセスで問題が解決します。
エゴが理解できる範疇を当然のように超えてくるので、思考を手放すしかなく、宇宙の広大さを感じさせられます。
例えば、30ルピーでご飯を食べ、50ルピー札を渡したら、店主に「お釣りがないから待ってろ」と言われ、そのまま店主がどこかへ行ってしまったことがありました。
店主を待っている間、スマホの電池を消耗するわけにもいかず、携帯の電波も弱いので、私は何もすることがなく、35度の猛暑の中で、隣で寝そべっている犬を見てボーっとしていました。
20分くらい待っていると、店主は汗だくになって帰ってきて、私にお釣りの20ルピー(約40円)を渡しました。
暑いしイライラしていたので、1時間以上に感じていました。
いわば時給120円です。
しかし汗だくになって走ってお釣りを取ってきてくれた店主の顔を見ると、感謝の念しか湧いてきません。
このようにインドでは、誰も悪気がないのに意味不明な方向へ事態が展開をするのが平常運転なので、エゴの働きはストップせざるを得ません。
「無駄に待たされた」と問題認定していたのは自分のエゴで、実際には愛情と感謝しかなかったこと思い知らされた瞬間です。
日本人にとっては大問題でも、インド人にとっては大した問題ではなく、“No issues, take it easy”(問題ないから落ち着け)と言われます。
実は、その問題を問題だと思っていたのは私だけで、インド人は誰もそれを「問題だ」と認識しておらず、問題が自分の頭の中だけで発生していたことに気づきます。
目の前で起こっている事象を「問題だ」と認定しているのは自分のエゴだけで、エゴの認定に勝手に振り回されて疲労困憊していただけだと気づくのです。
インドの世界観では、魂は無限に輪廻転生を繰り返すので、これから何千万年、何億年と続いていく命の中で20分というのはほぼ一瞬です。
インドの街中を歩いていると「来世から本気を出します」と言わんばかりの人達で溢れています。
宇宙の壮大なスケールをナチュラルに感じられるのがインドの魅力です。
理由2:強制的に「今ココ」に集中させられる。
インドでは毎日、朝から晩まで信じられないトラブルの連続です。停電、洪水、大渋滞、大遅刻など色々ありました。
家へ帰ってみたら停電でエアコンがつかなかったり、電車が全く来なかったり、遅延していたはずの飛行機が定時に戻って乗り損ねそうになったり、色々な問題が起きます。
家に帰ってきたら家の前で水道工事をしていて、夜まで家に入れないことがありました。
常に目の前の問題に集中させられるので、過去のトラウマを思い出して悩んだり、まだ起きていない未来を予想して不安になっている暇がありません。
気がついてみたら「今ココ」に集中することを強制されます。
渦中にいる間はイライラして「早く日本へ帰りたい!こんなところ二度と来るか!!」と思うのですが、日本にいる時よりも漠然とした不安は薄れます。
少し離れるとすぐインドへ行きたくなるのはこういうところです。
繰り返しになりますが、誰も悪気がないのでイライラして怒っても問題は解決せず、寛大な心で許すことしかできません。
誰も悪気がなく、みんな一生懸命なのに問題が起こっているので憎めないのです。
本来、人生でイライラするべきことなど何もないではないかと思わされます。
理由3:輪廻転生をナチュラルに信じられる
私は幼稚園の頃、父方・母方の祖父母4人が入れ替わり立ち代わり病院へ入院し、そのお見舞いで毎週のように母に連れられて病院へ行っていました。
病院へ行くと、身寄りがなく1人きりで入院しているお年寄りを見かけ、亡くなった後には市役所の職員に火葬され、無縁仏として共同墓地へ埋葬されると聞きました。
一人っ子だった私は、「このまま家庭を持たないと孤独死・無縁仏へ一直線だ」と、幼稚園生ながらに寂しさに襲われました(幼稚園生なので言語化できませんが)。
この恐怖が、インドへ行ってだいぶ緩和されました。
そもそも寂しさは、本当の自分(ハイヤーセルフ)とエゴが分離すると生じると言われます。
ハイヤーセルフは常に愛で満たされ安心しているで、不安を感じるということは自分の思考がハイヤーセルフから分離しているのです。
病院で孤独死して無縁仏として共同墓地へ埋葬されることが寂しい・悲しいというのもエゴの観念です。
それを感じたのはインドのバラナシでした。
バラナシはガンジス河の沐浴で有名なヒンドゥー教の聖地ですが、インド全土から遺体が集まり、ガンジス川のほとりの火葬場で燃やされます。
遺体が燃やされるところを間近で見ることができます。
今のインドは交通が発達しているので、亡くなった後に飛行機で?バラナシへ輸送することが可能です。
しかし、つい昭和の時代までのインドはそうではありませんでした。
インド人の友達から聞いた話では、昔の敬虔なヒンドゥー教徒は、50歳くらいになると家族と別れを告げ、何百キロ、地域によっては2000キロ以上も歩いてバラナシへ向かったそうです。
バラナシには今でも「死を待つ人の家」と呼ばれる場所があり、亡くなって火葬されるのを待っています。
亡くなると、火葬されて遺灰はガンジス河へ流されます(妊婦や子供などは火葬せず、遺体のまま河へ流すそうです)。
わざわざ家族と別れて徒歩でバラナシへ向かうのは来世で良い生まれ変わりをするからだと思うのですが、輪廻転生を信じ切っていないとここまでの行動はできません。
インドへ行き、インド人と接していると、無限に魂が続いていくという事実を自然に感じられます。
日本は中国の儒教の影響で?先祖の墓を大切にしますが、もともとのヒンドゥー教や仏教にそのような発想はなく、遺灰は散骨します(チベット仏教は鳥葬ですね)。
孤独死や無縁物が寂しいなどと言う発想は微塵もなく。そもそも命が無限に続いていくのですから、人生の最後が寂しいかどうかなんてどうでも良いことなのですね。
無限に命が続いていくということは、それだけエゴの暴走に苦しみ続けることになるので、むしろ早く輪廻転生の苦しみから抜け出したいという目的意識で生まれたのが仏教なのでしょう。
日本でも輪廻転生を信じている人は多い気がしますが、どうなんでしょうか?
悲惨な自然災害や戦争を目の当たりにした時、「一度きりの人生」と考えると救われない気がします。
亡くなった人の魂がこの先まだまだ転生を繰り返し、最後にはみんな波動が上がって幸せになれると考えたら少し気持ちが楽になるのではないでしょうか?
魂が転生を繰り返して成長する過程で、「災害・戦争で亡くなるという経験をした」という解釈です。
依存症なども同じです。
薬物を使ったら脳が変形するので「ダメ・絶対!」と言われますが、「今回の人生は依存症で苦しむ経験をするために生まれてきたのだ」と考えます。
ハイヤーセルフは無条件の愛で満たされた完璧な存在なので、「不安」や「苦しさ」は経験できません。
不安や苦しさは一体どんな感覚何だろう?という好奇心から三次元へ降りてきて、今回は依存症の人生を経験してみた・・・という世界観です。
「宇宙が完璧で、神が無条件の愛を与える存在なら、なぜ戦争や災害で苦しむ人がいるのか?」という疑問がわきますが、インドへ行って以上のような解釈が腑に落ちました。
インドで、このような世界観を自然に受け取ることができるようになりました。
確か三島由紀夫?が「インドには行ける者と行けない者がいる。いつ行けるか、どのくらいの期間いられるかはインドが決める。」と言っていたそうですが、本気で認識の変更を意図したらインドに呼ばれるかも知れません。