何か新しいことを始めると、始めのうちはワクワクして取り組める。

 

ところが、気がつかない間にいつのまにかワクワク感が低下してしまうことがある。

 

例えば、海外旅行で外国人とうまくコミュニケーションを取れなかったので、「英語を話せるようになって、もっと外国人とお喋りしたい!」と思ったとする。

 

これは本音でやりたいことで、ワクワクしながら始められる。

 

リスニングや単語や文法など、始めのうちは何でも楽しめる。

 

せっかくなら、自分の英語力がどのくらいか知りたいし、勉強にメリハリが欲しいから、TOEICを受けてみたいと思う。

 

ここまでは良い。

 

ところが、今の仕事に不満があったりすると、「TOEICが800点あれば、もっと給料の良い会社に転職できる」などと考えるようになり、いつのまにかTOEICで高得点を取ることが目的になってしまう。

 

しかし「TOEICで良い点数を取って、今の職場から逃げたい」は不足感から生じた動機だから、不足感を引き寄せることになり、TOEICの目標点数を達成しても不足感が残る。

 

すると、「次は900点、950点・・・」と目標が上がって行ってしまう。

 

高い点数を追求することにワクワク感を覚えるなら良いが、苦しくなって英語が嫌いになってしまうケースも多い。

 

いつのまにか当初の「外国人と楽しくお喋りしたい」という目的を見失ってしまう。

 

ふと「ワクワクしながら始めたはずなのに、おかしいなぁ。」と気づく。

 

ワクワクしながら始めたことでも簡単にズレてしまうから、常にワクワクしているかどうか確認することが大事だと思う。

 

当初の目的からズレても良いけど、今ワクワクしてるかどうかが大事だ。


憂鬱になっていたら変な方向へ向かってるサイン

私はバツイチで、いつか再婚したいと思っているけど、改めて理想のパートナーの条件を考えてみた。

 

1. メンタルが安定している

2. 趣味や仕事など一人の時間も楽しむことができる

3. 友達を大切にしている(陰口を言い合うような友達とは縁を切っている)

4. 決断力と行動力がある

5. 好奇心が強い

6. 結婚しても、自分の人生に自分で責任を持つ(パートナーに幸せにしてもらおうとしない)

7. 離婚することを恐れない(離婚するのを恐れると共依存になる)

 

全て内面に関することだが、綺麗事ではなく、幸せなパートナーシップは人間性が全てだと思う。

 

「不幸な人生を一発逆転するために結婚したい」「結婚で人生を変えたい」という発想は危険だ。

1人でも幸せに生きられる2人が結婚するから幸せな結婚生活を送ることができる。

 

たまに「1人でも幸せに生きられるなら、結婚する必要ないじゃん」と言う人がいるけど、そんなことはない。

たとえ1人で幸せに生きられるとしても、家庭を持つことで初めて経験できる世界を楽しむことには価値がある。

 

つい「年齢が...」「周りの友達が...」「親が...」と焦りたくなるが、全てエゴから生じた観念なので無視して良い。

結婚に限らず、焦りから行動をしても良い結果にはならない。

 

「類は友を呼ぶ」「自分と同じ波動を引き寄せる」だから、尊敬できるパートナーと出会いたければ、まず自分が自分自身を尊敬できなければならない。

 

恋愛に限らず、友達でも仕事でもそうだけど、経験的には自分自身が理想に近づけば近づくほど理想の相手を引き寄せる。

 

一般的に言われる、年齢や収入や外見などの条件は比較的どうでも良いと思う。

 

 

【年齢】

男性は、20代のうちは年齢関係なく美人な女性を好きになるが、30歳を超えたあたりから急に年下が好きになる人が多い。

「子孫を残したい」という本能だから仕方ないと言われる。

しかし10歳も歳が離れていると、自分が60歳の時に相手はまだ50歳だ。

定年後の生活を一緒に楽しもうと思っても、パートナーは現役バリバリで働いている。

そしてパートナーが60歳になった時には自分は70歳で、体力が衰えている。

一緒に同じタイミングで老後を楽しむのは難しい。

年上の女性には年上の女性の良さがある。

人間性を尊敬できるパートナーが一回りや二回り下だったということはあると思う。

でも、始めから年下だけに対象を絞ってしまい、同世代や年上の魅力的な女性を排除してしまうのは勿体ないと思う。

年下と結婚したからと言って子供ができる保証はないし、子供は授かりものですからね。

 

女性には理解されづらいけど、男性には「自分の代で血筋を途絶えさせるのはご先祖に申し訳ない」「自分の名字を継がせる子供がいないのは申し訳ない」と考えて、実子に執着する人も多い。

しかし、これは罪悪感を動機とした行動だ。

本来の自分は、たとえ子供がいなくても完璧な存在なのだ。

焦って若い女性を探す前に、その罪悪感が誰によって植え付けられた観念なのかを考えた方が良いと思う。

 

 

【容姿】

容姿は大事だと思う。

身だしなみと清潔感は相手への思いやりの表れだし、25歳を過ぎたら生き様が顔つきに出る。

だから外見は大事なのだが、内面と直結しているから重要なのだ。

特に令和の今は美容業界が発達していて、昭和の時代よりも外見を変えることのハードルが低くなった。

身長のように内容と関係ない容姿の問題は、内面に魅力のある人なら魅力に見えてくるものだと思う。

外見の整え方が分からないなら、親切に教えてくれるサービスもたくさんある。

でも、容姿自体を直接の条件にするというより、人間性を磨いていく延長に自然と表れるというイメージだ。

 

 

【経済力】

「結婚に経済力は必須だ」は正論なんだけど、不安や不足感が動機だと、どこまでも不安な結婚生活を引き寄せる。

長い結婚生活は何があるか分からない。

地震で家が潰れるかも知れないし、今は大手企業でもリストラがあるし、病気で働けなくなる可能性もある。

全てを失ってもゼロから一緒に頑張りたいと思える相手かどうかが大事だ。

結婚相手に経済力を求める動機も大事だけど、不足感(自分が稼げる自身がないから相手に経済力を求める)があると、やはり不足感を引き寄せると思う。

そして、「離婚されたら経済的に生きていけない」と思っていると、何があっても離婚できなくなり、モラハラやDVにも耐えなければならなくなり不安定だ。

だから不足感から経済力を望むのは危険だと思うが、充足していれば結婚生活に必要な経済力は自然と引き寄せられると思う。

容姿と同じく、経済力を条件にするというより、人間性を磨いていく延長に自然と現れるイメージだ。

家事遂行能力も同じ。

 

 

【趣味】

趣味が合うことも大事だと思っていたが、趣味が合わなくても波長が合えば大丈夫だと思う。

同じ趣味を楽しめるのも良いことだが、趣味が合っても波長が合わないと細かいところで言い争いになることもある。

趣味が被らなくても、お互いの趣味を楽しむことで世界が広がることもあるし、趣味は趣味仲間と楽しめば良い。

 

