引き寄せを勉強して、「既にある」の壁にぶち当たった。

 

離婚した後、彼女ができず「愛情のあるパートナーが欲しい」という願望が強くなった。

 

「既にある」と言われても、パートナーは隣にいない。

 

特に、夜に1人で布団へ入っている時に寂しさを強く感じる。

 

私は不眠症で、夜になると寂しくなり、包容力のある女性が添い寝してくれたらと思う。

 

男性の多くは身体の関係が目的で、コトが済むと冷たくなる人も多いらしい。

 

でも私は身体の関係そのものより、その後に添い寝してピロートークする時間が一番好きだ。

 

ピロートークでは何でも本音で話せる。

 

全てをオープンにできるし、何の目的も下心もない。

 

これほど幸せで楽しい会話はないと思う。

 

カフェやバー、居酒屋での女性との会話と比べると、ピロートークの方が数段深い自己開示ができるし、安心できる。

 

しかし、将来を見据えた真剣なお付き合い、もしくは結婚の場合、このピロートークの時間が一気に重くなる。

 

非常にワガママで道徳に反するが、結婚相手とはお金や時間配分、家事分担など色々な利害関係が生じる。


さらに妊活に焦ると夜の関係が義務になってしまうから、ピロートークで本音を話せなくなってしまうのだ。

 

夫婦仲が良好なのに不倫したり外へ遊びに行ったりする男性の心理は大抵これだと思う。

 

本音を話せない女性をパートナーにしてしまったのが問題とも言えるが、パートナーと本音を語るのは構造的に難易度が高く、かなり精神的に成熟していないと難しい。

 

自分で自分を無条件に承認し、自分1人でも幸せに生きていく力がある人でない限り、結婚しても幸せになれない。

 

自分を無条件に承認できない人が結婚してしまうと、パートナーからの無条件の承認を求める。

 

しかし所詮は他人であるパートナーからの承認には限界がある。


見捨てられ不安がある人は、パートナーから見捨てられないように本音を隠して相手に合わせるから、どこかで隠し事が生じてしまう。

 

その抑圧が依存症や強迫性障害などの形で現れてしまう。

 

本当にセックスが好きな人はセックス依存症にならないし、本当にお酒が好きな人はアルコール依存症にならないし、本当にギャンブルが好きな人はギャンブル依存症にならない。

 

私自身は恋愛依存症もしくは女性依存症という自覚がある。


女性依存性ということは、実は女性を本当に好きなわけではないのかも知れないと考えて、ふと気づいた。


自分が本当に欲していることは女性との身体の関係そのものではなく、「何にも包み隠さず、リラックスして本音を話せる関係」なのだ。

 

本音を打ち明けられる相手なら男性でも良いのかも知れない。


男性同士の会話は非常にセンシティブで、自分よりも経験人数が豊富な人に対しては引け目を感じてしまったりするから、なかなか本音を話せない。


でも、これもエゴによる錯覚だと思う。


私には他者から自分の全てを無条件に認めてもらいたいという欲求があり、それを夜の関係に求めているのだ。

 

私の母は不安感が強く、とても神経質で心配症だったので、無条件に愛された記憶がない。

 

20代後半、結婚をきっかけに親と絶縁し、5年以上実家へ帰らなかった。

 

30代になった今、現実の母親とは和解し、関係は良好になったが、それでも私の頭の中の母(インナーペアレント)は私を捌き続ける。

 

自分で自分を無条件に承認できれば他者からの承認など必要ないと言われるが、まだ潜在意識では女性からの無条件の承認を求めている。

 

男性との会話だと、そこまで本音を出し切るのにまだ抵抗がある(これもメンタルブロックの問題だと思う)。

 

女性との会話だと、魅力的な女性ほど無意識に「抱きたい」と思ってしまうから本音を話せない。

 

自分の本音を話せないということは、「自分の本音は人様に見せられるものではない。恥ずかしい」と感じているということだ。

 

自分で自分を否定しているのだから自傷行為だ。魂と思考がズレているから孤独感が生まれるのだ。

 

とはいえ、まだ自分で自分を無条件に承認することができないのに、波動の低い人に自己開示をして否定されると傷つくから、まだ安易に自分の本音を曝け出さない方が良い。

 

本当に自分で自分自身を無条件に承認されるようになれれば、誰に何を言われようと反応しなるから、もっと自分を曝け出せるようになるはずだ。

 

全てをオープンにする人はハイヤーセルフに近いから、とても魅力的で、多くの人が寄ってくる。

 

自分で自分を無条件に承認できる男性は余裕があるから、結果的に女性とピロートークできる可能性も高くなるだろう。

 

しかしその頃には自分で自分を無条件に承認できるようになっているから、女性と夜の関係を持つことを渇望しなくなっているだろう。

 

