バイクと自転車と本と -58ページ目
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セーブして終了

今日は久しぶりにいつものチキンへ。
やっぱりこのコース好きだ。

モトクロスはフープスとジャンプがあってこそ。
このコースはこの二つがしっかり練習できる。


今日は色々と掴めた感触が残る一日だった。
フープスは、
・進入でステップに置いてる足の位置確認。母子球より前辺りを意識。
・最初のアクセルはしっかり開けて加速のきっかけをつくる。
・フロントとコブの当るタイミングと高さを常に意識。

特に足の位置と、フロントの高さはけっこう大事だと分かった。
理想は全てのコブでフロント、リアともに頂点をかすめれば良いけど、
最悪、フロントさえしっかり頂点を狙えていれば、後はアクセル開度とリアのホールドに神経を注いでいれば、
そのうちペースが上がると予想。


$モトクロスとDUKEと自転車と本のこと

あとは、
最近はジャンプで捻るのを意識してる。
写真は3速シッティングジャンプ。
座りながらの方が捻り易い。

リアを流す動作は、
雑誌で見てるときは、どうやって戻しているのか、なぜ戻るのかが分からなかったけど、
基本的に体の重心がステム付近にあって、前下がり気味の姿勢であれば、
自分の重心移動の動作がバイクの姿勢に反映出来る。
リアが流れて“しまった”時と自分で流した時の違いは、そこかなぁと考えてる。
初心者の頃のジャンプは、大抵が後ろ寄りに重心があるから、あまりコントロール出来ない。



今日は走っていて楽しかった。
午前はダメダメだったフープスも感覚が掴めて来たので、
終わるのが惜しいと思った。

いつも思うんだけど、
ゲームみたいに、「セーブして終わる」ってのが出来ればいいなぁと。

今掴んだこの感覚を、そっくりそのまま保存して、
次の練習もこの状態からスタートしたい。

実際は、1週間も時間が経つと、
体に刻み込まれる前の感覚は微妙に忘れたりする。

特に今度の日曜はイナベ予定なので(フープスがなくジャンプが少ないコース)、
今日はバイクを洗車しながら、何とか今持ってる感覚を忘れないようにと考えてた。


ただ、
そんな風に練習を終われる日ってのはやっぱり少ないので、
今日は良い日だった。
転倒も1回もしなかった。

連休最後のモトクロスは楽しい気分で過ごせました。



モトクロス×仕事

今日はモトクロス。
三重県員弁(いなべ)にあるコースに行ってきた。

このコースに来たのは去年の夏以来で、かなり久しぶり。
来るたびに全日本上位のIAの人もいたりして、
若干気を遣う。


始めた頃は、雑誌に載ってるIAと実際に走れるなんて、凄い体験だ!
みたいにミーハーなところがあったけど、
今はそんなに思うことがない。

IAの凄さに憧れて、モトクロスに手を出したようなものなのに、
最近は見慣れてしまったというか何と言うか。

凄いのは間違いないんだけど、彼らの一部はそれが仕事なのだ。
仕事、
っていう観点で見るとなると、見方が最近変わってきた。



俺が彼らと同じラップで走れないのと同様、
彼らも俺がやってる技術の仕事は出来ないだろう。

俺が彼らのレベルにはもう決して届かないのと同様、
彼らも今から物理、数学といった基礎から応用まで勉強する素養はないだろう。


別にスポーツ選手をバカにしてるわけじゃなくて、
そこらにいる技術者ね、
大学、大学院出て、別に誰からも「カッコいい」という視点で見られることのない技術者たち、
たまの休みはぐーたらして、家族から尊敬されないお父さんとかね、
そういう人達も、人に魅せるという方向ではないにせよ、
積み重ねている、ってことなんかなぁと思う。

日本にはそんな人達が沢山いて、
一見平凡な彼らこそが、資源のない日本を支えていってる、
と言ったら言い過ぎだろうか。

でも、
資源のないこの国を、ここまで豊かにしていったメインの功労者は、
技術者と、現場の技能者達だろうと思う。
日本政府は頼りなくても、
世界レベルの企業はたくさんある。