 

ただ、ここに書いたことは一度結婚に失敗して初めて悟ったことだから、結婚に失敗して離婚するのも悪い経験ではないと思う。

以前「特定の人を引き寄せたい」と思って本気で調べたことがある。


賛否両論さまざまな意見が飛び交っていたので、忘備録としてまとめる。

 

 

【特定の人は引き寄せられないという意見】

※奥平亜美衣さん、Kikoさんなど

 

「あの人とパートナーになりたい」と思うと、「あの人と一緒でなければ自分は幸せにならない」という執着の波動が出る。

 

「あの人と一緒でなければ幸せになれない」とは、言い換えれば「あの人と一緒でなければ自分は不幸だ」であるから、潜在意識には「不幸な自分」が入っており、その不幸な意識が現実化する。

 

本来の自分は1人でも完璧な存在で、無条件に愛されているはずなので、特定の人に執着する必要はない。

 

なお特定の人に限定せず、単に「素敵な人とパートナーになりたい」という願望であれば良い。

 

なぜなら、パートナーがいることで初めて経験できる世界もあるからだ。

 

だから「自分は1人でも完璧なんだからパートナーなんて必要ない」と願いを取り下げる必要はなく、「素敵なパートナーと幸せになる」という願望を持つのは問題ない。

 

ブルゾンちえみが言う通り、世界には異性が35億人(今は40億かな)いるんだから、相手を限定しなければ最高のパートナーが引き寄せられるはずだ。

 

そもそも、自分が体験したいのは「素敵なパートナーと一緒に過ごす時の幸福感」という感情なのであるから、その感情を味わえるのであれば相手は誰でも良いはずで、特定する必要はない。

 

引き寄せの願望には固有名詞や数字を入れるべきではなく、感情を引き寄せようとした方が良い。

 

相手を特定してしまうのは、執着が入っているからだ。


但し奥平さんは、自分の波動が上がってくると、魂で縁のある人を見抜けるようになるので、そうなれば特定の人でも引き寄せられると言っていた。

 

 

【特定の人でも引き寄せられるという意見】

※108さん、ホメレンさん、シークレットなど

 

そもそも引き寄せの法則は特定の者を引き寄せる法則なので、相手が特定の恋愛対象であっても変わらない。

 

特定の恋愛対象がダメなのであれば、特定の車、特定の家、特定の会社への就職、特定の国への旅行など、全て引き寄せられないことになってしまう。

 

そもそも、特定の人に対する愛情の気持ち自体はエゴではなく、純粋な魂から生じたものだ(エゴから生じることもあるが、その場合はその対象を本当は好きではない)。

 

しかし、その対象を「自分のものにしたい」「独占したい」という所有や束縛の欲求はエゴから来たものだ。

 

その相手を独占したいというエゴの欲求が現実化しても幸せにならない。

 

パートナーになれるかどうかは置いておいて、特定の相手に愛を送り続ける。

 

現実の相手は無視して、自分の心の中にいるパートナーとの愛情に浸り続けることが重要。

 

これは「妄想で我慢しろ」という意味ではなく、現実を無視して愛情に浸り続けると、現実は必ず動き出す。

 

なぜなら、現実とは自分の潜在意識を投影するための映写機だからだ。

 

しかし、「叶えるために愛に浸る」という意識では「今は叶っていない」を前提にしているから叶わない。

 

既に叶っているのだから叶える必要はなく、「叶えよう」とするのを辞めて、ただ特定の相手への思いに浸り続ければ良い。

 

そうすると不思議なことが起こり始めるが、エゴの範疇を超えることが起きるので、その特定の人と結ばれるとは限らない。

 

それ以上に幸せなことが起きるかもしれない。

 

 

【結局、特定の恋愛対象は引き寄せられるのか】

結局、特定の人を引き寄せられることはできるのか?

 

一見すると真っ向から対立する意見に見えるが、どちらも言っていることの本質は同じだと感じた。

 

例えばホメレンさんは「潜在意識の願望成就は『そう思うからそうなる』。『彼とラブラブだと思えば彼とラブラブになる』のだから特定の人との復縁や片思い成就は可能」と言い続けている。

 

しかし、「潜在意識を使えば、その特定の彼の100倍凄い人を一瞬で引き寄せるのも朝飯前だ。そのことは頭の片隅に入れておいても良い」と言っている。

 

であれば、「特定の人を引き寄せられるとは限らないが、自分の波動を上げれば最高のパートナーを引き寄せられる」と考えるのが正解かもしれない。

 

ここで「その人でなければ耐えられない」という気持ちが出てくるなら、波動が下がっているから、なぜその人とでなければ耐えられないのかを掘り下げても良いかも知れない。

 

Kikoさんの動画では「Aくんと30歳までに結婚してモルディブで式を挙げたい」みたいな固有名詞が入った願望は、(例外はあるが)引き寄せが難しいと言っていた。

 

しかし個人的には、特定の人をイメージングすること自体は波動を上げるのにプラスに働くと思う。

 

なぜなら「素敵なパートナーと穏やかで豊かな時間を過ごして安心したい」というボヤっとした願望だと、イメージングしづらく、引き寄せたい感情を味わいづらいからだ。

 

私の場合は、「Bさんと京都の○○寺の庭を見てゆっくりしたい、色々話したい」という願望の方が、楽しい瞬間をリアルにイメージできて、今この瞬間にも穏やかな気持ちを味わうことができる。

 

ここは、人によって向き不向きがあるから、自分に合った方法が良いと思う。

 

恋愛の引き寄せに限らないが、具体的に詳しくイメージして気持ちが上がるなら具体的にイメージした方が良いが、具体的にイメージするにつれて「こんなの絶対叶わない」という気持ちが出てくるならやめた方が良い。

 

つまり、Bさんの存在を(言い方は悪いが)利用して幸せな瞬間をイメージングして自分の波動を上げつつ、「でも、自分が幸せならBさんでなくても構わない」と手放す。

 

すると、Bさんを引き寄せるかも知れないし、Bさんより更に自分と合うCさんがパートナーとして引き寄せられるかも知れない。

 

でも、自分にとって幸せな現実が引き寄せられることだけは決まっている。

 

引き寄せの法則は「願った現実が引き寄せられる」法則ではなく「自分と同じ波動のものが引き寄せられる」法則だからだ。

 

ここで「これまで何年もパートナーがいなかったのだから、これ以上の人が引き寄せられるはずがない」「Bさんに断られたのだから、Cさんにも断られるのではないか」などという余計なエゴの観念は受け流す。

 

純粋に幸せな愛情の波動を放てば、幸せで愛情のある現実が引き寄せられる。

 

