(C)具体的予見可能性説の再構成
そもそも、結果の予見可能性・予見義務は結果回避措置の動機付けのために行為者に要求される要件である(予見可能性と結果回避措置・結果=法益との関連性)。よって、予見可能性の対象と程度は、結果回避措置を動機づける契機となる程度の具体性をもった因果経過の一部とそれに強く関連した具体的結果と解すべきである。
そして、因果経過は行為の危険の実現過程であるから、別の角度からいえば、結果発生の危険性を基礎づけ、かつ一般人からみてその危険を排除する結果回避措置の契機となる具体的事実と定義することもできる。そして、行為者において、かかる危険性のある事実の認識があるにもかかわらず結果発生を認容しなかったとしても、つまり、結果発生の多少不安が残るものの認識した因果経過の一部の危険を除去せず結果が発生した場合は、結果の具体的予見可能性は肯定される。すなわち、①結果発生の具体的危険性があり、その危険を排除する結果回避措置の契機となる事実についての「認識ある過失」の場合(結果的加重犯類似の場合)、その認識をてことして、具体的結果の予見は可能である。当然、②「認識なき過失」の場合は、かかる危険性のある具体的事実が予見の対象となり、これと密接に関連した具体的結果も同時に予見可能となる。
森永ドライミルク事件でいえば、工業用の薬品について薬品検査などの安全性チェックをしないで食用製品に用いることは、食品の安全を保証する立場にある者にとって、その薬品に人体に有害な物質が含まれている可能性ないし危険性を排除すべき契機となる事実(=因果関係の基本的部分)であり、その認識が有りながら、作業工程で、それを食品の安全管理上、薬品検査し確認することが容易であるにもかかわらず、業者を信頼して大丈夫であると信じても、被害者との関係上、信頼の原則の適用はなく(信頼の相当性を欠く)、「認識ある過失」として、また、認識していなくても、人体に有害な物質が含まれている可能性ないし危険性を排除すべき契機となる事実の認識予見が可能であった場合は、「認識なき過失」として具体的予見可能性が肯定される。このように森永ドライミルク事件においては、危惧感説によらなくても、結果回避義務と予見可能性との関連性から因果関係の基本的部分を抽出して、予見可能性を肯定できる余地がある。すなわち、危惧感説の考えは、一定の範囲で具体的予見可能性説に解消できるというべきである。
ただし、保証者的立場にない行為者において人体に有害な物質を含まない程度の粗悪品の認識・予見しかできない場合、具体的予見可能性は否定されるというべきである(内藤謙・刑法講義総論下Ⅰ 1121頁参照。)。
よって、判例通説のいう「因果関係の基本的部分」は①結果発生の具体的危険性を基礎づける事実、②一般人から見て危険を排除する結果回避措置の契機・動機付けとなる事実の2つの観点から個別具体的事件によって判断されることになる。そして、ア「結果」の具体的予見は、イ「因果関係の基本的部分」の予見に依存するから、イが予見可能ならばアも原則として予見可能である。さらにイの認識があれば、行為者が不安に思っていても、原則としてア結果の具体的予見は可能であったとみてよいということになる。だからこそ、通説は、具体的結果及び因果関係の基本的部分という表現で、つまり結果と因果関係の基本的部分は密接不可分なものとして予見の対象・程度を画しているのではなかろうか。なお、いわゆる中間項理論はこの意味で理解可能であるが、既述の通り、結果回避措置との関連性も加味して考えなければ不十分である※。
このような理解を前提とすると因果関係の基本的部分の抽出とその予見可能性の認定方法ないし分析方法は、以下のように考えられる。
まず、①行為から結果発生にいたる因果経過の個々の事実(経過事実)を確定し、それが相当性ないし危険の実現の評価により刑法上の因果関係を肯定されることを出発点とする。