もうちょっと自分たちの仕事に誇りを持てるんではないかと。

GWはじまったばかりなのに、
GW明けの仕事がいやでしょうがない自分への動機付け。です。

やっかいで面倒な仕事が待ってる


ただただ、
バイク乗ってたいのが本音だけど、
自分の生活の軸は、やっぱり仕事なんだよね。誰にとってもそうだろうけど。

魂の駆動体を読んで

神林長平の小説は、敵は海賊シリーズ以外はほとんど読んでる。
一番好きな作家。

最近は、その中で面白かったのを再読中。
今日は、魂の駆動体を読み終わった。

$モトクロスとDUKEと自転車と本のこと

~あらすじ~
人々が意識だけの存在として仮想空間へと移住しはじめた近未来。養老院に暮らす「私」は、確かな生の実感をとりもどすため、友人の子安とともに理想のクルマを設計する。いっぽう遙かな遠未来。太古に存在した人類の文化を研究する翼人のキリアは、遺跡で発掘された設計図をもとに、あるクルマの製作を開始するが…。機械と人間の関係を追究してきた著者が、“魂の駆動体”たるクルマと自由な精神の解放を謳う現代の寓話。


初めて読んだのは学生の時だったけど、
技術者4年目として改めて読むと違った印象を受ける。

ものづくり、
って何だろう、って考える。

例えば、クルマをつくりたくてホンダに入っても、
クルマと言ったって、その技術領域は広いし、部品も多い。製造工程もたくさん。外注だってあるだろう。

じゃあ、どの部署で何の仕事を担当したら、クルマをつくっている実感が得られるんだろう。

多くの要素技術の集合体。
世の中のほとんどの製品がそうだ。
自分の会社は電子部品メーカーだけど、
単なる部品一つですら、素材からつくれば、完成品までに色んな技術が必要になる。

その技術ひとつひとつを網羅し、自分のものにしなければ、
モノを創り上げている、という実感は得られないのだろうか。


自分は、生産設備の開発をやっているけど、
数ある工程の中の一つの操作を行う設備でしかない。
それでも、
扱う技術領域は多岐に渡り、自分ひとりでつくりあげることは出来ない。

自分はその設備の基礎設計を担当している。
一番の源流パート。
この設計がミスっていたら、完成した設備は要求仕様を満足しないだろう。というもの。
だから、
やりがい、というか責任はある。
ただ、
基礎設計は生産技術に渡してそこで詳細設計されるから、
なんとなく、
自分が最後まで設計した、って感慨が薄いのだ。



小説の中で、
「設計図が完成したにもかかわらず、その設計した物が実際に造られなかったとしても、その設計図自体は独立した創造物として認めていいとおれは思う」
と一人の老人が言う。

どうなるか分からないまま線を引く事は出来ない。
設計図を描くということは、試行錯誤を繰返しながら図面自体を創造する行為。だと。

普段の業務の士気を上げてくれるような本だ。
俺が決めた一つの仕様、そこから決まる一本の線の寸法、それも立派な創造だって。



街を走ってるクルマや、俺のバイクは、
技術者達がそうやって一本の線を引くのに色々な考えを戦わせ、検証してきた結晶だ。

なるほど、
飛ぶような感覚で走る、あの麻薬のような瞬間があるのは、
何もライダーの技術や感性だけがそうさせるのではないんだな。


当たり前に存在してるものなんて、何一つなくて、
そのモノが完成するために、
多くの人が悩み、汗を流して、膨大な試行錯誤がなされた上で、時間を掛けて今のカタチになっていった。
目の前のコーヒーカップ一つとっても、縄文時代から土器を創ってきた経緯を考えると、
ニトリでたったの100円なのに、随分と洗練されたんだなぁと感じる。