今この瞬間に幸せを感じ、愛の波動を放つために、現実を無視して特定の人との愛情に浸るのだ。

X(旧Twitter)では、男性と女性のどちらが大変か?という議論でよく盛り上がっている。

 

私自身は、10-20代前半の頃は「日本社会は男性優位で、女性は冷遇されている」と思っていた。

 

20代後半になると、逆に「男性は多くの責任を負わされていて、女性から搾取されている」と思うようになった。

 

10代の頃は上野千鶴子さんが好きな母の影響で、自分自身の男性性を否定していたので、自分自身のことを女性の立場を理解できる優しい男性だと自認していた。

 

母の考え方に同調することで母の期待に応えようとする、いわゆるマザコンだったと思う。

 

20代後半になると、抑圧が取れたことで母への怒りが爆発し、反動で一気に女性嫌悪に傾いた。

 

「男性はこれだけ重い責任を負わされて我慢しているのに、まだ女性は文句があるのか(怒)」という感じだった。

 

しかし30代になり、好きなように生きるようになってから、「日本社会は男尊女卑か女尊男卑か」という議論自体に興味がなくなった。

 

男性であれ女性であれ、こういう議論に惹きつけられる人達は不足感に焦点を当てていて、怒りのエネルギーで満ち溢れている。

 

不遇な環境を嘆くと更に不遇な現実が引き寄せられるから、こういう話題には近づかないのが一番だ。

 

男性でも女性でも、幸せな人は「不公平だ」などと怒らず、今ある豊かさに焦点をあてて、もっと楽しいことを考えている。

 

生まれてきた性を思いっきり楽しむのも良し、性転換するのも良し、LGBTとして生きるのも良し、自分自身が幸せなら何でもアリだ。

 

「男性は○○」「女性は○○」と言うが、実際には男性と女性の違いよりも、無力感に支配されて何でも社会や他人のせいにする人と、自分の潜在意識が世界を創造すると信じている人との違いの方が遥かに大きい。

 

潜在意識や引き寄せの法則の本を読むと「ニュースを見ると波動が下がるからニュースは見ない方が良い」と書かれている。

 

昔は「そうは言っても、社会の理不尽さに関心を持たないと、社会が良くならないんじゃないか?」と思っていたけど、そんなことはないと思う。

 

怒りや罪悪感、正義感から社会を変えようとする人はいなくなるけど、愛情や感謝の気持ちから社会を変えようとする人は逆に増えて、その方が社会全体が豊かになるはずだ。

私はバツイチ・子なしのため子育てをした経験はないのだが、私自身の経験から思うところがある。

 

子供よりも自分を優先する親に対しては「子供が可哀想だ」と批判が殺到する。

 

例えば、親の都合であちこち引越するとか、親の行きたいところに子供を連れて行く、離婚などは許されない。

 

しかし実は、子供にとって一番辛いのは「自分のせいで親が不幸になった」と思うことだ。

 

私の両親は不仲で、母は私に対して常に父の愚痴を言い、「あなたがいなかったらお父さんとはとっくに離婚していた」と言っていた。

 

すると私は、「自分が生まれてきたせいで母は離婚ができなくなってしまった。自分が生まれてきたのが申し訳ない」と罪悪感を持ってしまう。

 

両親が離婚するよりは仲良しの方が幸せなのは間違いないが、仮面夫婦を続けられるよりは離婚の方がマシだと思う。

 

自分の願望や気持ちを抑えて子供に尽くしすぎてしまうと、表面的には「子供のため」と言いつつ、無意識では子供に対して怒りが湧いてくる。

 

子供は「自分が生まれたせいで親が不幸になったから、自分なんて生まれて来なければ良かった」と自分の存在を否定し、自己嫌悪になる。

 

一方、子供よりも自分の都合を優先すると、将来子供から「自分勝手な毒親だ」と罵られ、絶縁される可能性がある。


子供から絶縁されるのは悲しいが、それだけと言えばそれだけだ。子供が自己嫌悪になることはない。


子供と言えども別の人格だから、子供が離れたら一人の人生、もしくはパートナーとの人生を楽しむしかない。

 

このブログのタイトルは「孤独を楽しむ」だが、子供から捨てられるのが怖い親は、孤独を楽しむ力が足りていないのだ。

 

親を責めることができる子供は、自分自身を責めて自己嫌悪や自己否定へ向かうことはない。

 

罪悪感や自己嫌悪よりは、怒りの方がまだ自己肯定感は高く、自己否定をして無気力になった子供の方が深刻だ。


「あの親は本当に自分の都合しか考えていないクズだった」と親に怒りを向けることができる子供は、「では自分自身はどう生きるか?」を前向きに考えることができる。

 

親への怒りは出し切ると解消される。

 

子供が自分らしい人生を生きていくにつれて、「自分が好きなように生きられるのは、親が好きなように生きていたからだ」と気づき、親との関係も正常化する。

 

子供がずっと怒りを燃やし続け攻撃的なのであれば、それは子供自身が人生を通じて解決すべき問題であって、親には関係がない。

 

親が自己犠牲をして子供に尽くしすぎると、子供にとっても不幸だ。

 

「母親のくせにオシャレをして恥ずかしくないのか」「父親のくせに飲み歩いて子供が可哀想だ」と批判をする人もいる。

 

しかし、本当は飲み歩きたいのに、それを我慢して子供との時間を無理やり作っても子供は嬉しくない。

 

「お前のためにわざわざ自分の時間を我慢して時間を作ってやっているんだ」という恩着せがましい態度は子供にも伝わる。

 

子供は親に対して申し訳ない気持ちになり、必死に親からの期待に応えようとして自分自身を見失う子供が生まれる。

 

ずっと飲み歩く父親よりも、楽しく遊んでくれる父親の方が子供にとって嬉しいのは間違いないが、飲み歩く父親の下に生まれてしまった境遇はどうしようもない。

 

その生育環境でこそ得られる経験があると割り切って乗り越えていくのは子供自身の人生の課題だ。

 

親が飲み歩きたい欲を我慢して子供に尽くしてしまうのは、子供自身の人生の課題を奪うことになるとも言える。

 

しかし注意しなければならないのは、親自身が「本当に幸せを感じているかどうか」だ。

 

毎晩飲み歩くにしても、本当にお酒を楽しんでいるなら過度な依存症にはならない。

 

「お酒がおいしい」と思っている間は依存症ではない。依存症は「お酒を飲んでも美味しいとは感じないが、飲まないと酒のこと以外考えられなくなるから飲まずにはいられない」という状態だ。

 

週に何日か飲みに行って気持ちが豊かになるなら、「自由な時間を持たせてくれてありがとう」と家族に感謝の気持ちが生まれて、子供と遊びたいと自然に思うだろう。

 

