「他人の目は気にせず、自分らしく自由に生きましょう」と言いますが、みんなが自由に生きた結果、痴漢や盗撮、万引きや殺人などを始めたらどうするのでしょうか?

 

そんな社会が幸せとは考えられないので、自分らしさや自由にも一定の制限を設けるべきで、「~すべき」という観念も必要なのではないか?

 

そんなことで悩んでいたのですが、実際には必要ないと思います。

 

ポイントは、「痴漢や盗撮をすべきではない」のではなく、「痴漢や盗撮をしてもOK。するもしないも自由」という社会になったとき、本当に痴漢や盗撮をしたいのか?という点です。

 

痴漢や盗撮、万引きや殺人などの犯罪行為を行っている人の手記などを読むと、何かしら抑圧や恐怖があり、自分を否定して自己嫌悪に陥った結果、反社会的な行為に走ってしまうことが分かります。快楽殺人も例外ではありません。

 

自分自身を無条件で愛して幸せに生きている人が、人を傷つける方向へ走ることはありません。

 

では、自分らしく自由に生きている幸せな人は社会道徳に則った立派な人になるのかというと、そうでもありません。

 

社会道徳の方が歪んでいる場合もあります。

 

例えば、複数の異性と身体の関係を含めた関係を構築しているポリアモリーと呼ばれる人たちがいます。

 

社会道徳的には複数のパートナーを作るのは悪いこととされており、「本当の愛情を知らないから1人のパートナーで満足できないんだ」などと非難されます。

 

もちろん、精神的に問題があって複数のパートナーを作ってしまっている人達も大勢いるのは事実です。

 

では、複数のパートナーと身体の関係を持っている人達全員が痴漢や盗撮などと同じような抑圧を抱えているのか?というと、そうではありません。

 

あまりにも愛情の器が大きすぎて、愛情を注ぐ対象が1人に収まりきらなくなった結果、複数のパートナー全員と合意の上で幸せな関係を構築している人達も世の中には大勢います。

 

では、痴漢や盗撮とポリアモリーの違いは何なのか?

 

それは、他人を自分の思い通りにコントロールしようとしているかどうか?だと思います。

 

痴漢や盗撮については、嫌がっている相手を無理やり自分の欲望の対象にしていますし、万引きも相手の合意なく行っている行為です。

 

殺人についても同じです。本当に幸せな人であれば、わざわざ相手を殺す必要はなく、距離を置いたり気にしなかったり・・・といった工夫ができます。

 

自由に自分らしく生きている人が出てくる感情には愛情や感謝しかないので、他人を思い通りコントロールしようとする犯罪行為に対する渇望は生まれません。

 

ナンパについては嫌悪感を示す人が多いですが、しつこく付きまとわず街で軽く声をかけるだけであれば、相手の意思を尊重しているので、相手を自分の思い通りにコントロールすることにはなりません。

 

相手に声をかける(営業をする)行為自体は、それをする人の自由で、声掛けに応じるか無視するかを決めるのは声をかけられた側の自由です。

 

お互いの自由意思で行っていることなので何も問題はありません。

 

ナンパ師に対して「声をかけるだけで許せない」と傷つく人がいた場合、逆にその人こそがナンパ師という他人の行動をコントロールしようとしている状態だと言えます。

 

よく問題になるのが不倫ですが、不倫が心に傷を与えるのはパートナーが自分以外の人を愛してしまったからというより、本音を隠されていた(信頼されていなかった)ことにあるのではないかと感じます。

 

自分の気持ちは自分自身でコントロールすることすら難しく、パートナーの気持ちをコントロールすることも不可能です。

 

パートナーの気持ちが自分から離れてしまったときに、「結婚しているのだから、他の人を好きになるべきではない」と思うのは、パートナーをコントロールしています。

 

ではコソコソと不倫をしていて幸せなのかというと、そういうわけでもないでしょう。

 

なぜなら、自分の本音をパートナーに隠していると、「本当の自分を知られたら嫌われる」という恐怖を潜在意識に刷り込むことになり、その恐怖が実現する(不倫がバレて修羅場になる)からです。

 

無条件に自分を許しているポリアモリーは

「1人の人を愛しても良いし、複数の人を愛しても良いし、誰も愛さなくても良い」

「複数の人を愛していることを誰にも隠さなくて良い」

「そんな自分と合わない人とは関わらなくて良いし、共感できる人と愛し合えればよい」

みたいな軽い感覚で楽しく過ごしています。

 

パートナーを愛すること(パートナーの幸せを応援すること)とパートナーを所有すること(パートナーの愛情が自分にだけ向けられるようコントロールすること)は別だと理解しています。