女性とホテルに行けるか?家で本を読むか?の違いが、ビールを飲むかワインを飲むかくらいの気楽な選択肢になっているはずだ。

 

自分で自分を無条件に満たすことができれば、素敵な女性とピロートークしたいという願望も消失する。

 

「無条件に自分を愛せる現実は既にあるから、ピロートークしてくれる女性がいてもいなくても、どっちでもいい」と思えれば、結果として「ピロートークしてくれる女性がいる」という現実が現象化する。


仕事やお金の分野では、そうやって執着を手放して願望を引き寄せた経験が何度もあるから、そういう仕組みになっていることを頭では理解している。

 

しかし今の自分は、女性との夜の関係に自分の承認欲求を乗せてしまっているから、とても波動が重い。

 

女友達との関係が深くなると、私がその女友達に無条件の承認を求めてしまって、その女友達から「友達としてしか見れない」と言われて関係を壊してしまう。

 

女性から優しくされ過ぎると、見捨てられ不安や依存心にスイッチが入って、愛情を試したくなってしまうのだ。

 

この状況での「好きです。付き合ってください」は女友達に対する攻撃でしかなく、非常に危険だ。

 

男性の私は背景に性欲があるから、「そこまで愛情を示してくれるなら、エッチしてよ」と深層心理で思っていたことに最近気づいた。

 

これは典型的な「試し行動」だ。

 

私の潜在意識には「自分は無条件に愛されない存在だ」とインストールされているから、女性から優しくされると、わざわざ潜在意識が愛情を壊す方向へ持って行ってしまうのだ。

 

毎日好きなことをして、自分を満たして自己肯定感を上げて来たつもりだったけど、全然まだまだだ。

 

こうして改めて書いてみると、女性に対して恐るべき攻撃性を持っていることに気づいた。

 

自分の本音を話せることが本当の望みなのであれば、わざわざ女性を攻撃する必要はなく、このアメブロでも一定程度は満たせている。

 

このアメブロは思考の整理に使っていて、リアルの知り合いには誰にも見せていないし、見せるつもりもない。

 

そのぶん、思いっきり本音を書いている。

 

自分のために書いているので他者の承認は求めていないが、それでも1件でもいいねが付くと嬉しい。

 

どこの誰だか分からない人でも、この日本に自分の本音を承認してくれる人が1人でもいることを確認できるのは嬉しい。

 

今はオンライン上でしか確認できなくても、そのうちリアルでも自分の本音を全て話せる人が現れるだろう。

 

いや、実は既に周りにいるのに、自分が勝手に怖がって本音を話していないだけかも知れない。話せば分かってくれる人は多いのかも知れない。

 

そう考えると、自分の本音を話せる環境は「既にある」のだ。

 

「自分には今、ピロートークしてくれる女性がいない」と思うと悲しくなるけど、これは「ない」という不足感に焦点を当てているから、ますます「ない」という現実を引き寄せる。

 

どうして不足感に焦点を当ててしまうのかと言うと

 

1.ピロートークという状況を、他人と本音で話すための条件にしている

2.スキンシップがない状況でも「愛がある」と感じることをエゴが許可しない

 

からだと思う。

 

匿名のオンラインのアメブロからでも自分の本音を出すことに慣れていけば、自分で自分を無条件に受け入れられるようになる。

 

自分で自分を無条件に許せるようになれれば、余裕が生まれて、人の本音も受け入れられるようになる。

 

女性を攻撃するのではなく、女性を心から愛せる男性になりたい!いや、既になっているのだ!

 

昔から自分が女性との関係を拗らせやすい原因が全く分からなかったが、今日だいぶ言語化できた。

 

言語化できたということは、既にエゴと一体化しておらず、別の領域に立てている。

 

「アメブロで本音を話せる環境があるんだから、ピロートークできる女性が現れなくても我慢しよう」ということではない。

 

既に自分は女性を無条件に愛せる男性になっているのだから、同じ波動の女性を引き寄せることになる。

 

自分を無条件に愛してくれる女性を引き寄せるという願望は既に叶っていて、現象化までのタイムラグを楽しんでいれば良いのだ。

社会人になってから15年ほど、何度か転職をしつつずっと働いてきたけど、そろそろ半年くらい仕事を休んでゆっくり旅行してみたいという直感が下りて来た。

 

新社会人の頃も「仕事をしたくない」「ずっと休みたい」と毎日思っていたが、ちょっと感覚が違う。

 

当時は、毎日会社へ行くのが苦痛過ぎて逃げたかったし、かといって履歴書に空白ができたらどうしようという不安と恐怖で板挟みになって大変だった。

 

仕事を辞めたら大変なことになると思っていたが、辞めなくて良かったと思う。

 

「仕事を辞めたら大変なことになる」と思いつつ仕事を辞めたら、大変な現実を引き寄せると思う。

 