しかし辛いことから逃げるため、罪悪感を持ちながら飲み歩いていると、子供を無視しているにも関わらず子供への感謝の気持ちは生まれず、「子供のために頑張って働いているんだから、飲みに行くくらい当然だ」という怒りが湧いてくる。

 

これは、表面的には子供より自分を大事にしているように見えて、本質は自分を犠牲にしている。

 

自分を犠牲にして家族のために尽くしているから、飲まずにはいられなくなるのだ。

 

子供を何時間も車に放置したままパチンコに没頭し、子供を熱中症で死なせてしまうのも、このような心理的背景だと思う。

 

愛や感謝の波動は自然と伝播するから、本当に自分の幸せを最優先で追求していれば自然と子供にも感謝の気持ちが生まれ、子供のためにも出来るだけのことはしてあげたいと自然と思うはずだ。

 

「子供のために尽くしたい」という親は多いが、「このままだと子供がダメになってしまう」「子供が自立していけるのか不安だ」という不足感や不安、罪悪感からの支援は、子供にとって重荷になる。

 

世間体や周囲との比較、将来への不安(まだ起こってもいない不安)から子供に尽くすのは危険だ。

 

子供も自分とは別人格なので他人だ。

 

子供に限らず、基本的に他人は放っておけば勝手に成長していくから、自分自身が幸せを感じることを一番大切にして良い。

 

自分が楽しんでいれば周りの人も勝手に楽しい人生へと変化していくが、それは子育ても同じだと思う。

 

子育てをしたことがない私が言うと説得力がないが、親が不安に飲み込まれずに全力で自分の人生を楽しんでいる背中を見せることが、子供にとって一番のギフトになると思う。

「願望を手放すと叶う」というが、忘れた頃に叶うことがよくある。

 

以前、よく通っていた渋谷の中華料理店で流れていた中国語の曲が印象に残った。

 

中国語の曲なので歌詞も分からないし、最初は印象にも残らなかったが、しょっちゅうかかっていたので、耳に残った。

 

約3年後、北京を歩いていたら、ショッピングモールでその曲がかかっていた。

 

渋谷の中華料理店で何度も聞いた曲だったのですぐに分かった。

 

渋谷で聞いていた時には曲名は気にならなかったが、北京で聞いた時には、異郷の地で聞き慣れた音楽を聞いて(もともと中国の曲だから当然だが)急に親近感が湧いた。

 

日本語の曲であれば、日本語の歌詞を聞き取ってググれば曲名はわかる。

 

しかし当時の私は中国語の歌詞を聞き取って書き取れるほどの中国語力はなかった。

 

メロディー検索という方法もあるが、日本のメロディー検索では中国の曲は出てこず、中国のメロディー検索のサービスも調べてみたがヒットしなかった。

 

急に気になってしまい、翌日には半日くらいかけて調べ尽くしたが疲れ果ててしまった。

 

中国人の友人にメロディーラインを伝えて「こういう曲知らない?」と聞いてみたりもしたが、知らなかった。

 

でも、なぜか「こういう時って絶対にそのうち曲名が分かるんだよな。大丈夫なんだよな」という謎の確信があった。

 

曲名や、商品名など、すぐに分からなくても、なぜか必ず縁があって分かる時が来る。

 

中国の曲だから曲名が分かる可能性は低い気もしたが、渋谷でも北京でもかかっているくらいだから中国では有名な曲のはずだと思った。

 

その後、中国に住むことになった。

 

中国のテレビはいつも同じような内容を流していて退屈なので全く見る気がしないのだが、ある日、スマホ依存症に疲れ、たまにはテレビでも見てみるかと思った。

 

中国のテレビを見る機会なんて1年に2〜3回くらいだ。

 

すると、なんとテレビをつけた瞬間に例の曲を歌い始めたのだ。

 

日本の音楽番組では演奏中ずっと曲名が表示されるが、その音楽番組は冒頭だけ曲名が表示され、すぐに消えてしまう。

 

テレビをつけた瞬間に歌い始めたので、曲名は分からなかった。

 

しかし演奏中、ずっと歌詞の字幕が表示されたので、スマホで録画した。

 

歌が終わると、歌詞のサビっぽいところを百度(中国版Google)で入力して検索したら、曲名がヒットした。

 

「いつかこの曲名は必ず知ることになるだろう」と意図してから7年、タイムラグは長かったが、願望が実現した。

 

特定の人との恋愛成就とか、特定の会社への就職などの願望実現のプロセスも、こんな感じなんだと思う。

 

願望についてずっと考えていると執着が生じて難しく、意図だけ決めて楽しく過ごしていると、忘れた頃に軽やかに叶う。

 

ちなみに、どうでも良い話だが、この曲だ↓

チベットの雄大な自然を背景にしたPVも気に入った。

 

 

私は数年間インドに住んでいました。

 

よく「インドへ行くと人生観が変わる」と言いますが、確かに変わりました。

 

もちろん全員が変わるわけではなく、インドへ行っても何も変わらない人もいますが、私は変わりました。

 

どう変わったのかと言うと、「潜在意識が現実を作る」を心の底から信じられるようになったのです。

 

「既にある」を実感し、引き寄せの法則を使いこなせるようになってきました。もちろんまだまだ未熟ですが。

 

インドで人生観が変わった理由をご紹介します。

 

 

理由1:問題を問題だと認定しているのは自分のエゴだと思い知らされる


インドでは常に想定の斜め上を行く事態が展開し、想定の斜め上を行くプロセスで問題が解決します。

 

エゴが理解できる範疇を当然のように超えてくるので、思考を手放すしかなく、宇宙の広大さを感じさせられます。
 

例えば、30ルピーでご飯を食べ、50ルピー札を渡したら、店主に「お釣りがないから待ってろ」と言われ、そのまま店主がどこかへ行ってしまったことがありました。

 

店主を待っている間、スマホの電池を消耗するわけにもいかず、携帯の電波も弱いので、私は何もすることがなく、35度の猛暑の中で、隣で寝そべっている犬を見てボーっとしていました。

 

20分くらい待っていると、店主は汗だくになって帰ってきて、私にお釣りの20ルピー(約40円)を渡しました。


暑いしイライラしていたので、1時間以上に感じていました。

 

いわば時給120円です。

 

しかし汗だくになって走ってお釣りを取ってきてくれた店主の顔を見ると、感謝の念しか湧いてきません。


このようにインドでは、誰も悪気がないのに意味不明な方向へ事態が展開をするのが平常運転なので、エゴの働きはストップせざるを得ません。


「無駄に待たされた」と問題認定していたのは自分のエゴで、実際には愛情と感謝しかなかったこと思い知らされた瞬間です。


日本人にとっては大問題でも、インド人にとっては大した問題ではなく、“No issues, take it easy”(問題ないから落ち着け)と言われます。

 