 

色々書きましたが、何が言いたいかというと

 

誰もが自分らしく自由に生き始めたら既存の社会道徳は崩壊するかも知れないけど、多くの人が傷つくような社会にはならず、むしろ、みんなが幸せになれるのではないかということです。

 

自分が「こんなこと絶対にやりたくない!」と思っている仕事でも、別の人にとっては最高の喜びだったりするので、社会は崩壊しないでしょう。

中学や高校の時、よく学校の先生が

 

「このくらい知っておかないと社会に出てから恥ずかしい」

「これは一般常識だから知らないとバカにされる」

 

などと言っていた。

 

当時は、社会に出てからバカにされるのは嫌だからと一生懸命勉強していた。

 

しかし実際は、どこまで勉強してもバカにしてくる人はいるからキリがない。

 

ありとあらゆる分野の一般常識を全て身に着けている人はいないのではないだろうか?

 

バカにしてくる人がいるのであれば、そういう人とは関わらなければ良いのだ。

 

「バカにされないように頑張る」などと言っていると、興味のない物事に延々と時間を費やさなければならないことになる。

 

専門分野や業界によっても常識は異なる。

 

同じ専門分野の中でも、得意・不得意は人によって異なる。

 

「この程度は常識です」などと言っている人がいたら、その人の視野の狭さを示しているに過ぎない。

 

視野が広い人ほど、世の中には様々な人がいることを知っていて、安易に「この程度のことは知っていて当然だ」などとは言わない。

 

いわゆる一般常識が少ないと生活していく上で色々と不便を感じることもあるが、不便を感じた時に学べばよい。

 

「社会に出てから苦労しないように勉強しておく」という考え方を身に着けると、まだ起こってもいないことを心配する思考癖がついてしまう弊害も大きい。

ドラえもんを知らない日本人には会ったことがないが、ドラえもんは海外でも人気だ。

 

中国や東南アジアはもちろん、インドでもドラえもんのシールやぬいぐるみはよく見かけた。

 

イスラエルなど中東でも人気があるようだ。

 

ただヨーロッパではイタリアとスペインだけで人気があり、ドイツでは全く放送されず、イギリスやフランスでは人気は下火だそうだ。

 

アメリカでも放送はされているものの、マリオやポケモンほどの人気はないらしい。

 

アジアでは絶大な人気を誇るのに、どうして欧米ではイタリアやスペインを除いて人気がないのか?

 

理由を調べたら、主人公がダメ男で、ダメなのび太がドラえもんの道具に頼って問題を解決しようとする他力本願な姿勢が、自立心旺盛な欧米人には受けないようだ。

 

のび太は必ずしも常に楽して得しているわけではなく、自業自得な結末で終わるエピソードも多いが、それはそれで「なんなんだ」となるようだ。

 

主人公が全然成長しないし、カッコよくない。

 

逆に言うと、そんなダメダメな主人公がダメなまま成長せずに他力本願で暮らしていくアニメがアジアでは大ヒットしていると言える。

 

そう思って20年ぶりくらいに改めてドラえもんを見てみたら、子供に刺さる理由が分かった。

 

のび太がどれだけクズでもドラえもんは常にのび太の味方で、のび太はドラえもんにクズな本音を全て吐き出している。

 

これこそ正に無条件の愛情で、「クズな自分でも愛されていいんだ」という実感を得られる。

 

しかも「こんな道具ないの?」とドラえもんに聞いて、凄い道具がポンポン出てくるのは引き寄せの法則そのもので、スピリチュアル的にも真理を突いていると言える。

 

もし欧米でドラえもんが流行らない理由が「他力本願は許せない」という理由であれば、私の感覚とはちょっと違うなと思った。

引き寄せの法則は「そう思うからそうなる」「自分の思考が現実化する」

 

それなら、「英語がペラペラになる」と思えば、英語を勉強しなくても英語がペラペラになるのか?という疑問をよく見かける。

 

本当にそう信じきっているなら英語を勉強しなくてもペラペラになると思うが、「エゴが許可できる範囲で現象化する」という法則がある。

 

例えば「1000歳まで生きる」と思って、毎日「1000歳まで生きる」と紙に書いてアファメーションをしたところで、「そんなわけない」と潜在意識で思っていれば1000歳までは生きられない。

 

英語も「勉強しなければペラペラになれない」と潜在意識で信じている人がアファメーションだけやったところで、英語はペラペラにはならない。

 

むしろ、「勉強せずにペラペラになる」という願望は、プロセスを限定しているとも言える。

 

潜在意識の願望成就は、プロセスを潜在意識に丸投げした方が早い。

 