鬱で死にそうなら辞めて休んだ方がいいけど、辞めても地獄が待っていることには変わらないから、できれば現実を動かす前に気分を楽にする方法を考えた方が良いと思う。

 

緊急避難的に辞めないといけない場合はあるけど、上司や会社を非難する心理状況のままだと、同じ状況を引き寄せ続ける可能性が高い。

 

新社会人の時はすぐに辞めず、部署移動などをさせてもらって何とか乗り切った。

 

その後、何度か転職をしてきたが、転職先を決めてから現職に退職を告げ、1ヶ月くらいの引継ぎで、ギリギリ有給を消化して次の会社へ移るという流れだった。

 

ただ前回の転職だけは少し違って、転職活動を開始する前に退職の意向を告げて、後任が決まるのを待ってから転職活動を始めた。

 

転職先が決まる前に退職を告げるのはリスクがあったが、なんとなく直感的にその方が良い気がしたし、結果的に前職の上司からは好印象を頂いて、今でも良い関係が続いている。

 

前職の仕事が嫌いだったわけではなく、新しい環境で新しい仕事に挑戦してみたかったから転職したのだ。

 

現職でも、同僚や上司に恵まれて貴重な経験を積むことができたが、入社して2年経って、だんだん仕事に慣れてきた。

 

私は常に新しい発見、新しい挑戦、新しい経験という刺激を求めてしまう性格で、仕事に慣れてきて職場がぬるま湯になってきたら次へ行きたくなるのだ。

 

新卒の時の「地獄から逃げ出したい」という感覚とは違って、今の仕事を続けても良いし、辞めても良いけど、次のチャレンジに行った方がワクワクするという感じだ。

 

「お風呂のお湯が冷めてきたら、外は寒いけどそろそろ出るか」という感じ。

 

そして、今回は次を決めずに退職して、少し仕事を休もうと思う。キャリアブレイク。

 

仕事を休むことについてそこまでの執着はない。

 

今は、すぐ次の仕事を探すか、少し仕事を休むか?の選択の違いが、チョコアイスを食べるかバニラアイスを食べるかの選択の違いくらいの軽い問題に感じられる。

 

どっちでもいいけど、社会人になってからキャリアブレイクを取ったことがないし、仕事を休んでやりたいこともあるから楽しそう・・・という感覚。

 

これも潜在意識だと思うけど、「仕事を辞めたら大変なことになる」と不安になっていた新社会人の頃とは異なり、「しばらく仕事を休んでも大丈夫」と心の底から信じきっているから、大丈夫な現実が現れることになる。

 

恋愛だと、まだ中々こう思えない。

 

パートナーを見つけられるか?1人で生きていくか?の違いは、生きるか死ぬかくらいの大問題に感じられる。

 

そして、ずっと再婚しないまま孤独死する恐怖もあるが、合わない女性と焦って結婚して束縛でグルグル巻きにされる恐怖もある。

 

この状態だと、どっちへ行っても八方塞がりになるから、今は再婚のことは焦らない方がいいと思っている。

 

婚活をしてパートナーを探すか?それとも1人の人生を楽しむか?の選択肢がチョコアイスを食べるかバニラアイスを食べるか?くらいに感じられるようになったら、どっちへ向かって動けば良いのか分かるようになると思う。

 

仕事方面でやってきた方法を恋愛や結婚へ応用して波動を上げていけばいいんだけど、頭では分かっていてもやはり大変だし苦しい。

芥川龍之介が書いた「杜子春」という小説がある。

 

杜子春という青年が仙人の老人と出会い、「自分も仙人になりたいので弟子にして欲しい」と頼むと、仙人からある課題が与えられる。

 

仙人が戻るまで、何が起こっても声を出してはいけないという課題だ。

 

杜子春に、次々と試練がやってくる。

 

虎や蛇、神将の脅しにも屈しなかった彼は武器で突き殺されるが、地獄の閻魔大王にすら黙秘を続けた。

 

しかし閻魔大王は杜子春の前に両親を連れてきて、鬼に両親を鉄鞭で打たせる。

 

鉄鞭で打たれる母親の姿に、杜子春は思わず「おっ母さん」と声を上げてしまった。

 

すると仙人が戻り、「あの時もし声を出さなかったら、お前を殺していた」と言い、杜子春は「これからは人間らしい暮らしをしたい」と言った。


以上があらすじだが、この話には1000年近く前に中国で書かれた原作がある。

 

原作では、家族を殺された杜子春が声を上げた時、仙人の老人が戻り、杜子春に「声を出さなかったら仙薬ができ仙人になれたのに」と伝えた結末になっている。

 