実は、その問題を問題だと思っていたのは私だけで、インド人は誰もそれを「問題だ」と認識しておらず、問題が自分の頭の中だけで発生していたことに気づきます。

 

目の前で起こっている事象を「問題だ」と認定しているのは自分のエゴだけで、エゴの認定に勝手に振り回されて疲労困憊していただけだと気づくのです。

 

インドの世界観では、魂は無限に輪廻転生を繰り返すので、これから何千万年、何億年と続いていく命の中で20分というのはほぼ一瞬です。

 

インドの街中を歩いていると「来世から本気を出します」と言わんばかりの人達で溢れています。

 

宇宙の壮大なスケールをナチュラルに感じられるのがインドの魅力です。

 

 

理由2:強制的に「今ココ」に集中させられる。

 

インドでは毎日、朝から晩まで信じられないトラブルの連続です。停電、洪水、大渋滞、大遅刻など色々ありました。

 

家へ帰ってみたら停電でエアコンがつかなかったり、電車が全く来なかったり、遅延していたはずの飛行機が定時に戻って乗り損ねそうになったり、色々な問題が起きます。

 

家に帰ってきたら家の前で水道工事をしていて、夜まで家に入れないことがありました。

 

常に目の前の問題に集中させられるので、過去のトラウマを思い出して悩んだり、まだ起きていない未来を予想して不安になっている暇がありません。

 

気がついてみたら「今ココ」に集中することを強制されます。

 

渦中にいる間はイライラして「早く日本へ帰りたい!こんなところ二度と来るか!!」と思うのですが、日本にいる時よりも漠然とした不安は薄れます。


少し離れるとすぐインドへ行きたくなるのはこういうところです。

 

繰り返しになりますが、誰も悪気がないのでイライラして怒っても問題は解決せず、寛大な心で許すことしかできません。

 

誰も悪気がなく、みんな一生懸命なのに問題が起こっているので憎めないのです。

 

本来、人生でイライラするべきことなど何もないではないかと思わされます。

 

 

理由3:輪廻転生をナチュラルに信じられる

 

私は幼稚園の頃、父方・母方の祖父母4人が入れ替わり立ち代わり病院へ入院し、そのお見舞いで毎週のように母に連れられて病院へ行っていました。

 

病院へ行くと、身寄りがなく1人きりで入院しているお年寄りを見かけ、亡くなった後には市役所の職員に火葬され、無縁仏として共同墓地へ埋葬されると聞きました。

 

一人っ子だった私は、「このまま家庭を持たないと孤独死・無縁仏へ一直線だ」と、幼稚園生ながらに寂しさに襲われました(幼稚園生なので言語化できませんが)。

 

この恐怖が、インドへ行ってだいぶ緩和されました。

 

そもそも寂しさは、本当の自分(ハイヤーセルフ)とエゴが分離すると生じると言われます。

 

ハイヤーセルフは常に愛で満たされ安心しているで、不安を感じるということは自分の思考がハイヤーセルフから分離しているのです。

 

病院で孤独死して無縁仏として共同墓地へ埋葬されることが寂しい・悲しいというのもエゴの観念です。

 

それを感じたのはインドのバラナシでした。

 

バラナシはガンジス河の沐浴で有名なヒンドゥー教の聖地ですが、インド全土から遺体が集まり、ガンジス川のほとりの火葬場で燃やされます。

 

遺体が燃やされるところを間近で見ることができます。

 

今のインドは交通が発達しているので、亡くなった後に飛行機で?バラナシへ輸送することが可能です。

 

しかし、つい昭和の時代までのインドはそうではありませんでした。

 

インド人の友達から聞いた話では、昔の敬虔なヒンドゥー教徒は、50歳くらいになると家族と別れを告げ、何百キロ、地域によっては2000キロ以上も歩いてバラナシへ向かったそうです。

 

バラナシには今でも「死を待つ人の家」と呼ばれる場所があり、亡くなって火葬されるのを待っています。

 

亡くなると、火葬されて遺灰はガンジス河へ流されます(妊婦や子供などは火葬せず、遺体のまま河へ流すそうです)。

 

わざわざ家族と別れて徒歩でバラナシへ向かうのは来世で良い生まれ変わりをするからだと思うのですが、輪廻転生を信じ切っていないとここまでの行動はできません。

 

インドへ行き、インド人と接していると、無限に魂が続いていくという事実を自然に感じられます。

 

日本は中国の儒教の影響で?先祖の墓を大切にしますが、もともとのヒンドゥー教や仏教にそのような発想はなく、遺灰は散骨します(チベット仏教は鳥葬ですね)。

 

孤独死や無縁物が寂しいなどと言う発想は微塵もなく。そもそも命が無限に続いていくのですから、人生の最後が寂しいかどうかなんてどうでも良いことなのですね。

 

無限に命が続いていくということは、それだけエゴの暴走に苦しみ続けることになるので、むしろ早く輪廻転生の苦しみから抜け出したいという目的意識で生まれたのが仏教なのでしょう。

 

日本でも輪廻転生を信じている人は多い気がしますが、どうなんでしょうか?

 

悲惨な自然災害や戦争を目の当たりにした時、「一度きりの人生」と考えると救われない気がします。

 

亡くなった人の魂がこの先まだまだ転生を繰り返し、最後にはみんな波動が上がって幸せになれると考えたら少し気持ちが楽になるのではないでしょうか?

 

魂が転生を繰り返して成長する過程で、「災害・戦争で亡くなるという経験をした」という解釈です。

 

依存症なども同じです。

 

薬物を使ったら脳が変形するので「ダメ・絶対!」と言われますが、「今回の人生は依存症で苦しむ経験をするために生まれてきたのだ」と考えます。

 

ハイヤーセルフは無条件の愛で満たされた完璧な存在なので、「不安」や「苦しさ」は経験できません。

 

不安や苦しさは一体どんな感覚何だろう?という好奇心から三次元へ降りてきて、今回は依存症の人生を経験してみた・・・という世界観です。

 

「宇宙が完璧で、神が無条件の愛を与える存在なら、なぜ戦争や災害で苦しむ人がいるのか?」という疑問がわきますが、インドへ行って以上のような解釈が腑に落ちました。

 

インドで、このような世界観を自然に受け取ることができるようになりました。

 

 

確か三島由紀夫?が「インドには行ける者と行けない者がいる。いつ行けるか、どのくらいの期間いられるかはインドが決める。」と言っていたそうですが、本気で認識の変更を意図したらインドに呼ばれるかも知れません。

インドのガンジーが、イギリスからの独立を目指して非暴力不服従運動を展開したことは学校の授業で習う。


私は20代の頃にガンジーの著作を読んだが、何が言いたいのか全く理解できなかった。

 