すると、英語を話す外国人の彼女ができたり、自分にピッタリ合った英語教室を知ったりする。

 

そして、その彼女と付き合ったり英語教室に通ったりするのに十分な時間とお金が引き寄せられる。

 

「英語がペラペラになる」が本音の願望であれば、英語の勉強自体も楽しく感じられるので、気がついてみたらペラペラになっている。

 

このようにプロセスは勝手に出来上がるので、「勉強せずにペラペラになる」と、わざわざプロセスを限定する必要はないのだ。

 

「大好きなAさんの彼女になる」という願望も、「太っていて、ハゲで不細工でダサい自分がAさんと付き合えるわけがない」という観念が潜在意識に強烈に入っていると叶わない。

 

「太っていて、ハゲで不細工でダサくてコミュ障な自分がAさんと付き合える」と本気で信じられるように潜在意識を変える努力(アファメーションやイメージングなど)をしても良いけど、それよりも実際に行動した方が逆に早いかも知れない。

 

つまり、ライザップでダイエットして、AGA治療を受け、ファッションコンサルに着こなしを学んで、マッチングアプリ等で色んな女性と会話をする機会を作ってコミュ力を鍛えるのだ。

 

「細マッチョで、フサフサでイケメンでファッションセンスと会話センスがある自分」になれば、Aさんと付き合うことをエゴが許可できて、Aさんと付き合えるかも知れない。

 

これは一見するとゴリゴリの顕在意識で、引き寄せの法則を全く使ってないように思えるけど、そうではない。

 

「Aさんと付き合いたい」という願望を放った結果、インスピレーションとしてプロセスが勝手に思いつき、必要なAGA治療やファッションコンサルの情報が勝手に引き寄せられてくるのだ。

 

そして、こういう時は、ファッションを磨いたりダイエットしたりするのが苦痛ではなく楽しい。

 

自分から情報を求めているだけのようにも見えるが、「モテない自分には価値がない」という不足感からモテようとしていた時には巡り合えないレベルの質の高い情報を引き寄せられる。

 

これも一種のシンクロニシティだと思う。

 

だから「英語を勉強しなくてもペラペラになる」「不細工な自分でも愛される」と条件をつける必要はなくて、「勉強してもしなくても良い」「不細工でも良いしイケメンになっても良い」と全ての可能性を許可して、自分がしっくり来る行動を取れば良い。

何か新しいことを始めると、始めのうちはワクワクして取り組める。

 

ところが、気がつかない間にいつのまにかワクワク感が低下してしまうことがある。

 

例えば、海外旅行で外国人とうまくコミュニケーションを取れなかったので、「英語を話せるようになって、もっと外国人とお喋りしたい!」と思ったとする。

 

これは本音でやりたいことで、ワクワクしながら始められる。

 

リスニングや単語や文法など、始めのうちは何でも楽しめる。

 

せっかくなら、自分の英語力がどのくらいか知りたいし、勉強にメリハリが欲しいから、TOEICを受けてみたいと思う。

 

ここまでは良い。

 

ところが、今の仕事に不満があったりすると、「TOEICが800点あれば、もっと給料の良い会社に転職できる」などと考えるようになり、いつのまにかTOEICで高得点を取ることが目的になってしまう。

 

しかし「TOEICで良い点数を取って、今の職場から逃げたい」は不足感から生じた動機だから、不足感を引き寄せることになり、TOEICの目標点数を達成しても不足感が残る。

 

すると、「次は900点、950点・・・」と目標が上がって行ってしまう。

 

高い点数を追求することにワクワク感を覚えるなら良いが、苦しくなって英語が嫌いになってしまうケースも多い。

 

いつのまにか当初の「外国人と楽しくお喋りしたい」という目的を見失ってしまう。

 

ふと「ワクワクしながら始めたはずなのに、おかしいなぁ。」と気づく。

 

ワクワクしながら始めたことでも簡単にズレてしまうから、常にワクワクしているかどうか確認することが大事だと思う。

 

当初の目的からズレても良いけど、今ワクワクしてるかどうかが大事だ。


憂鬱になっていたら変な方向へ向かってるサイン

私はバツイチで、いつか再婚したいと思っているけど、改めて理想のパートナーの条件を考えてみた。

 

1. メンタルが安定している

2. 趣味や仕事など一人の時間も楽しむことができる

3. 友達を大切にしている(陰口を言い合うような友達とは縁を切っている)

4. 決断力と行動力がある

5. 好奇心が強い

6. 結婚しても、自分の人生に自分で責任を持つ(パートナーに幸せにしてもらおうとしない)

