小学校・中学校・高校と英語を勉強しましたが、この頃は英文を見たり英語を聞くと、学校の教室やテスト問題が連想され、吐き気がしました。

 

語学は外国人と交流するツールなのですが、私の中の英語イメージに外国人が登場せず、しかめっ面をした英語の先生と、受験に合格しなければという焦燥感だけが思い出されました。

 

大学へ入り、ニューヨークを旅行して、外国人と英語で交流する機会を初めて持ったことで初めて「楽しい」と思いました。

 

このあと、英文を読んだり英語のリスニングをするとニューヨークを思い出して気分が高揚するようになりました。

 

しかし社会人に入り、英語を仕事で使うようになると、英語が仕事を連想するようになり、また英語を遠ざけるようになりました。

 

そんな折、あることがきっかけで中国語を勉強するようになりました。

 

学生の頃から中国は好きで何回も旅行へ行き、中国人との交流もありましたが、中国語自体を勉強する機会はありませんでした。

 

当時、中国語は仕事では全く使いませんでしたし、学校で習うこともありません。

 

中国語を勉強すると、頭の中に中国の深山幽谷の山水画のイメージや、美味しい中華料理、三国志などのイメージが想起され、とてもリラックスできました。

 

中国語の勉強を進めていくと、漢文も少し分かるようになり、親戚の法事でお寺へ行きお経を読んだ時も少し意味が分かり、「あ、お経もやっぱり中国語なんだな」と感慨深い気持ちになりました。

 

英語はすっかり仕事のイメージが定着してしまったのでモチベーションが上がらなかったのに対し、中国語は単語帳を見ただけで中国の街並みを思い出して旅行気分に浸ることができたので、ぐんぐん伸びました。

 

そして、中国語を使う仕事へ転職し、中国に住む機会も得ました。

 

仕事で中国語を使うのは非常に奇妙な感覚でした。

 

もともと英語は学校や仕事のイメージがベッタリ付いていましたが、自分にとって中国語はずっと趣味の世界のものだったので、仕事とは全く関係なかったので、変な感じでした。

 

この違和感を例えると、お正月にしか顔を合わさない親戚のおじさんとおばさんが、高校の同窓会に現れて同級生と交流しているような感じです。

 

仕事で中国語を使うようになると、中国語力は伸びましたが、やはり中国語に仕事で感じるストレスのイメージが纏わりつくようになり、勤務時間外で中国語に触れたくなくなりました。

 

しかも、中国に住んでると中国共産党のスローガンもたくさん見ますし、テレビを見ても社会主義の素晴らしさを宣伝する偏った内容が多いので、辟易するようになりました。

 

中国では、たまに英語の記事を読んだり、BBCの英語ニュースを聞くと、息継ぎをしたような感覚でリフレッシュできます。

 

日本語だと、日中関係の狭い枠組みから出られない感覚がありますが、英語に触れると世界の広さを思い出し、西側の資本主義の空気に触れることもできます。

 

そんなこんなで、中国での仕事を通じて中国語にネガティブなイメージが付いてしまいましたが、中国での仕事を辞めて日本へ戻ってくると、また中国のイメージが徐々に戻ってきました。

 

日本にいると海外と触れる機会が少ないので、中国語を見て中国旅行を思い出したり、中国古典に触れて世界を広げることがリフレッシュになります。

 

 

この経験から感じるのは、語学にはイメージが非常に重要だということです。

 

幼い頃から狭い教室に座って英語を勉強してばかりだと、英語に対して苦痛なイメージが付いてしまって、嫌いになるんじゃないかと思います。

 

言葉が通じなくても、もしお金に余裕があるなら1週間のフィリピン語学留学に連れていくなり、日本国内で外国人コミュニティを探すなり、とにかく英語で外国人と交流する機会を作った方が子供が自発的に英語に興味を持つのではないでしょうか。

 

英語を見たり聞いたりした時に、楽しいイメージを想起することができれば、英語の勉強が楽しくなるはずです。

 

10年前、自分の生活は30点くらいだと思っていた。当時の理想の生活は100点

 

それから10年経ち、今の生活は300点くらい。

 