家族を見捨てることを美徳とするかのような中国の原作はあまりにも非人間的で、愛情のカケラも感じられない。


ネットのコメントを見ても、この原作は残酷すぎて意味が分からないという意見が多い。


この原作に違和感を覚えた芥川が、家族愛の大切さを訴える結末にしたのだろうが、私は原作の方がリアリティを感じた。


人生には、泣き叫ぶ家族を無視して見捨てなければならないことがある。

 

典型的な例はアルコール依存症のパートナーや毒親だ。

 

パートナーが依存症や強迫性障害などの精神疾患にかかると、家族には膨大な負担がかかる。

 

普通の人なら、パートナーが仕事もせずに朝から晩まで酒ばかり飲んでいたら見捨てて離婚するだろう。


しかし、不安型の愛着障害がある女性だと「この人は私がいなければ生きていけない。死んでしまう」と考え、支えてしまう。

 

1人でお酒を飲んでいたらどこかで人生が行き詰まるので、嫌でも乗り越えなければならない。


しかしパートナーが支えてしまうと人生が行き詰まらないから、アルコール依存症はどんどんエスカレートする。

 

依存性の夫を支える妻には見捨てられ不安があるので、わざわざダメな男性を引き寄せて自分に依存させる。


この妻は、パートナーが絶対に自分から離れていかないような現実を自分で創造しているのだ。

 

シラフの時には、夫が妻に対して「俺はお前のお陰で生きていける。いつも迷惑をかけて済まない。必ずお酒を断ち切ってお前を幸せにする」などと言う。


すると妻は希望を持ってしまうが、治ることはない。夫は潜在意識では依存性を治したくない。


アルコールに依存できなくなると、厳しい現実に向き合わざるを得なくなるからだ。


一方、妻も潜在意識では夫には依存性のままでいてもらわなければ困ると思っている。

 

なぜなら、もし夫が自立して精神的に安定してしまうと、夫が自分に依存してくれなくなり、自分が夫から見捨てられる不安と戦い続けなければならないからだ。


夫がアルコール依存性でいてくれることで、妻は「夫を支えなければならない」という大義名分ができ、自分自身の愛着障害や見捨てられ不安から逃げ続けることができるのだ。


まさに共依存だ。お互いに1人になるのが怖いから、自分のいる地獄からパートナーが逃げ出さないようにしているのだ。

 

人生でこのような関係は多いと思う。パートナー関係だけでなく、仕事や友達関係でもある。

 

アルコール依存症の妻は自分が夫を見捨てたら夫は死んでしまうと心配するが、ここでは夫を殺す覚悟で援助を打ち切らなければならない。

 

実際に「自分が支えないと夫は死んでしまう」というのはエゴによる幻想で、実際には支えを失った夫は自立せざるを得ない。

 

正に杜子春の原作通りの展開で、エゴによる幻想に惑わされず、依存症の家族が泣き叫んで助けを求めても、黙って無視をして立ち去らなければならない。


夫が死んでしまう覚悟をもって離れることで、最終的には夫も自分も救われるのだ。


これは男女が逆転しても同じで、例えば強迫性障害の妻を持つ夫にも当てはまるだろう。

 

結局、自分を幸せにできるのは自分しかいないし、他人の魂は自分が手を貸さなくても勝手に幸せになっていく。

 

だから私は、杜子春の原作にこそ神の愛を感じた。

今の幸福度が変わると過去に対する見方も変わると実感することがある。

 

私は東京大学を卒業しているのだが、この過去について、栄光になったり黒歴史になったり、記憶の中での位置づけがクルクルと変わる。

 

「過去の解釈が変わる」というレベルではなく、記憶そのものが変わる。

 

18歳で入学した時は正に有頂天で、この世に敵はなく、まさに「我が世の春」だと思っていた。

 

他大学の学生たちのことを「教養がない」と見下していた。

 

20代になって少し成長し、18歳当時のことを振り返ると、あまりの視野の狭さに自己嫌悪し、高校までほぼ勉強しかして来なかった自分を恥じた。

 

20代の頃は、学歴や会社名を鼻にかけて自慢する人に対する嫌悪感が凄まじく、逆に中卒や高卒のヤンキー上がりで頑張っている人達への憧れを持っていた。

 

しかし30代になってまた感覚が変わった。

 

自分はヤンキーではなく、もともと勉強が好きだったし、狭い社会で生きてきた18歳が有頂天になってしまうのは仕方ないと思った。

 

「東大のブランドを鼻にかけて他大学の学生を見下す自分」に対しても、「そういう時期もあるよね」と許せるようになった。

 

ヤンキー上がりでも波動が高い人もいれば低い人もいるし、東大卒でも波動が高い人もいれば低い人もいる。それだけのことだ。

 

20代のころ、なぜ東大卒の肩書を恥じるようになったのかというと、就職氷河期で就活に失敗し、しかもコミュニケーション能力に問題があったため女性からモテず、苦労したからだ。

 