そうやって考えると、
人間って、ほんっとにモノを創るのが大好きな生き物だなって思う。

モノが物質的に溢れて飽和状態の現代社会、なんて揶揄されたりするけど、
モノを創る、って行為自体は純粋だ。


小説を読み終えると、
ふと、身の回りに溢れる沢山のモノの素性について考えてしまう。
自分はこれから何をつくっていけるだろうか、
って、
そんな読後感の小説。

老人二人が主人公っていうのが良いね。

子安(という名前)みたいな友人、いや、同僚が欲しいなぁと思った。



再読シリーズは、
膚の下
ライトジーンの遺産
死して咲く花、実のある夢
そして魂の駆動体と読んで来た。

この次に好きなのといったら、、、
雪風かな。

ジャンプを飛ばないからエンデューロ

自分のオフロード歴を書く。
大学生の頃は林道や山、いわゆるゲロ道などを走っていた。

最初は面白かった。
でも、あるときからつまらなくなった。

そのきっかけの一つになったのが、
生でモトクロスを初めて観たこと。

もちろん、それ以前ビデオで見たことは何度もあった。
だけど、「大ジャンプを飛ぶのは外人ライダーだから」だと漠然と思っていた。


そんな認識で、
チキンで毎年やっているレオタニカップのイベントレースにツーリング気分で見物したのが最初。
今から6年も昔、2005年のこと。


自分がコースに着いたときは、3時間エンデューロの最中だった。
当時はCRMでJNCCなどエンデューロを何回か経験していた。
だから別段なんの感慨も抱かずにレースを観ていた。

それが終わって、
モトクロスレースがはじまった。

最初はビギナークラス。
「なんだやっぱそこまで大したもんじゃないんだな、全然飛んでないし」と思った。

次に、中級クラス(忘れたけどNB、NAクラスか)。
「トップ数人が速い…でもまぁ大部分はそんなに…」などと内心驚き始める。

最後に、IB,IAのプロクラス。
全員が、どでかいダブルを連続で飛んでくるのを観た。
エンデューロでは見たことのない勢いと音で、接近しながらも、躊躇なくジャンプを飛んでる。

感動した。
自分と同じようなオフロードバイクに乗っていながら、
やっていることは全然違うと思った。

エンデューロよりもずっとずっとカッコよく見えた。
迫力が半端なものじゃなかった。
地面が振動するようなジャンプだ。


それから学生生活を終え、
2008年に就職し、自分でトランポを所有できるようになったときに
最初に買ったレーサーはエンデューロではなく、モトクロッサーだった。

オフロードバイクに乗っていながら、ジャンプを無視することは出来なかった。
2005年に見た、IAのジャンプが忘れられない。



「飛べないからエンデューロ」

モトクロスを3年間続けた今となっては、単純にそんな風には思わない。
エンデューロとモトクロスは、別競技だから。
それぞれに難しさとカッコよさがある。
同じような見た目のバイクを使うからといって、両者を混同するから分からなくなるのだ。

でも、
当時の自分はそうは思えなかった。
飛べないから、飛ぶ技術がないから、飛ぶ勇気がないから、
だから山を走る技術に特化する。
それで本当に、エンデューロライダー=オールラウンダーと言えるのか。と思ったのだ。

ジャンプを避けてオフロードバイクに乗り続けるのは、嘘だ。って思った。
だって、飛べるように造ってある単車なんだからって。
誰が見たって、ジャンプしてるバイク、ライダーはカッコいい。
バイクに乗らない人が見たって、有無を言わさずに伝わる迫力がある。


だから、ジャンプを飛ぶ、ってことは自分にとって物凄く大きな目標で、
同時に越えがたい壁になった。

モトクロスを始めるとき、
3年やっても飛べるようにならないなら、やめよう。やる価値がない。と決めた。


そしてこれを書いてる今が、モトクロスを初めてちょうど3年。
IAが飛んでた大きなダブルも飛べるようになった。
自分自身で当初掲げた理想のレベルには達することが出来た。


でも実際は、
3年経つ以前に、
「いつまでも飛べない自分」が許せなくて1年3ヶ月で一度挫折した。
3年も、飛べないままモトクロスを続ける精神力はなかった。

一度挫折して、2ヶ月くらいモトクロスの事を考えもせずに、過ごした。
(そのときにロードバイクに出会ったんだけど)

そして再びコースに誘われたとき、
もう人生という長い期間の中でも、ジャンプが飛べるようになるかどうかは、今の決断に掛かっていると思った。
今、飛べないなら、もう認めよう。でも最後に挑戦はしてみよう。
だけどそれでも怖くて踏み切れなかったら、もう辞めよう。

今の生活、社会人としての自覚、
色んな事を考えた。
一般的なサラリーマンなら、普通は悩む。
モトクロスライダーはどの人もKY(危険予知)能力が若干欠如したようなセンスで乗ってる人が多いと思われるけど、
いや実際そうなんだろうけど、当然普通の人もいるのだ。
普通の人にとってジャンプは普通ではない。