10年前には「夢のまた夢だ」と思っていたことが全て実現していて、その遥か先を行っている。

 

しかし今は理想の生活が1000点に上がってしまったので、実は10年前と同じ不足感を抱えている。

 

10年前には、英語や中国語を話せて、海外に住んで、外国人と外国語で仕事をして、外国人の友達をたくさん作って、旅行もたくさんして、素敵な女性とデートに行けたら死んでもいいくらいに思っていた。

 

それらの願望は全部実現した。

 

しかし、いざ外国語を話せてみると、それが空気のようになってしまって「だから何?」という感じになってしまった。

 

確かに面白いカルチャーショックも色々あるけど、外国人も「仕事行きたくねー」とか「お金欲しー」と悩んでいるのは日本人と同じで、話せば話すほど人間って世界中どこへ行っても大して変わらないな、それなら日本語で日本人と話してるだけでもイイじゃんとも思うようになった。

 

そうすると、外国人に外国語を話して通じた時に感じる喜びが、空気を吸ったり水を飲んだりする時の喜びと同じくらいにしか感じられなくなってくる。

 

願望が実現するってこういうことなんだろうな。

 

願望が実現して暫くすると、その願望が水や空気と同じくらい当たり前の存在になるから、その願望を通じて「願望を実現して幸せを味わう」という快感を得られなくなる。

 

「願望を実現して幸せになりたい」と願っていると、願望を達成すればするほど願望がどんどん高望みになるし、全ての願望を実現してしまったら願望実現する喜びを味わえなくなってしまうという不安が出てくる。

 

女神様みたいに素敵だと思った彼女も、毎日一緒にいたら空気と同じ存在になってしまう。

 

逆に言うと、願望実現した後にも幸せを感じるためには、今既にあることに幸せを感じることが必要なのかなと思った。

 

水を飲んで美味しいと思う、雨風をしのげる家で寝られることを安心だと思うなど、当たり前のことに幸せを感じられるのであれば、願望が実現して当たり前になった後も幸せが続いていく。

 

結局、人生には「水を飲んで幸せ」と感じる以上の幸せはないのかも知れない。

 

それ以上の幸せを求めるためには「願望が叶っていない」という不足の状態が必要になる。

 

今ココの充足を感じるってそういうことかな。

叶えたい願望があってアファメーション(願望を紙に書いたり、唱えたり、録音して聞いたり)やブレインダンプ(考えを全て紙に書き出す)をし始めた。

 

やり始めても、あまり効果が実感できず「変わらないなー」「これで本当に願望がかなうのかなー」と思っていた。

 

ところが、2週間くらい続けてみると、ふとあることに気づいた。

 

寝る前にアファメーションやブレインダンプをする習慣がついたことで、「寝る前にやることができた」ことが実は大きい収穫だった。

 

今まで寝る前の時間は、ダラダラYouTubeやX(Twitter)を見たりしてメンタルが削られ、睡眠に悪影響を及ぼしていた。

 

かといって瞑想をしても集中力が続かなくて退屈になるし、ストレッチをしても、YouTubeでストレッチ動画を探そうと思ったのに気がついたらしょーもないショート動画を見始めていた。

 

掃除をすると人生が変わると言われるけど、どうしても「掃除なんかやっても人生変わらないでしょ」と思ってしまう。

 

アファメーションやブレインダンプをするのにスマホは必要なく、紙とペンがあれば良いので、寝る前の時間に退屈しなくて済む。

 

実はこれが一番大事なことだったとふと気づいた。

 

そうすると、願望が実現するかどうかにそこまで執着しなくなった(実現して欲しいけど)。

 

そう思うようになってから現実が動き出した。

 

アファメーションは、夢を叶えることを入口として始めるけど、夢中でアファメーションするうちに脳の構造が変わり、現象化がどうでも良くなる(つまり「既にある」を体感できる)ことが出口らしい。

「愛情とは?」「パートナーシップとは?」と悩んでいた時に、答えだと思える映画を見つけた。

 

1947年に上映された紳士協定(Gentleman's Agreement)という、アメリカ社会のユダヤ人差別を扱った映画だ。

 