「中高の頃、勉強ばかりせず、もっと友達とのコミュニケーションや女性との関係などを大事にすれば良かった」と後悔していた。

 

本当は別の大学に行きたかった気持ちがあったが、高校の先生から「東大へ合格する実力があるなら東大へ行くべきだ!学歴のメリットは意外と大きい」と説得され、東大へ行くことにした。

 

20代の頃は就活に失敗して中小企業に入ったので「東大卒のメリットなんてなかったし、高校の先生のせいで人生が歪んでしまった」という他責思考の被害者意識すら持っていた。

 

30代になり、やっと自分らしく好きな仕事や趣味ができるようになったら、過去に対する評価がまた変化した。

 

よく思い出してみると、東大受験の動機は高校の先生に言われたからだけではなかった。

 

経験上、100%他人軸の行動をしている時は頑張り切れないし、途中で鬱になってしまう。

 

東大受験の勉強はそれなりに楽しかったから、今から振り返ると自分軸の決断だったのだ。

 

世界史や日本史は趣味みたいなものだったし、英語の読み聞きができるようになったり、古文や漢文で昔の人の文章を読むのも楽しかった。

 

数学だけはどう考えても苦痛だったけど、文系だったので全体に占める割合は少なかった。

 

そして東大へ入学した動機には「他人に勝ちたい」「自慢したい」という他者目線の動機も少しはあったけど、それ以上に「日本一の学生・教授が集まる世界を見てみたい」という好奇心が強かった。

 

東大にいる間は、授業を受けている先生がテレビに出ていて「先生、昨日テレビで話していた○○の件ですけど・・・」と質問や議論をできたりもして、本当に楽しかった。

 

そう考えると、東大へ行ったのはエゴによる動機とは言い切れず、自分自身の魂の望み(好奇心、ワクワク感)に従っていたのだ。

 

20代の頃はまだまだ自己肯定感が低かったので10代の自分を否定的に捉えていたけど、30代になってから仕事が楽しくなり、10代の頃の自分も受け入れられるようになってきた。

 

20代の頃は新卒の就活に失敗して「東大の学歴なんて何の役にも立たないじゃないか」と高校の先生を恨んでいたけど、一流企業や公官庁へ行かなくても学歴が役に立つ機会はたくさんあり、10代の頃の自分自身に守られていると思う機会は多い。

 

20代の頃は、10代を振り返って「勉強ばかりしていて苦しかった」と思っていたけど、30代の今10代を振り返ると「勉強を通じて知らない世界のことをたくさん知れて楽しかった」と思い出す。

 

これは過去の解釈が変わったというより、もはや過去の記憶が変わった、もしくは過去そのものが変わったという気がする。

 

「勉強ばかりしていて苦しかった」というのは、恐らく苦しかった20代の自分が生み出した捏造で、高校生の頃の自分がそんな苦しさを感じていた記憶を全く思い出せない。

 

今はどちらかというと、20代の自分に対して「なんで1人のパートナーにあそこまで執着しちゃったんだろう。もっと早く離婚すれば良かった。まだ若いんだから、もっと遊んどけば良かった」と思っている。

 

しかしそれは今の自分が恋愛コンプレックスを解消しきれていないからだと思う。

 

もし40代になって、もし「女性からモテない」というコンプレックスを克服できたら、「20代の時に1人のパートナーと長期間向き合って良かったな」「結婚して良かったな」と思えるようになるのかも知れない。

 

いや、「多くの女性からモテたい」というより、「心から尊敬する女性から異性として意識してもらえて、ドキドキ感と安心感を両立したパートナーシップを築く」という世界を目指している。

 

20代の結婚生活は見捨てられ不安に駆り立てられた共依存関係で、疲労困憊してしまった。

 

これから自分はまだまだ色んな経験をして、視野を広げて、魂を成長させていくから、将来は20代の自分に対する捉え方も変わると思う。

 

エゴと一体化せず、魂の望みに従って生きていけば悪いことにならないという確信は揺らがない。

あるブログを読んでいたら

「あなたの願いが叶わなかった事に神の愛を見いだしてみてください」

と書かれていた。

 

 

真理に触れた気がして、感動してしまった。

 

例えば「1億円が欲しい」という願望があったとき、その願望が魂の望みに従ったものであれば良い。

 

しかし、その願望が「お金を持っていない自分には価値がない」という不足感のエゴから来ていたら、願望を実現すると却って不幸になってしまう。

 

1億円を手に入れたら一瞬気分が高揚するけど(脳内にドーパミンがバーっと放出される、中毒性がある快感)、「お金を持っていない自分には価値がない」という信念は強化されてしまう。

 

恋人も同じで、「○○という理想の条件に合った恋人を作れない自分には価値がない」という不足感から恋人を作ると、願望が叶ったら「この恋人を失ったら自分には価値がない」と更に落ち込んでしまう。

 