しかし30代になり、引き寄せの法則を知ってからガンジーの本を読み直したら、スルスルと理解できた。


非暴力不服従の本質は宇宙の法則だと感じた。


臆病や怒りの波動では願望実現をすることはできず、愛や感謝の波動を出せば自然と願望は達成される。

 

宇宙の法則では同じ波動のものが引き寄せるから、愛の波動で非暴力不服従運動を展開すれば、愛のある現実を引き寄せるのだ。

 

「私の非暴力」というガンジーの本の冒頭には

 

非暴力は暴力に勝るが、暴力は臆病に勝る

 

と書かれている。

 

非暴力を勧めておきながら、臆病になるくらいなら暴力を振るった方がマシだと言っている。

 

これは正にエイブラハムの感情の22段階に対応している。

 

・臆病とは、もっとも重い波動である罪悪感や自己無力感の波動

 

・暴力とは、怒りの波動

 

・非暴力とは、最も軽い愛や感謝の波動

 

臆病よりも暴力の方が良いのは、暴力の方がまだ自分の魂ルートに従っているからだ。

 

臆病な人は完全にエゴに支配されていて自分を見失っている。

 

怒りを感じる人はまだ自分の魂に忠実だが、その伝え方が分からず、暴力によって他人をコントロールしようとする。

 

非暴力の波動を放つ人は、自分の魂に従って行動するだけで愛や感謝の波動を周りに与えることができる。


すると、他人をコントロールしなくても望み通りの現実を引き寄せることができるのだ。

 

「私の非暴力」は、想像以上に過激な内容で、とても魅入られてしまった。

 

この本は、当時の世界情勢についてガンジーが色々とコメントしている本だ。

 

今で言うと、ひろゆきのYouTubeチャンネルのような位置づけだろう。

 

ガンジーは、当時の日本についてもコメントしている。

 

当時(昭和初期)の日本は、中国との戦争の真っ只中で、国際連盟を脱退し、軍部の暴走が止まらなかった時代だ。

 

徴兵に従わなければ捕まり、非国民として政治的にも社会的にも終わってしまう時代だ。

 

戦時中の日本でどのように非暴力不服従運動を展開するのか?について、日本人の僧侶がガンジーに質問している。

 

「私が日本人なら、1人で戦争に反対して銃で撃たれて死ぬでしょうね」

 

と回答していた。


インド人の世界観では魂の輪廻転生が当然の前提とされているから、ハイヤーセルフの意図に従った死は、魂の成長プロセスの一部に過ぎないと感じるのかも知れない。

 

いくら「一億総玉砕」を唱えていた日本軍と言えども、本当に日本国民全員を銃で殺すわけにはいかない。

 

だから、もし全ての日本人が臆病を捨てて自分の魂に従って非暴力不服従を実行すれば、いくら日本軍でもどうしようもないということだ。

 

ガンジーは実際、インドとパキスタンの分離に反対するという自分の主張を曲げなかったことで、ヒンドゥー教徒の過激派から銃で撃たれて亡くなっているので、言行一致だ。

 

ガンジーは中国に対しても非常に厳しいことを言っていた。

 

ある中国人が、「中国の街や建物が日本軍に破壊されるのは耐えられるが、何千年もの歴史がある文化遺産や書物が破壊されるのは耐えられない」とガンジーに訴えた。

 

するとガンジーは、「中国文化は古びた建物や書物の中にあるのではなく、今を生きている中国人の心の中にある。中国文化が過去の遺物の中にあると考えているなら、それは中国人の理解する中国文化が表層的であることを示している。たとえどんなに日本軍が中国の物質を破壊しても、中国人が非暴力不服従を貫くなら、日本軍が暴力によって中国の文化を破壊することは絶対にできない」と回答した。


非暴力は暴力に勝るからだ。

 

中国人の臆病な潜在意識が、暴力的な日本軍を引き寄せて中国を破壊しているのだという。

 

つまり中国を破壊していたのは日本軍ではなく、中国人自身だというのだ。

 

まさに「潜在意識が現実を創造する」だ。

 

ガンジーは他にもナチスのユダヤ人迫害やパレスチナ問題などにも言及しているが、どれも驚くほど過激で、しかし「自分の心の在り方が現実を創造する」という観点で一貫していた。

 

インドでは、ガンジーの教えに従って、イギリス人から暴行を受けても非暴力不服従を貫いた人達が大勢いた。

 

こんな過激な思想の活動家が大きな共感を生み、非暴力不服従運動が広がったというのは、インドは本当に奥深い国だと思う。

 

詳しくは分からないが、ヒンドゥー教の教えの中に非暴力不服従運動のルーツがあるようだ。

 

今の日本で流行っているスピリチュアル(引き寄せの法則)は、19世紀後半にアメリカで流行ったキリスト教の異端派であるニューソート運動がルーツになっているそうだ。

 

19世紀後半はダーウィンの進化論が発表され、聖書の記述の正確性が疑われた時代で、欧米で東洋思想が注目され始めた時代であった。

 

だから、ニューソート運動もヒンドゥー教の影響を受けているらしい。

 

インドのウパニシャッド哲学ではブラフマン(宇宙の根源)とアートマン(自分)が一致することを目指すらしいが、これは「ソースとハイヤーセルフの一致」というスピリチュアルの考え方に通じるものがある。

 

そう考えると、やっぱりスピリチュアルのルーツはインドにある気がする。


戦争中に爆弾から逃げて回っている状況で「現実を無視して別の領域に浸る」ことができる自信は私にはないけど、今の平和な日本で魂に従って生きる勇気を持つくらいならできるはずだ。

 

会社の同調圧力に逆らったところで銃殺されるわけではないし、たとえ仕事や家族を失っても生活保護がある。

 

ガンジーの本は「潜在意識が現実を創造する」の具体例を示した最も過激な教科書ではないだろうか。

離婚してから色々考えた。

 

私はオスとしての何かが根本的に欠如しているようで、恋愛は失敗するものの、逆に(オスとしての魅力がなさすぎて)女性から全く警戒されず、女性の友達はビックリするほど簡単にできる。

 

友達なら男性と女性は全く区別なく、一回り下の女性でも共通の趣味があれば簡単に友達になれるし、1日お出かけもできる。

趣味が合う友達であれば、相手が20代の女性だろうが60代の男性だろうが全く同じように接することができるし、接してしまう。

 

恋愛の脈アリ・脈ナシは全く分からないが、なぜか友達として合うかどうかはすぐ分かるし、外見だけで分からなくても3分くらい話せばわかる。


しかし問題は、私が女性として魅力的だと感じる相手に対しても友達として接してしまう点だ。

 

恋愛トークをしようが夜の話をしようが、女性からは異性として全く意識してもらえない。

何回かご飯に行ったりお出かけして、ディズニーランドまで二人で遊びに行ったのに、告白したら本気でビックリされて「え?!大切な親友だと思ってたのに・・・」と言われてしまって友情が壊れた経験は1度や2度ではない。