主人公である記者(キリスト教徒)がユダヤ人差別の実態を取材するが、外側から取材しようとしても一向に実態が分からない。

 

そこで主人公自身が「自分はユダヤ人だ」と噓をつき、内側からユダヤ人差別を理解しようとする。

 

すると外側からは分からなかった差別の実態が分かるが、本人だけでなく家族も酷い差別を受けるようになる。

 

子供が学校で虐められるようになり、奥さんが「もう着いていけない」と激怒するが、主人公は一切態度を変えない。

 

映画の終盤で、ユダヤ人の友人が奥さんに告げる。

 

a husband wants his wife, beyond being a mother and romantic companion, to be a “sidekick” who will “go through the rough spots” with him. 

 

男性が妻に求めることは、母親であることやロマンチックな恋人であることではなく、荒波を乗り超えていくための相棒なんだ

 

この表現は今の時代だと差別に当たるかも知れない。男性が主役で、女性はSidekick(相方)というニュアンスを含むからだ。

 

しかし1947年の映画だから時代の限界もあるし、内容としては男女反転しても、あるいはLGBTでも全く変わらない。

 

今の時代でも、様々な固定観念や常識、世間体などがあり、それらに打ち勝って自分らしく幸せに生きていくのは並大抵の荒波ではない。

 

気を抜いていると世間の常識や周りの目線に流されて自分を見失ってしまう。

 

そんなとき、同じ方向を向いて一緒に戦ってくれるパートナーがいてくれると心強い。

 

寂しさを埋めてくれる人とか、ドキドキさせてくれる人をパートナーに選ぶのとは安心感が違う。

 

まずは自分自身がどう生きたいか、どう幸せになっていきたいかというビジョンを持ち、同じ方向を向いて一緒に戦える相棒を探すという順番だ。

 

だから、まず考えるべきは自分自身がどういう人生を生きていきたいか?ではないかな。

「友達は束縛や人数制限がないけど、恋愛対象は1人に制限される」が世間の常識ではないだろうか。

 

でも、自分にはどうしてもこの「恋愛対象は1人に制限される」という感覚が昔から分からなかった。

 

エーリッヒフロムの「自由からの逃走」に、参考となる記述がある。

 

愛は、もともとある特定な対象によって「惹き起こされる」ものではない。
それは人間の中に潜むもやもやしたもので、「対象」はただそれを現実化するにすぎない。
憎悪は破壊を求める激しい欲望であり、愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。
すなわち愛は「好むこと」ではなくて、その対象の"幸福"、"成長"、"自由"を目指す、積極的な追求であり、内面的なつながりである。
それは原則として、我々をも含めたすべての人間や、すべての事物に向けられるように準備されている。

排他的な愛というのは、それ自身一つの矛盾である。
確かに、ある特定の人間が明らかに愛の「対象」となることは偶然ではない。
このような特定の選択を条件づける要素は、非常に数が多く、また非常に複雑で、ここで論じることはできない。
しかし重要なことは、ある特殊な「対象」への愛は、一人の人間のうちのもやもやした愛が、現実化し集中化したものにすぎないということである

 

大学生の頃にこの文章を読んで感動した記憶がある。

 

私の理解では、愛情とは、人(自分自身も含む、人だけでなく動植物も含むかもしれない)がのびのびと生きていくことを肯定する感情だと思っている。

 

具体的に言うと、愛情とは、人が世間の常識や周りの目や道徳などの観念に束縛されず、自分自身の感覚を信頼して自由に幸せな人生を生きていくことを肯定して応援する態度だと思っている。

 

愛は対象が自分自身でも友達でも恋人でも家族でも変わらない。

 

でも学生の頃は実践ができず、嫉妬や束縛が激しかった。

 

フロムの言っていることは、理論的には分かるけど実感がわかないという感じ。

 

恋人に振られたり、片思いの相手に恋人がいることが分かると、激しいショックを受けた。

 

苦しくなった理由は、相手から承認されることで自分の承認欲求を満たそうとしているからだった。これを愛情だと錯覚していたが、実際には自分本位の恋愛感情だ。

 