7. 離婚することを恐れない(離婚するのを恐れると共依存になる)

 

全て内面に関することだが、綺麗事ではなく、幸せなパートナーシップは人間性が全てだと思う。

 

「不幸な人生を一発逆転するために結婚したい」「結婚で人生を変えたい」という発想は危険だ。

1人でも幸せに生きられる2人が結婚するから幸せな結婚生活を送ることができる。

 

たまに「1人でも幸せに生きられるなら、結婚する必要ないじゃん」と言う人がいるけど、そんなことはない。

たとえ1人で幸せに生きられるとしても、家庭を持つことで初めて経験できる世界を楽しむことには価値がある。

 

つい「年齢が...」「周りの友達が...」「親が...」と焦りたくなるが、全てエゴから生じた観念なので無視して良い。

結婚に限らず、焦りから行動をしても良い結果にはならない。

 

「類は友を呼ぶ」「自分と同じ波動を引き寄せる」だから、尊敬できるパートナーと出会いたければ、まず自分が自分自身を尊敬できなければならない。

 

恋愛に限らず、友達でも仕事でもそうだけど、経験的には自分自身が理想に近づけば近づくほど理想の相手を引き寄せる。

 

一般的に言われる、年齢や収入や外見などの条件は比較的どうでも良いと思う。

 

 

【年齢】

男性は、20代のうちは年齢関係なく美人な女性を好きになるが、30歳を超えたあたりから急に年下が好きになる人が多い。

「子孫を残したい」という本能だから仕方ないと言われる。

しかし10歳も歳が離れていると、自分が60歳の時に相手はまだ50歳だ。

定年後の生活を一緒に楽しもうと思っても、パートナーは現役バリバリで働いている。

そしてパートナーが60歳になった時には自分は70歳で、体力が衰えている。

一緒に同じタイミングで老後を楽しむのは難しい。

年上の女性には年上の女性の良さがある。

人間性を尊敬できるパートナーが一回りや二回り下だったということはあると思う。

でも、始めから年下だけに対象を絞ってしまい、同世代や年上の魅力的な女性を排除してしまうのは勿体ないと思う。

年下と結婚したからと言って子供ができる保証はないし、子供は授かりものですからね。

 

女性には理解されづらいけど、男性には「自分の代で血筋を途絶えさせるのはご先祖に申し訳ない」「自分の名字を継がせる子供がいないのは申し訳ない」と考えて、実子に執着する人も多い。

しかし、これは罪悪感を動機とした行動だ。

本来の自分は、たとえ子供がいなくても完璧な存在なのだ。

焦って若い女性を探す前に、その罪悪感が誰によって植え付けられた観念なのかを考えた方が良いと思う。

 

 

【容姿】

容姿は大事だと思う。

身だしなみと清潔感は相手への思いやりの表れだし、25歳を過ぎたら生き様が顔つきに出る。

だから外見は大事なのだが、内面と直結しているから重要なのだ。

特に令和の今は美容業界が発達していて、昭和の時代よりも外見を変えることのハードルが低くなった。

身長のように内容と関係ない容姿の問題は、内面に魅力のある人なら魅力に見えてくるものだと思う。

外見の整え方が分からないなら、親切に教えてくれるサービスもたくさんある。

でも、容姿自体を直接の条件にするというより、人間性を磨いていく延長に自然と表れるというイメージだ。

 

 

【経済力】

「結婚に経済力は必須だ」は正論なんだけど、不安や不足感が動機だと、どこまでも不安な結婚生活を引き寄せる。

長い結婚生活は何があるか分からない。

地震で家が潰れるかも知れないし、今は大手企業でもリストラがあるし、病気で働けなくなる可能性もある。

全てを失ってもゼロから一緒に頑張りたいと思える相手かどうかが大事だ。

結婚相手に経済力を求める動機も大事だけど、不足感(自分が稼げる自身がないから相手に経済力を求める)があると、やはり不足感を引き寄せると思う。

そして、「離婚されたら経済的に生きていけない」と思っていると、何があっても離婚できなくなり、モラハラやDVにも耐えなければならなくなり不安定だ。

だから不足感から経済力を望むのは危険だと思うが、充足していれば結婚生活に必要な経済力は自然と引き寄せられると思う。

容姿と同じく、経済力を条件にするというより、人間性を磨いていく延長に自然と現れるイメージだ。

家事遂行能力も同じ。

 

 

【趣味】

趣味が合うことも大事だと思っていたが、趣味が合わなくても波長が合えば大丈夫だと思う。

同じ趣味を楽しめるのも良いことだが、趣味が合っても波長が合わないと細かいところで言い争いになることもある。

趣味が被らなくても、お互いの趣味を楽しむことで世界が広がることもあるし、趣味は趣味仲間と楽しめば良い。

 

