芥川龍之介が書いた「杜子春」という小説がある。

 

杜子春という青年が仙人の老人と出会い、「自分も仙人になりたいので弟子にして欲しい」と頼むと、仙人からある課題が与えられる。

 

仙人が戻るまで、何が起こっても声を出してはいけないという課題だ。

 

杜子春に、次々と試練がやってくる。

 

虎や蛇、神将の脅しにも屈しなかった彼は武器で突き殺されるが、地獄の閻魔大王にすら黙秘を続けた。

 

しかし閻魔大王は杜子春の前に両親を連れてきて、鬼に両親を鉄鞭で打たせる。

 

鉄鞭で打たれる母親の姿に、杜子春は思わず「おっ母さん」と声を上げてしまった。

 

すると仙人が戻り、「あの時もし声を出さなかったら、お前を殺していた」と言い、杜子春は「これからは人間らしい暮らしをしたい」と言った。


以上があらすじだが、この話には1000年近く前に中国で書かれた原作がある。

 

原作では、家族を殺された杜子春が声を上げた時、仙人の老人が戻り、杜子春に「声を出さなかったら仙薬ができ仙人になれたのに」と伝えた結末になっている。

 

家族を見捨てることを美徳とするかのような中国の原作はあまりにも非人間的で、愛情のカケラも感じられない。


ネットのコメントを見ても、この原作は残酷すぎて意味が分からないという意見が多い。


この原作に違和感を覚えた芥川が、家族愛の大切さを訴える結末にしたのだろうが、私は原作の方がリアリティを感じた。


人生には、泣き叫ぶ家族を無視して見捨てなければならないことがある。

 

典型的な例はアルコール依存症のパートナーや毒親だ。

 

パートナーが依存症や強迫性障害などの精神疾患にかかると、家族には膨大な負担がかかる。

 

普通の人なら、パートナーが仕事もせずに朝から晩まで酒ばかり飲んでいたら見捨てて離婚するだろう。


しかし、不安型の愛着障害がある女性だと「この人は私がいなければ生きていけない。死んでしまう」と考え、支えてしまう。

 

1人でお酒を飲んでいたらどこかで人生が行き詰まるので、嫌でも乗り越えなければならない。


しかしパートナーが支えてしまうと人生が行き詰まらないから、アルコール依存症はどんどんエスカレートする。

 

依存性の夫を支える妻には見捨てられ不安があるので、わざわざダメな男性を引き寄せて自分に依存させる。


この妻は、パートナーが絶対に自分から離れていかないような現実を自分で創造しているのだ。

 

シラフの時には、夫が妻に対して「俺はお前のお陰で生きていける。いつも迷惑をかけて済まない。必ずお酒を断ち切ってお前を幸せにする」などと言う。


すると妻は希望を持ってしまうが、治ることはない。夫は潜在意識では依存性を治したくない。


アルコールに依存できなくなると、厳しい現実に向き合わざるを得なくなるからだ。


一方、妻も潜在意識では夫には依存性のままでいてもらわなければ困ると思っている。

 

なぜなら、もし夫が自立して精神的に安定してしまうと、夫が自分に依存してくれなくなり、自分が夫から見捨てられる不安と戦い続けなければならないからだ。


夫がアルコール依存性でいてくれることで、妻は「夫を支えなければならない」という大義名分ができ、自分自身の愛着障害や見捨てられ不安から逃げ続けることができるのだ。


まさに共依存だ。お互いに1人になるのが怖いから、自分のいる地獄からパートナーが逃げ出さないようにしているのだ。

 

人生でこのような関係は多いと思う。パートナー関係だけでなく、仕事や友達関係でもある。

 

アルコール依存症の妻は自分が夫を見捨てたら夫は死んでしまうと心配するが、ここでは夫を殺す覚悟で援助を打ち切らなければならない。

 

実際に「自分が支えないと夫は死んでしまう」というのはエゴによる幻想で、実際には支えを失った夫は自立せざるを得ない。

 

正に杜子春の原作通りの展開で、エゴによる幻想に惑わされず、依存症の家族が泣き叫んで助けを求めても、黙って無視をして立ち去らなければならない。


夫が死んでしまう覚悟をもって離れることで、最終的には夫も自分も救われるのだ。


これは男女が逆転しても同じで、例えば強迫性障害の妻を持つ夫にも当てはまるだろう。

 

結局、自分を幸せにできるのは自分しかいないし、他人の魂は自分が手を貸さなくても勝手に幸せになっていく。

 

だから私は、杜子春の原作にこそ神の愛を感じた。