相手から拒否されると自分の存在価値を否定されているように感じ、生きる気力が失われた。

 

ところが社会人になって結婚と離婚を経験し、30代になって毎日好きなことをしながら過ごしている今は、自分で自分を承認できるようになってきた。

 

「自分の人生、イイじゃん」という感覚。

 

自分を無条件に肯定できるようになってくると、他人も無条件に肯定できるようになってくる。

 

世界は自分の意識の投影だから、自分を無条件に肯定してくれる他人が現れる。

 

恋愛面で言うと、「自分が理想として思い描いていた人を、神が3Dプリンターで印刷して配達してくれたのではないか」と思うような凄い女性が現れた。

 

そうすると、「好き」の感覚が学生の頃とは全然違うことに気づいた。

 

好きな人のことを考えているだけで何をしていても幸せ、その人が自分を承認してくれるかどうかは関係ない。

 

一方で、「こんな素晴らしい自分が好きな人なんだから、相手も自分のことを好きに決まってるでしょ」という感覚もある。

 

「潜在意識が現実を作る」

「自分の自分に対する感覚が世界に反映される」

なので、驚くことに、「相手が自分を好きかどうかは関係ない。ただただ相手のことを思っているだけで幸せ。出会えたことに感謝」と思っていると、なぜか勝手に両想いになる。

 

つまり自分の承認欲求を満たしてくれる人を好きになるのではなく、自分の内側から勝手に溢れ出てくる愛情の注ぎ先として魅力を感じる人を好きになるという感覚。

 

そうなると、愛情の注ぎが複数になることもあるし、友情と恋愛感情の境界も曖昧になってくる。

 

複数のパートナー全員と円満な関係を持つ人たちのことをポリアモリー、友情と恋愛感情の区別をつけない人をクワロマンティックというらしいけど、こういう感覚だと思う。

 

もちろん恋愛対象やパートナーを1人に絞っても良いけど、5人いても良い。

みんなが幸せならどちらでも良く、もはや趣味の問題だ。

 

「友情が濃くなってくるとパートナーになる」という感覚かな。

 

では友達と恋愛対象とは何が違うのか。ここからは本当に個人的な感覚。

 

友達に対しても、「その人の幸せを願う」という点では同じだけど、ずーっと一緒にいると少し疲れてくる。

 

親友という人でも、2泊3日くらい一緒に旅行へ行くと満足する。

 

でもパートナーになりたいと思う人は、ずっと一緒にいても飽きないし、疲れないし、沈黙も気まずくならない。

 

とはいえ束縛したい訳ではなく、自分と会ってない時にどこで誰と何をしてようと相手の自由だし、パートナーの行動次第で自分が傷ついたり、自分の幸福度が上がったり下がったりするわけではない。

 

一緒にいると楽しいけど、一緒にいてもいなくても自分は幸せ(執着しない)、そんな感覚。

潜在意識を活用して願望を引き寄せようとする時、「願望を忘れてイイ気分でいることが大事」と言われます。

 

でも、毎日いい気分でいるって本当に難しく、日常のちょっとしたことですぐネガティブになります。

 

そして、ネガティブになると「ネガティブになってしまったから、願望を引き寄せられないかも知れない」と更にネガティブになり、泥沼にハマります。

 

最近気づいたのですが、これは無条件に自分を愛せていない状態です。

 

「願望実現できない自分の人生なんて受け入れられない。許せない」

 

と自分で自分の人生を嫌っている、自分自身を拒絶しているから、自己嫌悪になっているのだと気づきました。

 

「いい気分にならなければならない」「願望実現できない自分の人生を許してはいけない」と強迫しているのはエゴです。

 

「ネガティブになっている自分でもいい」

「願望実現しなくてもいい」

 

そう信じきって初めて自分を無条件に受け入れることができます。

 

そうなると、願望実現をしている状態と、願望実現していない状態の選択が、バニラアイスとチョコアイスのどちらを選ぶか?くらい、どうでも良い選択に思えてきます。

 

願望実現できない苦しい状態を経験すると、色んなドラマやアニメの主人公に共感できたり、昔の人の名言・格言に感動したり、歌の歌詞に心を動かされたりと、人生の奥深さを味わうことができます。