 

ただ、ここに書いたことは一度結婚に失敗して初めて悟ったことだから、結婚に失敗して離婚するのも悪い経験ではないと思う。

以前「特定の人を引き寄せたい」と思って本気で調べたことがある。


賛否両論さまざまな意見が飛び交っていたので、忘備録としてまとめる。

 

 

【特定の人は引き寄せられないという意見】

※奥平亜美衣さん、Kikoさんなど

 

「あの人とパートナーになりたい」と思うと、「あの人と一緒でなければ自分は幸せにならない」という執着の波動が出る。

 

「あの人と一緒でなければ幸せになれない」とは、言い換えれば「あの人と一緒でなければ自分は不幸だ」であるから、潜在意識には「不幸な自分」が入っており、その不幸な意識が現実化する。

 

本来の自分は1人でも完璧な存在で、無条件に愛されているはずなので、特定の人に執着する必要はない。

 

なお特定の人に限定せず、単に「素敵な人とパートナーになりたい」という願望であれば良い。

 

なぜなら、パートナーがいることで初めて経験できる世界もあるからだ。

 

だから「自分は1人でも完璧なんだからパートナーなんて必要ない」と願いを取り下げる必要はなく、「素敵なパートナーと幸せになる」という願望を持つのは問題ない。

 

ブルゾンちえみが言う通り、世界には異性が35億人(今は40億かな)いるんだから、相手を限定しなければ最高のパートナーが引き寄せられるはずだ。

 

そもそも、自分が体験したいのは「素敵なパートナーと一緒に過ごす時の幸福感」という感情なのであるから、その感情を味わえるのであれば相手は誰でも良いはずで、特定する必要はない。

 

引き寄せの願望には固有名詞や数字を入れるべきではなく、感情を引き寄せようとした方が良い。

 

相手を特定してしまうのは、執着が入っているからだ。


但し奥平さんは、自分の波動が上がってくると、魂で縁のある人を見抜けるようになるので、そうなれば特定の人でも引き寄せられると言っていた。

 

 

【特定の人でも引き寄せられるという意見】

※108さん、ホメレンさん、シークレットなど

 

そもそも引き寄せの法則は特定の者を引き寄せる法則なので、相手が特定の恋愛対象であっても変わらない。

 

特定の恋愛対象がダメなのであれば、特定の車、特定の家、特定の会社への就職、特定の国への旅行など、全て引き寄せられないことになってしまう。

 

そもそも、特定の人に対する愛情の気持ち自体はエゴではなく、純粋な魂から生じたものだ(エゴから生じることもあるが、その場合はその対象を本当は好きではない)。

 

しかし、その対象を「自分のものにしたい」「独占したい」という所有や束縛の欲求はエゴから来たものだ。

 

その相手を独占したいというエゴの欲求が現実化しても幸せにならない。

 

パートナーになれるかどうかは置いておいて、特定の相手に愛を送り続ける。

 

現実の相手は無視して、自分の心の中にいるパートナーとの愛情に浸り続けることが重要。

 

これは「妄想で我慢しろ」という意味ではなく、現実を無視して愛情に浸り続けると、現実は必ず動き出す。

 

なぜなら、現実とは自分の潜在意識を投影するための映写機だからだ。

 

しかし、「叶えるために愛に浸る」という意識では「今は叶っていない」を前提にしているから叶わない。

 

既に叶っているのだから叶える必要はなく、「叶えよう」とするのを辞めて、ただ特定の相手への思いに浸り続ければ良い。

 

そうすると不思議なことが起こり始めるが、エゴの範疇を超えることが起きるので、その特定の人と結ばれるとは限らない。

 

それ以上に幸せなことが起きるかもしれない。

 

 

【結局、特定の恋愛対象は引き寄せられるのか】

結局、特定の人を引き寄せられることはできるのか?