願望が叶わずに落ち込むことで、自分自身の認知の歪みに気づいて「別の領域」に立つことができる。

 

「お金があってもなくても自分の価値には関係ないけど、1億円を持って新しい景色を見てみたい。」という好奇心やワクワク感があれば魂の望み(前兆)であって、実現する。

 

だから、願望をイメージした時に胸が締め付けられる暗い気持ちになったり、中毒性のある高揚感になるのか、それともワクワク感や安心感になるのかが重要だ。

 

エゴの願望に執着するのは、空から垂れて来た蜘蛛の糸に捕まって上に吊り上げられていくようなものだ。

 

「天にも昇る心地」とは、正にそういうことで、危険信号かも知れない。

 

魂に従った本物の幸福感というのはもう少し薄味というか、ドーパミンがドバーッと放出される感覚とは違う。

 

セロトニンとかオキシトシン的な幸福と言えるかもしれない。

 

蜘蛛の糸に吊り上げられている人は、自分で上へ上っていくことはできず糸任せ(他人軸)で、糸が切れて奈落の底へ突き落される恐怖と常に戦わなければならない。

 

しかも、糸に吊られて上って行った先に天国はなく、どこまで上っても地獄だ。

 

魂の望みに沿った幸せは、インスピレーションに従って高い山を見つけて、自分の足で上っていくイメージだと思う。

 

山登りは大変なこともあるけど、景色を楽しめるし、急に奈落の底へ突き落される恐怖もない。

 

この「山登り」というのが、引き寄せの法則で言うと、波動を高めてインスピレーションとシンクロニシティを信じることなのかなと思う。

 

エゴと一体化せずにシンクロニシティを信じて待つことは、実は山登りと同じくらいしんどいことかも知れない。

私は昔から恋愛にコンプレックスがあり、パートナーができても依存したり執着して関係を壊したり、依存心の強いパートナーを引き寄せて共依存になってしまう。

 

仕事や友人関係では上手く引き寄せの法則を使いこなせるようになり、あまり悩みがなくなってきたのだが、どうしても恋愛だけ上手くいかない。

 

「恋愛だけ上手くいかない」という観念が潜在意識に入っているから「恋愛だけ上手くいかない」という現実を引き寄せるのだが、どうしてこういう観念が入っているのか?

 

そもそも、「本当の自分が完璧」なのであれば、たとえ恋愛が上手くいかなくても苦しまないはずだが、どうして苦しんでしまうのか?

 

「苦しい」ということは、本来の自分とエゴが分離しているのだが、エゴは何を考えているのか?

 

過去の記憶を遡って考えたら、思い当たることを見つけた。

 

私は幼稚園から小学校の頃、父方・母方の祖父母4人全員が交代で代わる代わる入院し、父母に連れられてあちこちの病院へお見舞いへ行くのが日常になっていた。

 

頻繁に行くと、隣のベッドの入院患者とも仲良くなるが、中には身寄りがおらず、誰もお見舞いに来なくて、ずっと1人で過ごしている入院患者もいた。

 

ある時、病院へ行くと、見舞いが来ない患者の1人がいなくなっており、聞くと他界したそうだ。

 

身寄りのいない人が亡くなるとどうなるのか?と看護師に聞いたら、市役所の職員が簡単な火葬をして無縁仏として共同墓地へ埋葬されるのだと聞いた。

 

私は1人っ子だったので、「家族がいなければ、僕も人生の晩年をずっと病院のベッドで1人寂しく過ごし、死んでも知り合いが誰も葬式に来ず、見ず知らずの市役所職員に火葬されて無縁物になるのか」と想像してしまった。

 

しかも、当時は同居していた母方の祖父が人工透析を受けていて週に3回は病院で全ての血液を綺麗にし、毎日朝晩にインシュリンの注射をしていた。

 

母は祖父の介護で疲労困憊し共倒れ寸前の状況だった。

 

年に1回の健康診断の注射ですら地獄なのに、毎日2回も注射をするなんて考えられない。

 

このように、幼稚園の頃から、「人生の最後には地獄が待っていて、家族を作らなければ1人で乗り越えられる自信がない」という恐怖が観念として植え付けられてしまった。

 

私の親戚は全員結婚して家庭を持って子供もおり、1人暮らしや子なし夫婦の老後がどうなるのか想像がつかなかったことも原因だ。

 

女性と向き合う時に、この幼稚園の頃の恐怖がエゴとして発動してしまい、見捨てられ不安になってしまうのだと最近気づいた。

 

しかし不思議なことは、ここまで必死に女性を求めるなら、もっと必死に男磨きをして、全力でチャラ男になるはずである。

 

私は昔から、不安にドライブされた努力であれ、魂の愛情にドライブされた努力であれ、本気で目標を決めたら行動力はあり、必ず実現させてきた。

 

ところが男磨きやモテに関しては、情報収集をして自分を変えようとしても、すぐに疲れて諦めてしまう。

 

マッチングアプリも、数人断られたら心が折れる。

 

今は外見コンサルや男性向けの恋愛コンサルも多く、本気になればチャラ男イケメンに生まれ変われることが可能な時代だ。

 

なぜ勉強や仕事、趣味の目標や海外移住は実現できるのに、恋愛だけ頑張れないのか?