 

つまり人生に退屈しなくなります。

 

願望が何でもかんでもすぐに実現してしまったら、それはそれで退屈でつまらないかも知れない。

 

でも、願望実現した世界の景色も、それはそれで美しいかも知れない。

 

だから、どちらも良くて、自分で選ぶだけ。願望実現するかしないかは、バニラアイスとチョコアイスの違いみたいなものです。

 

願望が実現しないのは、「今はバニラが売り切れなので、チョコしかないんです。すみません...」と言われている程度のこと。

 

そう思えるようになったときに、願望実現を忘れて毎日イイ気分でいられるようになりました。

「他人の目は気にせず、自分らしく自由に生きましょう」と言いますが、みんなが自由に生きた結果、痴漢や盗撮、万引きや殺人などを始めたらどうするのでしょうか?

 

そんな社会が幸せとは考えられないので、自分らしさや自由にも一定の制限を設けるべきで、「~すべき」という観念も必要なのではないか?

 

そんなことで悩んでいたのですが、実際には必要ないと思います。

 

ポイントは、「痴漢や盗撮をすべきではない」のではなく、「痴漢や盗撮をしてもOK。するもしないも自由」という社会になったとき、本当に痴漢や盗撮をしたいのか?という点です。

 

痴漢や盗撮、万引きや殺人などの犯罪行為を行っている人の手記などを読むと、何かしら抑圧や恐怖があり、自分を否定して自己嫌悪に陥った結果、反社会的な行為に走ってしまうことが分かります。快楽殺人も例外ではありません。

 

自分自身を無条件で愛して幸せに生きている人が、人を傷つける方向へ走ることはありません。

 

では、自分らしく自由に生きている幸せな人は社会道徳に則った立派な人になるのかというと、そうでもありません。

 

社会道徳の方が歪んでいる場合もあります。

 

例えば、複数の異性と身体の関係を含めた関係を構築しているポリアモリーと呼ばれる人たちがいます。

 

社会道徳的には複数のパートナーを作るのは悪いこととされており、「本当の愛情を知らないから1人のパートナーで満足できないんだ」などと非難されます。

 

もちろん、精神的に問題があって複数のパートナーを作ってしまっている人達も大勢いるのは事実です。

 

では、複数のパートナーと身体の関係を持っている人達全員が痴漢や盗撮などと同じような抑圧を抱えているのか?というと、そうではありません。

 

あまりにも愛情の器が大きすぎて、愛情を注ぐ対象が1人に収まりきらなくなった結果、複数のパートナー全員と合意の上で幸せな関係を構築している人達も世の中には大勢います。

 

では、痴漢や盗撮とポリアモリーの違いは何なのか?

 

それは、他人を自分の思い通りにコントロールしようとしているかどうか?だと思います。

 

痴漢や盗撮については、嫌がっている相手を無理やり自分の欲望の対象にしていますし、万引きも相手の合意なく行っている行為です。

 

殺人についても同じです。本当に幸せな人であれば、わざわざ相手を殺す必要はなく、距離を置いたり気にしなかったり・・・といった工夫ができます。

 

自由に自分らしく生きている人が出てくる感情には愛情や感謝しかないので、他人を思い通りコントロールしようとする犯罪行為に対する渇望は生まれません。

 

ナンパについては嫌悪感を示す人が多いですが、しつこく付きまとわず街で軽く声をかけるだけであれば、相手の意思を尊重しているので、相手を自分の思い通りにコントロールすることにはなりません。

 

相手に声をかける(営業をする)行為自体は、それをする人の自由で、声掛けに応じるか無視するかを決めるのは声をかけられた側の自由です。

 

お互いの自由意思で行っていることなので何も問題はありません。

 

ナンパ師に対して「声をかけるだけで許せない」と傷つく人がいた場合、逆にその人こそがナンパ師という他人の行動をコントロールしようとしている状態だと言えます。

 

よく問題になるのが不倫ですが、不倫が心に傷を与えるのはパートナーが自分以外の人を愛してしまったからというより、本音を隠されていた(信頼されていなかった)ことにあるのではないかと感じます。