 

一見すると真っ向から対立する意見に見えるが、どちらも言っていることの本質は同じだと感じた。

 

例えばホメレンさんは「潜在意識の願望成就は『そう思うからそうなる』。『彼とラブラブだと思えば彼とラブラブになる』のだから特定の人との復縁や片思い成就は可能」と言い続けている。

 

しかし、「潜在意識を使えば、その特定の彼の100倍凄い人を一瞬で引き寄せるのも朝飯前だ。そのことは頭の片隅に入れておいても良い」と言っている。

 

であれば、「特定の人を引き寄せられるとは限らないが、自分の波動を上げれば最高のパートナーを引き寄せられる」と考えるのが正解かもしれない。

 

ここで「その人でなければ耐えられない」という気持ちが出てくるなら、波動が下がっているから、なぜその人とでなければ耐えられないのかを掘り下げても良いかも知れない。

 

Kikoさんの動画では「Aくんと30歳までに結婚してモルディブで式を挙げたい」みたいな固有名詞が入った願望は、(例外はあるが)引き寄せが難しいと言っていた。

 

しかし個人的には、特定の人をイメージングすること自体は波動を上げるのにプラスに働くと思う。

 

なぜなら「素敵なパートナーと穏やかで豊かな時間を過ごして安心したい」というボヤっとした願望だと、イメージングしづらく、引き寄せたい感情を味わいづらいからだ。

 

私の場合は、「Bさんと京都の○○寺の庭を見てゆっくりしたい、色々話したい」という願望の方が、楽しい瞬間をリアルにイメージできて、今この瞬間にも穏やかな気持ちを味わうことができる。

 

ここは、人によって向き不向きがあるから、自分に合った方法が良いと思う。

 

恋愛の引き寄せに限らないが、具体的に詳しくイメージして気持ちが上がるなら具体的にイメージした方が良いが、具体的にイメージするにつれて「こんなの絶対叶わない」という気持ちが出てくるならやめた方が良い。

 

つまり、Bさんの存在を(言い方は悪いが)利用して幸せな瞬間をイメージングして自分の波動を上げつつ、「でも、自分が幸せならBさんでなくても構わない」と手放す。

 

すると、Bさんを引き寄せるかも知れないし、Bさんより更に自分と合うCさんがパートナーとして引き寄せられるかも知れない。

 

でも、自分にとって幸せな現実が引き寄せられることだけは決まっている。

 

引き寄せの法則は「願った現実が引き寄せられる」法則ではなく「自分と同じ波動のものが引き寄せられる」法則だからだ。

 

ここで「これまで何年もパートナーがいなかったのだから、これ以上の人が引き寄せられるはずがない」「Bさんに断られたのだから、Cさんにも断られるのではないか」などという余計なエゴの観念は受け流す。

 

純粋に幸せな愛情の波動を放てば、幸せで愛情のある現実が引き寄せられる。

 

今この瞬間に幸せを感じ、愛の波動を放つために、現実を無視して特定の人との愛情に浸るのだ。

X(旧Twitter)では、男性と女性のどちらが大変か?という議論でよく盛り上がっている。

 

私自身は、10-20代前半の頃は「日本社会は男性優位で、女性は冷遇されている」と思っていた。

 

20代後半になると、逆に「男性は多くの責任を負わされていて、女性から搾取されている」と思うようになった。

 

10代の頃は上野千鶴子さんが好きな母の影響で、自分自身の男性性を否定していたので、自分自身のことを女性の立場を理解できる優しい男性だと自認していた。

 

母の考え方に同調することで母の期待に応えようとする、いわゆるマザコンだったと思う。

 

20代後半になると、抑圧が取れたことで母への怒りが爆発し、反動で一気に女性嫌悪に傾いた。

 

「男性はこれだけ重い責任を負わされて我慢しているのに、まだ女性は文句があるのか(怒)」という感じだった。

 

しかし30代になり、好きなように生きるようになってから、「日本社会は男尊女卑か女尊男卑か」という議論自体に興味がなくなった。

 

男性であれ女性であれ、こういう議論に惹きつけられる人達は不足感に焦点を当てていて、怒りのエネルギーで満ち溢れている。

 

不遇な環境を嘆くと更に不遇な現実が引き寄せられるから、こういう話題には近づかないのが一番だ。

 

男性でも女性でも、幸せな人は「不公平だ」などと怒らず、今ある豊かさに焦点をあてて、もっと楽しいことを考えている。

 

生まれてきた性を思いっきり楽しむのも良し、性転換するのも良し、LGBTとして生きるのも良し、自分自身が幸せなら何でもアリだ。

 

「男性は○○」「女性は○○」と言うが、実際には男性と女性の違いよりも、無力感に支配されて何でも社会や他人のせいにする人と、自分の潜在意識が世界を創造すると信じている人との違いの方が遥かに大きい。

 

潜在意識や引き寄せの法則の本を読むと「ニュースを見ると波動が下がるからニュースは見ない方が良い」と書かれている。

 

昔は「そうは言っても、社会の理不尽さに関心を持たないと、社会が良くならないんじゃないか?」と思っていたけど、そんなことはないと思う。

 