 

ここでもう1つのメンタルブロックを見つけた。

 

私は両親の夫婦仲が悪く、母から父の愚痴を聞かされて育ち、「父のようになってはいけない」と言われた。

 

母は上野千鶴子氏を崇拝するフェミニストで、いわゆる男性的なマッチョイズムを嫌悪していた。

 

母は左翼で、地球の裏側へ軍隊を派遣して民間人を殺すアメリカ軍や、高給取りの政治家の悪口を常に話していた。

 

その結果、母から愛され、母の期待に応えるためには男らしさを捨てなければならないという観念を持ってしまったのだ。

 

だから、私が男らしさを磨こうとすると、途中でメンタルブロックが作動してしまう。

 

しかし現実にモテる男性は男らしい男性で、ナヨナヨしている私はモテない。

 

モテない結果、「病院で1人寂しく過ごし、無縁仏として埋葬される未来」をリアルに想像して恐怖に打ちのめされてしまうのだ。

 

女性にモテないことは恐ろしいが、母に見捨てられる不安があるので男磨きもできない。

 

二重のエゴの束縛によって身動きが取れなくなってしまった。

 

しかし今、「別の領域」に立つことによって、老後の孤独死の恐怖も、母から見捨てられる恐怖も、エゴによる幻想であると気づいた。

 

約35年間、常にこのエゴの恐怖に支配されてきたので簡単には変われないが、エゴだと気づくことができれば手放すことができる。

 

では、老後の恐怖から解放され、「男らしくなっても良い」と自分に許可したら、自分はどうしたいのか?

 

ずっと1人がいいのか?パートナーを作りたいのか?子供は欲しいのか?

 

もう30代後半で、今から取れる選択肢は少ないとも考えてしまうが、それもエゴだ。

 

今から外見コンサルに通って女遊びに没頭しても良いけど、それもエゴの不安による願望なのか、魂の望みなのか。

 

「色んな女性を知りたい」「女性との深い関係を通じて、人間を深く理解したい」という気持ちはエゴとも言い切れず、好奇心と愛情に基づく魂本来の望みであるような気もする。

 

「女遊びなんて20代前半で済ませておくべき」と思って、30代から女遊びを始める痛いおじさんにだけはなりたくないと思っていたけど、それもエゴだ。

 

これからどうしよう、自分...

 

こういうことはパソコンの前に座って悶々と考えていても結論は出ず、人里離れた静かなお寺でゆっくりしているとインスピレーションが下りてきたりする。

 

とにかく、エゴと一体化せず、魂から降りてきた望みに従うことだけは決意する!

学生の頃から女性にモテる自信がなく、たまたま好意を寄せてくれた女性と25歳で結婚した。

 

「本当に好きかどうか分からないけど、一緒に生活するうちに好きになるかも。この機会を逃したら、一生独身かも知れないし」

 

と思っていた。

 

非常に自己中心的で失礼な考え方だ。

 

こんな意識で結婚するとどうなるかというと、離婚するのが怖くて相手に依存したり、相手を束縛したり、相手からの理不尽な要求にも応えざるを得ない。

 

そうなると共依存だ。

 

たとえ大好きなパートナーと結ばれたとしても、自分に自信がないと「こんな素敵なパートナーが自分と一緒にいてくれるなんて奇跡だ。束縛しないと逃げられてしまう」と不安になって、自分から関係を壊してしまう。

 

だから

 

「自分は1人でも幸せに生きていける」

「自分を好きになってくれる異性は他にもいくらでもいる」

 

と思えて初めて幸せな結婚生活を送れる。

 

結婚したからと言って「モテない」という自信のなさは消えない。

 

だからどこかで恋愛には向き合わないといけなくて、パートナーができようが結婚しようが、非モテコンプレックスはどこまでも追いかけてくる。

 

思いっきり男磨きをして一生パートナーに困らない自信をつけるか、座禅なり瞑想なりして「1人でも幸せに生きられる」と確信できるまで自分を満たすか、どちらかだと思う。

 

どちらの道でも、特定のパートナーに執着して関係を拗らせる執着を断ち切ることはできると思う。

 

 

私は中高の頃スクールカーストの下位にいた非モテで、カースト上位のイケメンを恨んでました。

 

カースト上位のイケメンは下位の非モテを虐める癖に、女子からの愛情を受け取ることができます。

 