 

自分の気持ちは自分自身でコントロールすることすら難しく、パートナーの気持ちをコントロールすることも不可能です。

 

パートナーの気持ちが自分から離れてしまったときに、「結婚しているのだから、他の人を好きになるべきではない」と思うのは、パートナーをコントロールしています。

 

ではコソコソと不倫をしていて幸せなのかというと、そういうわけでもないでしょう。

 

なぜなら、自分の本音をパートナーに隠していると、「本当の自分を知られたら嫌われる」という恐怖を潜在意識に刷り込むことになり、その恐怖が実現する(不倫がバレて修羅場になる)からです。

 

無条件に自分を許しているポリアモリーは

「1人の人を愛しても良いし、複数の人を愛しても良いし、誰も愛さなくても良い」

「複数の人を愛していることを誰にも隠さなくて良い」

「そんな自分と合わない人とは関わらなくて良いし、共感できる人と愛し合えればよい」

みたいな軽い感覚で楽しく過ごしています。

 

パートナーを愛すること(パートナーの幸せを応援すること)とパートナーを所有すること(パートナーの愛情が自分にだけ向けられるようコントロールすること)は別だと理解しています。

 

色々書きましたが、何が言いたいかというと

 

誰もが自分らしく自由に生き始めたら既存の社会道徳は崩壊するかも知れないけど、多くの人が傷つくような社会にはならず、むしろ、みんなが幸せになれるのではないかということです。

 

自分が「こんなこと絶対にやりたくない!」と思っている仕事でも、別の人にとっては最高の喜びだったりするので、社会は崩壊しないでしょう。

中学や高校の時、よく学校の先生が

 

「このくらい知っておかないと社会に出てから恥ずかしい」

「これは一般常識だから知らないとバカにされる」

 

などと言っていた。

 

当時は、社会に出てからバカにされるのは嫌だからと一生懸命勉強していた。

 

しかし実際は、どこまで勉強してもバカにしてくる人はいるからキリがない。

 

ありとあらゆる分野の一般常識を全て身に着けている人はいないのではないだろうか?

 

バカにしてくる人がいるのであれば、そういう人とは関わらなければ良いのだ。

 

「バカにされないように頑張る」などと言っていると、興味のない物事に延々と時間を費やさなければならないことになる。

 

専門分野や業界によっても常識は異なる。

 

同じ専門分野の中でも、得意・不得意は人によって異なる。

 

「この程度は常識です」などと言っている人がいたら、その人の視野の狭さを示しているに過ぎない。

 

視野が広い人ほど、世の中には様々な人がいることを知っていて、安易に「この程度のことは知っていて当然だ」などとは言わない。

 

いわゆる一般常識が少ないと生活していく上で色々と不便を感じることもあるが、不便を感じた時に学べばよい。

 

「社会に出てから苦労しないように勉強しておく」という考え方を身に着けると、まだ起こってもいないことを心配する思考癖がついてしまう弊害も大きい。

ドラえもんを知らない日本人には会ったことがないが、ドラえもんは海外でも人気だ。

 

中国や東南アジアはもちろん、インドでもドラえもんのシールやぬいぐるみはよく見かけた。

 

イスラエルなど中東でも人気があるようだ。

 

ただヨーロッパではイタリアとスペインだけで人気があり、ドイツでは全く放送されず、イギリスやフランスでは人気は下火だそうだ。

 

アメリカでも放送はされているものの、マリオやポケモンほどの人気はないらしい。

 

アジアでは絶大な人気を誇るのに、どうして欧米ではイタリアやスペインを除いて人気がないのか?