いま出来なかったら一生「自分はモトクロスで挫折した」と時々思い出しながら生きてくんだろうな。と思った。



それぐらい追い込まれなかったら、
とてもじゃないけど、4速や5速全開で飛ぶ気にはならなかった。
普通の常識人の感覚では、とても出来ない。


結果的に飛べるようになったのは、自分の中では奇跡だと思ってる。
自分のこれまでの人生の中で、奇跡だと呼べるのはその時ぐらいだ。

ずっと完全に恐怖に呑まれていたのに、
ふと、「いける」っていう根拠もない不思議な感覚がどこからか湧いて出て、
アクセルを最後まで戻さず、全開で踏み切った。
今思い返せば、ただアクセル開度だけであとはバイク任せの傍目から見て相当危なっかしい飛び方だったはずだ。
それでも飛べたときは、
涙は出なかったけど、ずーーーーーーっと長い間圧し掛かっていた重圧から解放された気分だった。


「いける」なんて、どうしてそんな感覚が降って来たのか分からない。
だから奇跡だ!って今でも感じてる。

あれがなかったら、
その時は間違いなく、やめてた。
自分の理性は、どんなに考えたところでGOサインは出してくれなかったはずだから。



飛べなくたって楽しめれば良い。は嘘だった。
それは自分の中では嘘だった。

飛べた。
これで続けられる。
これで、やっと自分はモトクロスをやってる。って言って良いんだと思った。
それが何より嬉しかった。


この時にはもう、
かつてのエンデューロ系の友人達と一緒に走ることはなくなっていたんだけど。
それでも、
自分にはこっちが性に合っている。

エンデューロでは、
「自分はマジメすぎる」ってよく言われた。
この場合のマジメは、もちろん否定的ニュアンス。

そう言われるのが、イヤだったし、煙たかった。
これは今でも同じ気持ち。

エンデューロは、とにかく楽しむ才能がないと、周りに置いていかれる。
自分は、出来なければ楽しめない性格だから、合わないと思った。
出来ないところがあれば一人ででも、何度も反復したい性分だから。


一方で
モトクロスでは、一生懸命練習してる人は、それなりに認めてくれる風潮がある。
そこが好きだ。


$モトクロスとDUKEと自転車と本のこと




今はそんな風に思ってる。
いつか考え方が変わるかもしれない。

モトクロスは長く続けられるとは思っていない。
どういうレベルが自分にとってゴールなのか、今またそれを模索してるところ。




初日記~ツーリング

$モトクロスとDUKEと自転車と本のこと-110424 R166にて

曽爾から南下しR166を東へ、最後に青山高原。
320kmほどを、30分休憩を挟んだのみで走り続けた。

止まるのが惜しいほど、走るのが気持ちよかった。
道との一体感。
日常のイヤなことが綺麗に洗われる感じ。


R166が快走路だというのは聞いていたけど、
でもここまで気持ち良い道路だとは思ってなかった。

信号がほとんどなく、
70km/hオーバーで他のクルマも流れているのでストレスもない。

久しぶりのスーパーデュークは快調。
路面状態が良いと、PDSと足の硬さのネガ部分がなくなり、
トラクション感覚を右手に感じながら走っていける。
ブレーキングから倒しこみの動作が本当に楽しいバイク。
ブレーキが良いのか、足が良いのか、何が良いのかわからないけど、
以前乗っていたCBR954よりも格段に走り易い。



途中、何人ものライダーとすれ違った。
暑くもなく、寒くもなく。
ただひたすら気持ち良い。

飛んでいるような感覚になったのは久しぶり。
やる事が多い上に負荷が大きいモトクロスでは決して味わえない疾走感。

この感覚があるから、公道を走れるバイクは置いておきたいと思う。



今日はオンロードバイクの乗り方のコツが一つ分かった。
インステップの扱い方。
何となく最初は安定感が弱まって不安だったが、
思い切りよく、母子球の辺りだけインステップ先端に当てグッと力を込めて倒しこむ。
そうすると、良い具合に体もインに入るし、
いつもより旋回力があるのに、車体は以前よりバンクしていない状態になってる感じ。

マージンを確保しつつ、スムーズに走れるようになりたい。


スーパーデュークのRは特に足回りが硬く、
アクセルレスポンスはモトクロッサー以上に急激な上になぜかスロットルが異常に軽く、
しかもレバー回りはマグラやブレンボが入ってるけど、操作性はあまり良くない。
という、かなり個性的なバイクなので、
これらの改善やライディングのあれこれについて書いていきたい。



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