非モテは女性から愛されず、モテ男性からは虐められます。

 

歌舞伎町でも、キャバ嬢や風俗嬢が非モテから吸い上げたお金がイケメンのホストへ流れる構図です。

 

イケメンは悪の権化だし、それに気づかずイケメンを好きになる女もバカだと思っていました。20代前半までは。

 

そんな私にも彼女ができ、結婚して、30代前半で離婚しました。

 

アラフォーに近くなり、自分を癒して自己肯定感が上がってくると、イケメンや女性に対する怒りも収まってきて、フラットに見られるようになりました。

 

まず「イケメンは・・・」「女性は・・・」というのは主語が大きすぎます。

 

当たり前ですがイケメンにもいろんな人がいるし女性にもいろんな人がいます。

 

私が非モテだったのは不細工だからではなく、自分の小さな経験を拡大解釈して「イケメンは・・・」「女性は・・・」と主語を大きくして被害者意識を持っていたからでした。

 

実際のイケメンは非モテのように屈折しておらず素直な人が多いので親切で優しい人が多いです。

 

また実際には外見は比較的簡単に変えられる分野で、イケメンになるためのノウハウを教えてくれるイケメンもいるし、そういうサービスもあります。

 

イケメンだろうと不細工だろうと、他人を傷つけたり卑屈になっていれば幸せに離れず、他人を傷つける人は若い頃にイケメンでもアラフォーで苦しいことになっています。

 

そう考えると、やはり自分の意識が世界を作るのだと思います。

社会人になりたての10年前は、毎朝6時台に家を出て夜10時過ぎに帰宅をするような激務・長距離通勤の地獄のような生活をしていました。

 

その頃、ある資産家の知り合いが、平日の朝から自宅でジャズを聴きながらコーヒーをゆっくり楽しめる生活をしていると聞きました。

 

その時は「なんて幸せで優雅な生活なんだ!羨ましい!たくさん稼いで、自分も将来そんな優雅な生活を送れるようになりたい」と思いました。

 

約10年経って2021年、私はリモートワークで在宅勤務をしており、しかも外国との仕事が多かったので時差の関係で午前中は暇でした。

 

なので、念願の「平日の朝から、音楽を聴きながらコーヒーをゆっくり飲める生活」が実現したわけです。

 

でも実際そういう状況になると、優雅な時間は訪れませんでした。

 

まず朝からお湯を沸かしてコーヒーを淹れるのが面倒くさく(ケトルのスイッチを入れるのすら面倒くさい)、冷蔵庫に入ってるペットボトルのお茶しか飲みません。

 

そして、優雅な音楽を聴こうと思ってYouTubeを開けた瞬間、オススメに出てきたどうでも良い動画が気になって時間を浪費します。

 

奇跡的にコーヒーを淹れて音楽を聴くことができた日も、SNSとかニュースが気になってコーヒーを飲むことに集中できません。

 

よく考えてみれば、コーヒーも音楽もお金がかかるものではないし、有給を取れば平日の朝から自宅でコーヒーを飲むことなんて簡単なことです。

 

平日の朝からコーヒーと音楽を楽しむために、わざわざたくさん稼ぐ必要なんてありません。

 

自分が優雅な朝を送ることができないのは、お金がないからでも時間がないからでもなくて、スマホの情報が気になって音楽とコーヒーに集中できない心理状態の問題だと気づきました。

 

「理想を追い求めるよりも目の前の幸せを感じることが大切」ってこういうことなんでしょうね。

恋愛であれ友達であれ、共通の趣味が合う人がいれば物凄く仲良くなれると思ってたんだけど、この年(30代後半)にもなって今更、そうでもないと気づいた。


自分は歴史オタクで、寺院とか古民家とか史跡を回ったり、歴史小説やドラマを見るのが好きだったのですが、趣味が渋すぎて周りに趣味の合う人は殆どいませんでした。


小学生の頃から、周りの子がサッカーとか野球で盛り上がってる中で、図書館で仏像の写真を眺めて「うわー法隆寺の救世観音めっちゃカッコいい」とか言ってるヤバい子供だったので、趣味の合う人は本当にいませんでした。


でも歳を取ってくると趣味の合う人も出てきて、特に最近は歴女とか仏女とか、女性でも自分と同じ趣味の合う人がいることも知りました。


しかし趣味の合う人と会うようになって気づいたのは、趣味が合うからって話が合うとは限らないんだなーということでした。


逆に、宝塚が好きとか、野球が好きなど、自分と全く趣味が合わない人でも波長?価値観が合う人は話が続くし、むしろ趣味が違う人の方が話が広がって面白い。


特にパートナーの場合、「何かしら趣味を持っている」ということは大事かも知れないけど、全く同じ趣味だと知識のマウンティング合戦になったりする可能性もあるので、逆に趣味が合わない方が平和かも知れない。