理想は何でも本音で話せる親友のような女性と信頼関係を深めてパートナーになることなのだが、どうも無理らしい。

 

振られる時には女性から必ず

 

「私はあなたのことを友達として接していたけど、決してあなたに男性としての魅力がないわけではなくて、必ず良い相手が見つかると思う」

 

と言われる。

 

本音かも知れないけど、今の自分のエゴが「社交辞令だ」と自動解釈する。

 

多くの女性から「自分らしく生きていれば、自然と最高のパートナーが見つかると思うよ」と言われる(ちなみに男性からは言われたことがない)。

 

奥平亜美衣さんの本にも、「自分からパートナーを探さなくても、勝手に引き寄せられる」と書いてあった。

 

これは本当にそうなんだと思う。

 

しかし潜在意識に「今の自分はオスとしての魅力がないから、女性から異性として魅力を感じてもらえない」という観念が超強烈に刷り込まれ過ぎていて、自愛とかクレンジングとかアファメーションとか、やればやるほどバカバカしく感じてしまう。

 

私はお金や仕事の分野の波動は割と軽くて、簡単に引き寄せられるから潜在意識のパワーは信じているのだが、だからと言って強力なエゴはどうしようもない。

 

「オスとしての魅力がなくても素敵なパートナーができる」

「自分にはオスとしての魅力が既にある」

と思っても、なかなか観念として変わらない。

 

私は母親の男性嫌悪の影響でマッチョイムズに対する深い嫌悪感を持っていたが、最近やっと男性向けの恋愛コンテンツを平常心で見られるようになった。

 

自分が男性であるにも関わらず、女性向けの「潜在意識で理想のパートナーを引き寄せる」みたいなコンテンツばかり見ていたので、男性向けの恋愛コンテンツを見た時は衝撃を受けた。

 

一番カルチャーショックだったのは、恋愛コンサルの成果として

「素敵な女性と結婚して最愛の子供ができました」と

「100人の女性とホテルに行きました!」

が同列に並んでいて、どちらも血のにじむ努力の成果として堂々と表彰されていたことだった。

 

女性向けのコンテンツばかり見ていたので「最愛のパートナーに愛される」ことが最高の幸せだと思っていたけど、男性社会ではセフレを100人作れることが同じくらい賞賛に値するという世界もあるのだ。

 

「経験人数100人」を自慢するなんて、倫理的に絶対に許されないことだと思っていたが、それも母親から影響を受けたエゴだ。

 

自分の素直な感覚に従うと、確かにセフレを100人作れる男性に対しては正直「凄い!尊敬する!」という感覚はある。そこまでの努力は並大抵のものではないと思う。

 

もちろん全ての男性が経験人数100人の男性を尊敬するわけではない。

 

私が経験人数の多い男性を尊敬してしまうのは、アダルトチルドレンで愛着障害があるからだと思う。

 

恋愛方面での歪みがない純粋な男性であれば、「経験人数100人」と聞いても、「へぇ~凄い。でも俺はもっと他にやりたいことがあるし、パートナーのこと好きだから全然興味ないわ笑。そういう世界もあるんだね、面白い」と軽い反応をする。

 

メンヘラ男性が経験人数に拘るのは、メンヘラの女性が、男性にかけてもらうお金で愛情を測り、男性からの愛情で自分の承認欲求を満たして存在を確認しようとするのと似ている。

 

身体の関係は男性よりも女性の方がリスクがあるから、経験人数が多いということは、それだけ多くの女性が自分にリスクを取ってくれていることを意味し、女性からの愛情を感じられて承認欲求を満たせるのだ。

 

1人のパートナーと深く愛し合って結婚・出産した場合、男性側にも社会面や経済面でリスクが生じるから、多くの女性とワンナイトした時ほど「女性が自分のためにリスクを取ってくれている」という実感を得られず、愛情を感じられないのが愛着障害(特に回避依存症)の男性なのだ。

 

男性向けの恋愛コンテンツを見ると、まずは外見や清潔感を整えて雰囲気イケメンになり、多くの女性と関係を持って自信をつけることで「自分は非モテだ」というコンプレックスをなくす。

 

すると特定の女性に対する執着が取れてくるので余裕が生まれ、結果的に魅力的な男性になって、魅力的な女性とパートナーになれるそうだ。

 

最初から魅力的な女性にアプローチすると撃沈して自己肯定感が下がり、男性としての魅力を落としてしまうから、あまり魅力を感じない女性(どうでも良い女性)からどんどんアプローチして経験人数を増やしていくのが良いのだという。

 

女性向けの恋愛コンテンツばかり見ていた私にとっては衝撃的な内容で、この考え方は強烈な抵抗と罪悪感が出てくる。

 

母親の影響を受けた私のエゴが「自分の自己肯定感を上げるために、好きでもない女性にアプローチするなんて失礼ではないか」と猛烈な拒否反応を示す。

 

でも、この拒否反応は典型的な非モテ男性のエゴらしい。

 

そもそも「好意のない女性にアプローチすると女性が傷つく」というのもエゴで、実際にはそれだけ多くの女性を幸せにする力がある魅力的な男性だという解釈もできるし、「本命ではない女性に対しても愛情を持って接する」というのは博愛精神だという考え方もできる。

 

「自分の経験値を増やすために魅力のない女性にアプローチをする」のではなく、「世の中には魅力的な女性が大勢いるから、色々な女性を知って自分の世界を広げ、多くの女性に愛情を届けて自分の魂を成長させる」と考えるのだ。

 

宇宙の愛は無限だというし、バシャールやエイブラハムが「特定の人だけを愛しなさい」 なんて、愛を制限するようなことは言わないだろう。

 

男性からかけてもらうお金で愛情を測る女性も同じで、男性からお金をかけてもらう自分自身を否定する必要はなく、男性に対する感謝の高い波動で喜んでいれば幸せだと思う。

 

それにしても、「外見を整えて、アプリや街コンで多くの女性にどんどんアプローチする」なんてプロセスはゴリッゴリの顕在意識で、引き寄せの法則や潜在意識は1ミリも使っていないような気がするが、果たしてそうなのだろうか?