怒りや罪悪感、正義感から社会を変えようとする人はいなくなるけど、愛情や感謝の気持ちから社会を変えようとする人は逆に増えて、その方が社会全体が豊かになるはずだ。

私はバツイチ・子なしのため子育てをした経験はないのだが、私自身の経験から思うところがある。

 

子供よりも自分を優先する親に対しては「子供が可哀想だ」と批判が殺到する。

 

例えば、親の都合であちこち引越するとか、親の行きたいところに子供を連れて行く、離婚などは許されない。

 

しかし実は、子供にとって一番辛いのは「自分のせいで親が不幸になった」と思うことだ。

 

私の両親は不仲で、母は私に対して常に父の愚痴を言い、「あなたがいなかったらお父さんとはとっくに離婚していた」と言っていた。

 

すると私は、「自分が生まれてきたせいで母は離婚ができなくなってしまった。自分が生まれてきたのが申し訳ない」と罪悪感を持ってしまう。

 

両親が離婚するよりは仲良しの方が幸せなのは間違いないが、仮面夫婦を続けられるよりは離婚の方がマシだと思う。

 

自分の願望や気持ちを抑えて子供に尽くしすぎてしまうと、表面的には「子供のため」と言いつつ、無意識では子供に対して怒りが湧いてくる。

 

子供は「自分が生まれたせいで親が不幸になったから、自分なんて生まれて来なければ良かった」と自分の存在を否定し、自己嫌悪になる。

 

一方、子供よりも自分の都合を優先すると、将来子供から「自分勝手な毒親だ」と罵られ、絶縁される可能性がある。


子供から絶縁されるのは悲しいが、それだけと言えばそれだけだ。子供が自己嫌悪になることはない。


子供と言えども別の人格だから、子供が離れたら一人の人生、もしくはパートナーとの人生を楽しむしかない。

 

このブログのタイトルは「孤独を楽しむ」だが、子供から捨てられるのが怖い親は、孤独を楽しむ力が足りていないのだ。

 

親を責めることができる子供は、自分自身を責めて自己嫌悪や自己否定へ向かうことはない。

 

罪悪感や自己嫌悪よりは、怒りの方がまだ自己肯定感は高く、自己否定をして無気力になった子供の方が深刻だ。


「あの親は本当に自分の都合しか考えていないクズだった」と親に怒りを向けることができる子供は、「では自分自身はどう生きるか?」を前向きに考えることができる。

 

親への怒りは出し切ると解消される。

 

子供が自分らしい人生を生きていくにつれて、「自分が好きなように生きられるのは、親が好きなように生きていたからだ」と気づき、親との関係も正常化する。

 

子供がずっと怒りを燃やし続け攻撃的なのであれば、それは子供自身が人生を通じて解決すべき問題であって、親には関係がない。

 

親が自己犠牲をして子供に尽くしすぎると、子供にとっても不幸だ。

 

「母親のくせにオシャレをして恥ずかしくないのか」「父親のくせに飲み歩いて子供が可哀想だ」と批判をする人もいる。

 

しかし、本当は飲み歩きたいのに、それを我慢して子供との時間を無理やり作っても子供は嬉しくない。

 

「お前のためにわざわざ自分の時間を我慢して時間を作ってやっているんだ」という恩着せがましい態度は子供にも伝わる。

 

子供は親に対して申し訳ない気持ちになり、必死に親からの期待に応えようとして自分自身を見失う子供が生まれる。

 

ずっと飲み歩く父親よりも、楽しく遊んでくれる父親の方が子供にとって嬉しいのは間違いないが、飲み歩く父親の下に生まれてしまった境遇はどうしようもない。

 

その生育環境でこそ得られる経験があると割り切って乗り越えていくのは子供自身の人生の課題だ。

 

親が飲み歩きたい欲を我慢して子供に尽くしてしまうのは、子供自身の人生の課題を奪うことになるとも言える。

 

しかし注意しなければならないのは、親自身が「本当に幸せを感じているかどうか」だ。

 

毎晩飲み歩くにしても、本当にお酒を楽しんでいるなら過度な依存症にはならない。

 

「お酒がおいしい」と思っている間は依存症ではない。依存症は「お酒を飲んでも美味しいとは感じないが、飲まないと酒のこと以外考えられなくなるから飲まずにはいられない」という状態だ。

 

週に何日か飲みに行って気持ちが豊かになるなら、「自由な時間を持たせてくれてありがとう」と家族に感謝の気持ちが生まれて、子供と遊びたいと自然に思うだろう。

 

しかし辛いことから逃げるため、罪悪感を持ちながら飲み歩いていると、子供を無視しているにも関わらず子供への感謝の気持ちは生まれず、「子供のために頑張って働いているんだから、飲みに行くくらい当然だ」という怒りが湧いてくる。