次に②経過事実のうち予見可能な経過事実a,b,c…と予見不能な経過事実d,e,f…を区分し、③a,b,c…の経過事実の予見により一般人が危険を感じて結果回避措置をとることができるかを吟味する。これが肯定される場合は、a,b,c…が因果関係の基本的部分となり、その予見可能性が認められる。④a,b,c…だけでは結果回避措置を期待できない場合は、d,e,f…と類似する抽象化した経過事実d’,e’,f’…を抽出し、a,b,c…の事実とあいまって予見により一般人が危険を感じて結果回避措置をとることができるかを吟味する。これが肯定される場合は、a,b,c,d’,e’,f’…が因果関係の基本的部分となり、その予見可能性が認められる。この抽象化は一般人が具体的に結果回避措置を取りうる程度の危険性を基礎づける事実と評価できる範囲内で許容される(予見可能性と結果回避義務との関連性)。そして、⑤因果関係の基本的部分が予見可能であれば、それと密接不可分な結果発生も具体的に予見可能と推定される。
※因果関係の基本的部分の抽出
近鉄生駒トンネル火災事件(最決平成12・12・20)
被告人は「炭化電動路が形成されるという経過を具体的に予見することができなかったとしても、右誘起電流が大地に流されずに本来流れるべきでない部分に長期間にわたり流れ続けることによって火災の発生に至る可能性があることを予見することはできたものというべきである」としており、被告人が認識し得た仮定的因果経過「誘起電流の接地不良→ケーブル上での絶縁破壊等による大電流の流れ→ケーブルからの発火→火災の発生」(A)と現実の因果経過「Y分岐接続器本体の半導電層部への誘起電流の流れ→炭化電動路の形成→火災の発生」(B)を包摂する「誘起電流が大地に流されずに本来流れるべきでない部分に長期間にわたり流れ続けることによって火災の発生に至る可能性」(C)を因果関係の基本的部分と抽出・設定して、その予見可能性を肯定したものと評価できる。これは(A)と(B)を比較し、結果回避措置をとりうる程度の具体性・危険性を持つ限度で因果経過の事実を抽象化して「因果関係の基本的部分」を抽出したものといえる。なお、故意錯誤論とパラレルに一種の法定的符合・重要部分の重なり合いを行ったとの解釈や因果関係の錯誤の応用(客観的因果経過と行為者が予見可能な因果経過が相当性の範囲内かどうかで判断する)も考えられる。もっとも故意と異なり、予見し得たかを問うのであるから、行為者の主観面は仮定判断せざるを得ず、かつ仮定的予見対象と現実の因果経過との符合基準は過失固有の結果回避義務との関連性の視点から判断するしかない。相当性基準も構成要件的重なりの基準も本件においては具体的基準を定立しにくいであろう。
北大電気メス事件(札幌高判昭和51・3・8)
電気メスを用いて手術をする際、看護婦が電気メスのケーブルを誤接続し、心電計の欠陥と相まって、強い電流が回路に流れ、その結果患者の右足に火傷を生じ、右下腿切断のやむなきに至らしめた医療過誤の事案である。判決は、看護婦に業務上過失傷害罪を認め、執刀医を過失がないとして無罪とした。第1審は、危惧感説にたって、看護婦の予見可能性を肯定したが、控訴審は、危惧感説を否定し、具体的予見可能性説にたちながら、看護婦の予見可能性を肯定したものである(なお、信頼の原則の問題については後述。)。すなわち「内容の特定しない一般的・抽象的な危惧感ないし不安感を抱く程度で直ちに結果を予見し回避するための注意義務を課するのであれば、過失犯成立の範囲が無限定に流れるおそれがあり、責任主義の見地から相当であるとはいえない。右にいう結果発生の予見とは、内容の特定しない一般的・抽象的な危惧感ないし不安感を抱く程度では足りず、特定の構成要件的結果及びその結果の発生に至る因果関係の基本的部分の予見を意味するものと解すべきである。そして、この予見可能性の有無は、当該行為者の置かれた具体的状況に、これと同様の地位・状況に置かれた通常人をあてはめてみて判断すべきものである」とする。