 

母親から押しつけられたエゴを外して、自分の素直な感覚に従ってみると、違う感覚が現れてくる。

 

奥平亜美衣さん式に「愛情に浸れば素敵な自然と素敵なパートナーを引き寄せる」と言われても、自分にとってはあまりにもエゴの抵抗が強すぎて、「ダメだ」という意識が強く出てしまう。

 

「素敵な女性をパートナーにしたければ、死ぬ気で男磨きをしなきゃダメだ」と言われた方がエゴの抵抗が少なく、「そりゃそうだ」と納得できるし、逆にそれだけ努力すれば「これだけ頑張ったんだから、自分はモテるだろ」と潜在意識も書き換わると思う。

 

では、ゴリッゴリに努力するプロセスで潜在意識を使っていないのかと言えば、そうでもない。

 

10年前に恋愛コンサルや外見コンサルを調べた時は「こんなの、大金をはたいて申し込んでも、お金を取られるだけで結果が出ないだろう」と思った。

 

しかし自己肯定感が上がった今、そういうサービスを調べると「これだけゴリゴリにやれば人生変わるかも」とワクワク感が出てきた。

 

このワクワク感は、エゴが生み出す不安から逃れるための努力をしても感じられない。

 

魂のルートに乗っている時に感じる特有のワクワク感だ。

 

SNSの発達により、10年前と比べてモテコンサルも淘汰されてきて、アラフォー向けの良いサービスが増えているとも思った。

 

それに、そういうサービスにポンと申し込めるだけのお金も手元にある。

 

「何もしなくても素敵なパートナーを引き寄せる」ではなく、「死ぬ気で頑張りたいと思える、この人たちと一緒に頑張れば良いパートナーにアプローチできると確信できる環境を引き寄せた」ということだと思う。

 

奥平亜美衣さんの本にも「行動するな」などとは書かれておらず、「自分磨きは大いに結構ですが、異性に好かれるための自分磨きではなく、自分がやりたい自分磨きをしてください」と書いてあった。

 

男性としての魅力を高めることは女性から好かれるためにやるのではなく、自分自身をもっと好きになるためにやるのだ。

 

女性の親友から異性として全く意識してもらえないという今の現実も、「もし今すぐ理想のパートナーができたら男磨きを怠けて自分を好きになれないから、この機会にまず男磨きをして自分を好きになりなさい」という神の愛を感じた。

 

やはり自分の潜在意識が全ての現実を生み出していたのだ。

 

スピリチュアルの勉強をしてると、繁華街のような場所は波動が重い人が多いから近づかない方が良いという話をよく聞く。

 

確かにそうだと思う。自己肯定感が低くて執着の強い人が集まっている印象がある。

 

東京育ちの私は中高の頃、母に「新宿へ行ったら靖国通りを超えちゃ絶対にダメ。できれば東口の方へは行かないように」と言われていた。

 

一般的に中学生や高校生が行くような場所ではないけど、歌舞伎町は禁足地だと思っていた。

 

大学に入り、新宿のカフェでバイトを始めた。

 

新宿のあちこちに店舗があり、南口の店舗ならスーツを着た会社員、西口なら都庁へ向かう中国人観光客、東口なら若者が多かった。

 

二丁目の店舗はLGBTの客も多かったし、歌舞伎町に近い店舗は、朝5時に出勤すると開店前の店前でカップル(ホストと客かも?)が痴話げんかをしていたこともあった。

 

店員も多様性があって、正社員は裏稼業や風俗業から足を洗って「これから表の世界で頑張ります」という人が多かった。

 

バイトは私のような普通の大学生も多かったが、外国人留学生も多く、中にはビザ切れの不法滞在で母国へ強制送還された中国人もいた。

 

正社員の給料を聞いたら、週6日勤務、朝8時から夜11時まで働いて月収が額面で17万。

 

世間知らずの大学生だった私は、その給料が高いのか低いのかよく分からなかったけど、今から振り返ると30-40代でその給料は凄い世界だったと思う。

 

それだけ忙しければ新宿の近くに住まなければならないが、額面17万でどうやって新宿の近くに住むんだろう?

 

オーナーは絵に描いたような強欲な資本家だった。

 

大学でマルクス経済学の授業を受けていたので、「これが資本家による労働者搾取か!」と社会科見学をしている気分だった。

 

当時既に「懐かしの名曲」だったたが、歌舞伎町を歩きながら椎名林檎の「歌舞伎町の女王」をよく聞いていた。

 

新宿で働いて歌舞伎町がとても身近になったが、なぜかとても癒された気分だった。

 

私はホストではなく、歌舞伎町と直接の関係があるわけではない大学生だったけど、バイト後に夜の歌舞伎町を散歩するだけで開放的な気分になった。

 

歌舞伎町は波動が下がる場所のはずなのに、なんで開放的な気分だったんだろう?

 

20代の頃はずっと疑問だったけど、30代になって理由が分かった。

 

10代の頃の自分は自己肯定感が物凄く低かった。

 

エイブラハムの感情の22段階でいうと、恐れ・憂鬱・絶望に近い波動だったと思う。

 

満足・希望・楽観、ましてや感謝なんて高い波動は持っていなかった。

 

歌舞伎町の放つ波動が「怒り・疑い・欲求不満・ストレス」だとすると、当時の私にとっては自分自身の波動よりも歌舞伎町の波動の方がまだ高かったのだ。

 

大阪の西成のドヤ街で激安の居酒屋へ入って、おじさん達と会話をするのも楽しかった。

 

自分の波動が低すぎたので、高い波動の場所へ行くと逆に自己否定が強くなる。

 

例えば、オーガニック食材のレストランとか、自然豊かな場所へ行くと、「立派な人間であれ」と説教をされている感じで、ダメな自分自身に対する自己否定感が強くなり、逆に波動が下がる感じがした。

 

少なくとも歌舞伎町からは、どんなクズな人間でも受け入れてくれそうな度量を感じた。

 

新宿には本当に色んな人がいるけど、「こんな自分でも生きていていいんだ」と無条件の愛に一歩近づく感覚があった。

 

大阪の西成区などのドヤ街や、小岩・尼崎・蒲田なども同じ。

 

鬱病になるような人は、サラリーマンだらけの東急線や阪急線沿線に住むより、朝からパチンコ屋に行列ができてたり、ドトールで競馬新聞を読んでる人が大勢いるような足立区や寝屋川市などに住んだ方が精神安定するらしい。

 

最近、久しぶりに歌舞伎町へ行ったら、物凄く重い波動を感じて疲れてしまった。

 

自分自身の波動が満足・希望・楽観くらいまで上がってきたので、相対的に歌舞伎町の波動を低く感じるようになったのだ。

 

昔は絶対に行かなかったような恵比寿や中目黒、広尾、関西なら神戸の元町や三ノ宮の山側、京都の先斗町あたりのオシャレなカフェやバーで過ごす時間を幸せだと感じるようになった。

 

以前はそういう場所へ行っても世界が違いすぎて気持ち悪くなったのだ。

 

年齢を経て、確実に自分の波動が変わってきているのを感じる。

 

でも、10代や20代の自分には歌舞伎町や西成が必要だったから、感謝している。

 

風紀の悪い場所を排除すれば綺麗になるわけではなく、そういう場所を必要としている人達も確実にいるのだ。