「他人の目は気にせず、自分らしく自由に生きましょう」と言いますが、みんなが自由に生きた結果、痴漢や盗撮、万引きや殺人などを始めたらどうするのでしょうか?
そんな社会が幸せとは考えられないので、自分らしさや自由にも一定の制限を設けるべきで、「~すべき」という観念も必要なのではないか?
そんなことで悩んでいたのですが、実際には必要ないと思います。
ポイントは、「痴漢や盗撮をすべきではない」のではなく、「痴漢や盗撮をしてもOK。するもしないも自由」という社会になったとき、本当に痴漢や盗撮をしたいのか?という点です。
痴漢や盗撮、万引きや殺人などの犯罪行為を行っている人の手記などを読むと、何かしら抑圧や恐怖があり、自分を否定して自己嫌悪に陥った結果、反社会的な行為に走ってしまうことが分かります。快楽殺人も例外ではありません。
自分自身を無条件で愛して幸せに生きている人が、人を傷つける方向へ走ることはありません。
では、自分らしく自由に生きている幸せな人は社会道徳に則った立派な人になるのかというと、そうでもありません。
社会道徳の方が歪んでいる場合もあります。
例えば、複数の異性と身体の関係を含めた関係を構築しているポリアモリーと呼ばれる人たちがいます。
社会道徳的には複数のパートナーを作るのは悪いこととされており、「本当の愛情を知らないから1人のパートナーで満足できないんだ」などと非難されます。
もちろん、精神的に問題があって複数のパートナーを作ってしまっている人達も大勢いるのは事実です。
では、複数のパートナーと身体の関係を持っている人達全員が痴漢や盗撮などと同じような抑圧を抱えているのか?というと、そうではありません。
あまりにも愛情の器が大きすぎて、愛情を注ぐ対象が1人に収まりきらなくなった結果、複数のパートナー全員と合意の上で幸せな関係を構築している人達も世の中には大勢います。
では、痴漢や盗撮とポリアモリーの違いは何なのか?
それは、他人を自分の思い通りにコントロールしようとしているかどうか?だと思います。
痴漢や盗撮については、嫌がっている相手を無理やり自分の欲望の対象にしていますし、万引きも相手の合意なく行っている行為です。
殺人についても同じです。本当に幸せな人であれば、わざわざ相手を殺す必要はなく、距離を置いたり気にしなかったり・・・といった工夫ができます。
自由に自分らしく生きている人が出てくる感情には愛情や感謝しかないので、他人を思い通りコントロールしようとする犯罪行為に対する渇望は生まれません。
ナンパについては嫌悪感を示す人が多いですが、しつこく付きまとわず街で軽く声をかけるだけであれば、相手の意思を尊重しているので、相手を自分の思い通りにコントロールすることにはなりません。
相手に声をかける(営業をする)行為自体は、それをする人の自由で、声掛けに応じるか無視するかを決めるのは声をかけられた側の自由です。
お互いの自由意思で行っていることなので何も問題はありません。
ナンパ師に対して「声をかけるだけで許せない」と傷つく人がいた場合、逆にその人こそがナンパ師という他人の行動をコントロールしようとしている状態だと言えます。
よく問題になるのが不倫ですが、不倫が心に傷を与えるのはパートナーが自分以外の人を愛してしまったからというより、本音を隠されていた(信頼されていなかった)ことにあるのではないかと感じます。
自分の気持ちは自分自身でコントロールすることすら難しく、パートナーの気持ちをコントロールすることも不可能です。
パートナーの気持ちが自分から離れてしまったときに、「結婚しているのだから、他の人を好きになるべきではない」と思うのは、パートナーをコントロールしています。
ではコソコソと不倫をしていて幸せなのかというと、そういうわけでもないでしょう。
なぜなら、自分の本音をパートナーに隠していると、「本当の自分を知られたら嫌われる」という恐怖を潜在意識に刷り込むことになり、その恐怖が実現する(不倫がバレて修羅場になる)からです。
無条件に自分を許しているポリアモリーは
「1人の人を愛しても良いし、複数の人を愛しても良いし、誰も愛さなくても良い」
「複数の人を愛していることを誰にも隠さなくて良い」
「そんな自分と合わない人とは関わらなくて良いし、共感できる人と愛し合えればよい」
みたいな軽い感覚で楽しく過ごしています。
パートナーを愛すること(パートナーの幸せを応援すること)とパートナーを所有すること(パートナーの愛情が自分にだけ向けられるようコントロールすること)は別だと理解しています。
色々書きましたが、何が言いたいかというと
誰もが自分らしく自由に生き始めたら既存の社会道徳は崩壊するかも知れないけど、多くの人が傷つくような社会にはならず、むしろ、みんなが幸せになれるのではないかということです。
自分が「こんなこと絶対にやりたくない!」と思っている仕事でも、別の人にとっては最高の喜びだったりするので、社会は崩壊しないでしょう。