問題はここでの予見対象である因果関係の基本的部分であるが、まず、客観的な因果経過について、「本件手術では心電計が併用され、その接地電極の一つが患者の右下腿部に装着され、電気手術器本体の対極部と心電計の双方にアースが取り付けられて、右対極部と心電計の各接地電極がそれぞれ接地していた関係で、ケーブルを誤接続した場合、電気手術器本体の出力端子から対極板側ケーブル、対極板、患者の身体(右下腿部)、心電計の接地電極、心電計のアース、大地、電気手術器本体のアースを経て電気手術器本体の対極端子に至る新たな電気回路が形成される。ケーブルが正常に接続されたときの電気回路も前述のとおり一部患者の身体を通るが、この場合回路中に電気抵抗の著しく大きいメス先と患者の身体(もしくは出血箇所をはさんだ鉗子)の接続部分を含むため、回路全体の電気抵抗の総和が大きく、従つて回路に流れる電流の強さが制限される。これに対し、ケーブルの誤接続の場合に形成される上記回路中には電気抵抗の著しく大きいメス先と患者の身体(もしくは出血箇所をはさんだ鉗子)の接触部分が含まれず、回路全体としての電気抵抗の総和が小さく、従つて正常接続時の回路に比しより強い電流が流れることになる。その結果右回路中での電気抵抗の大きい箇所である対極板と患者の身体の接触部分に電流の熱作用により多量の熱を発生し、同所に熱傷を生じたのである」と認定する。そして、「少なからぬ期間手術部所属看護婦の日常の職務の一部として電気手術器による手術を介助する任務に従事し、特に間接介助の際にはケーブルの接続を含む電気手術器のセツト一切を担当し、本体とケーブルの誤接続の可能性に対する認識もあつた被告人Xにとつては、ケーブルの接続に際しケーブルを本体に誤接続する可能性もないわけではないこと、もし誤接続をしたまま器械を作動させるならば、あるいは電気手術器の作用に変調を生じ、本体からケーブルを経て患者の身体に流入する電流の状態に異常を来し、その結果患者の身体に電流の作用による傷害を被らせるおそれがあることは、予見可能の範囲にあつたと認められる」とした。
つまり、予見対象となる因果関係の基本的部分は「①ケーブルの誤接続→②電流状態の異常→③患者の身体に電流の作用による傷害のおそれ」と抽出・設定し、その予見可能性を肯定したのである。しかし、本件火傷は①’「安全装置のない心電計の併用による異常回路の発生」という部分が因果経過として重要で有り、電気関係の知識に乏しい看護婦にその具体的予見は困難であるとの批判(松宮)、因果関係の基本的部分の予見について、どの部分を認識対象とするのか、つまり被害や「因果関係の基本的部分」としてどのようなものをとりあげるか、によって、結論はどのようにでも動くとの批判(米田)など学説上批判が多い(松宮・「刑事過失論の研究」257頁以下参照)。なるほど。①と②の間に①’ 「安全装置のない心電計の併用による異常回路の発生」を考慮すると、批判にも一定の合理性があると思われる。しかしながら、被告人が電気メスの機械的メカニズム、異常回路発生の具体的知識がないとしも、被告人のいままでの経験にたっても、電気メスが、ケーブルの正常な接続により、「接触部位に高熱を発し肉体の一部を焼灼して凝固止血させもしくは切開する程の力を有すること」は認識ないし認識しえたわけであり、「それゆえ、もし電気手術器の機能に異常を生ずれば、本体からケーブルを経て患者の身体へ通ずる電流の状態に異常を生ずる可能性があり、その程度・態様によつては患者の身体に危害を及ぼす場合もありうることは認識可能の範囲内にあつた」以上、①’ 「安全装置のない心電計の併用による異常回路の発生」の予見がなくても、①②③の予見対象事実は、ケーブルが正常に接続されていたかを確認する結果回避措置を行って危険を排除する契機となる事実と評価すること自体、全く不合理なものとはいえないであろう(なお、①‘の部分を一種の介在事情とみることもできるかもしれないので、今日的視点では、ことは客観的な相当因果関係ないし客観的帰属論での吟味が必要であろう。)。もっとも、ちょっとした確認で重大な結果を防止得たという点で、実質、危惧感説的だとの理論的批判は十分可能であるが、一定限度、危惧感説的思考を具体的予見可能性説に取り込んだものという評価をすべきではなかろうか。