 

理由を調べたら、主人公がダメ男で、ダメなのび太がドラえもんの道具に頼って問題を解決しようとする他力本願な姿勢が、自立心旺盛な欧米人には受けないようだ。

 

のび太は必ずしも常に楽して得しているわけではなく、自業自得な結末で終わるエピソードも多いが、それはそれで「なんなんだ」となるようだ。

 

主人公が全然成長しないし、カッコよくない。

 

逆に言うと、そんなダメダメな主人公がダメなまま成長せずに他力本願で暮らしていくアニメがアジアでは大ヒットしていると言える。

 

そう思って20年ぶりくらいに改めてドラえもんを見てみたら、子供に刺さる理由が分かった。

 

のび太がどれだけクズでもドラえもんは常にのび太の味方で、のび太はドラえもんにクズな本音を全て吐き出している。

 

これこそ正に無条件の愛情で、「クズな自分でも愛されていいんだ」という実感を得られる。

 

しかも「こんな道具ないの?」とドラえもんに聞いて、凄い道具がポンポン出てくるのは引き寄せの法則そのもので、スピリチュアル的にも真理を突いていると言える。

 

もし欧米でドラえもんが流行らない理由が「他力本願は許せない」という理由であれば、私の感覚とはちょっと違うなと思った。

引き寄せの法則は「そう思うからそうなる」「自分の思考が現実化する」

 

それなら、「英語がペラペラになる」と思えば、英語を勉強しなくても英語がペラペラになるのか?という疑問をよく見かける。

 

本当にそう信じきっているなら英語を勉強しなくてもペラペラになると思うが、「エゴが許可できる範囲で現象化する」という法則がある。

 

例えば「1000歳まで生きる」と思って、毎日「1000歳まで生きる」と紙に書いてアファメーションをしたところで、「そんなわけない」と潜在意識で思っていれば1000歳までは生きられない。

 

英語も「勉強しなければペラペラになれない」と潜在意識で信じている人がアファメーションだけやったところで、英語はペラペラにはならない。

 

むしろ、「勉強せずにペラペラになる」という願望は、プロセスを限定しているとも言える。

 

潜在意識の願望成就は、プロセスを潜在意識に丸投げした方が早い。

 

すると、英語を話す外国人の彼女ができたり、自分にピッタリ合った英語教室を知ったりする。

 

そして、その彼女と付き合ったり英語教室に通ったりするのに十分な時間とお金が引き寄せられる。

 

「英語がペラペラになる」が本音の願望であれば、英語の勉強自体も楽しく感じられるので、気がついてみたらペラペラになっている。

 

このようにプロセスは勝手に出来上がるので、「勉強せずにペラペラになる」と、わざわざプロセスを限定する必要はないのだ。

 

「大好きなAさんの彼女になる」という願望も、「太っていて、ハゲで不細工でダサい自分がAさんと付き合えるわけがない」という観念が潜在意識に強烈に入っていると叶わない。

 

「太っていて、ハゲで不細工でダサくてコミュ障な自分がAさんと付き合える」と本気で信じられるように潜在意識を変える努力(アファメーションやイメージングなど)をしても良いけど、それよりも実際に行動した方が逆に早いかも知れない。

 

つまり、ライザップでダイエットして、AGA治療を受け、ファッションコンサルに着こなしを学んで、マッチングアプリ等で色んな女性と会話をする機会を作ってコミュ力を鍛えるのだ。

 

「細マッチョで、フサフサでイケメンでファッションセンスと会話センスがある自分」になれば、Aさんと付き合うことをエゴが許可できて、Aさんと付き合えるかも知れない。

 

これは一見するとゴリゴリの顕在意識で、引き寄せの法則を全く使ってないように思えるけど、そうではない。

 

「Aさんと付き合いたい」という願望を放った結果、インスピレーションとしてプロセスが勝手に思いつき、必要なAGA治療やファッションコンサルの情報が勝手に引き寄せられてくるのだ。

 

そして、こういう時は、ファッションを磨いたりダイエットしたりするのが苦痛ではなく楽しい。

 

自分から情報を求めているだけのようにも見えるが、「モテない自分には価値がない」という不足感からモテようとしていた時には巡り合えないレベルの質の高い情報を引き寄せられる。

 

これも一種のシンクロニシティだと思う。

 

だから「英語を勉強しなくてもペラペラになる」「不細工な自分でも愛される」と条件をつける必要はなくて、「勉強してもしなくても良い」「不細工でも良いしイケメンになっても良い」と全ての可能性を許可して、自分がしっくり来る行動を取れば良い。