 

これは、表面的には子供より自分を大事にしているように見えて、本質は自分を犠牲にしている。

 

自分を犠牲にして家族のために尽くしているから、飲まずにはいられなくなるのだ。

 

子供を何時間も車に放置したままパチンコに没頭し、子供を熱中症で死なせてしまうのも、このような心理的背景だと思う。

 

愛や感謝の波動は自然と伝播するから、本当に自分の幸せを最優先で追求していれば自然と子供にも感謝の気持ちが生まれ、子供のためにも出来るだけのことはしてあげたいと自然と思うはずだ。

 

「子供のために尽くしたい」という親は多いが、「このままだと子供がダメになってしまう」「子供が自立していけるのか不安だ」という不足感や不安、罪悪感からの支援は、子供にとって重荷になる。

 

世間体や周囲との比較、将来への不安(まだ起こってもいない不安)から子供に尽くすのは危険だ。

 

子供も自分とは別人格なので他人だ。

 

子供に限らず、基本的に他人は放っておけば勝手に成長していくから、自分自身が幸せを感じることを一番大切にして良い。

 

自分が楽しんでいれば周りの人も勝手に楽しい人生へと変化していくが、それは子育ても同じだと思う。

 

子育てをしたことがない私が言うと説得力がないが、親が不安に飲み込まれずに全力で自分の人生を楽しんでいる背中を見せることが、子供にとって一番のギフトになると思う。

「願望を手放すと叶う」というが、忘れた頃に叶うことがよくある。

 

以前、よく通っていた渋谷の中華料理店で流れていた中国語の曲が印象に残った。

 

中国語の曲なので歌詞も分からないし、最初は印象にも残らなかったが、しょっちゅうかかっていたので、耳に残った。

 

約3年後、北京を歩いていたら、ショッピングモールでその曲がかかっていた。

 

渋谷の中華料理店で何度も聞いた曲だったのですぐに分かった。

 

渋谷で聞いていた時には曲名は気にならなかったが、北京で聞いた時には、異郷の地で聞き慣れた音楽を聞いて(もともと中国の曲だから当然だが)急に親近感が湧いた。

 

日本語の曲であれば、日本語の歌詞を聞き取ってググれば曲名はわかる。

 

しかし当時の私は中国語の歌詞を聞き取って書き取れるほどの中国語力はなかった。

 

メロディー検索という方法もあるが、日本のメロディー検索では中国の曲は出てこず、中国のメロディー検索のサービスも調べてみたがヒットしなかった。

 

急に気になってしまい、翌日には半日くらいかけて調べ尽くしたが疲れ果ててしまった。

 

中国人の友人にメロディーラインを伝えて「こういう曲知らない?」と聞いてみたりもしたが、知らなかった。

 

でも、なぜか「こういう時って絶対にそのうち曲名が分かるんだよな。大丈夫なんだよな」という謎の確信があった。

 

曲名や、商品名など、すぐに分からなくても、なぜか必ず縁があって分かる時が来る。

 

中国の曲だから曲名が分かる可能性は低い気もしたが、渋谷でも北京でもかかっているくらいだから中国では有名な曲のはずだと思った。

 

その後、中国に住むことになった。

 

中国のテレビはいつも同じような内容を流していて退屈なので全く見る気がしないのだが、ある日、スマホ依存症に疲れ、たまにはテレビでも見てみるかと思った。

 

中国のテレビを見る機会なんて1年に2〜3回くらいだ。

 

すると、なんとテレビをつけた瞬間に例の曲を歌い始めたのだ。

 

日本の音楽番組では演奏中ずっと曲名が表示されるが、その音楽番組は冒頭だけ曲名が表示され、すぐに消えてしまう。

 

テレビをつけた瞬間に歌い始めたので、曲名は分からなかった。

 

しかし演奏中、ずっと歌詞の字幕が表示されたので、スマホで録画した。

 

歌が終わると、歌詞のサビっぽいところを百度(中国版Google)で入力して検索したら、曲名がヒットした。

 

「いつかこの曲名は必ず知ることになるだろう」と意図してから7年、タイムラグは長かったが、願望が実現した。

 

特定の人との恋愛成就とか、特定の会社への就職などの願望実現のプロセスも、こんな感じなんだと思う。

 

願望についてずっと考えていると執着が生じて難しく、意図だけ決めて楽しく過ごしていると、忘れた頃に軽やかに叶う。

 

ちなみに、どうでも良い話だが、この曲だ↓

チベットの雄大な自然を背景にしたPVも気に入った。