2020年1月の新型コロナウィルスの感染拡大にはじまり、4月の1回目の緊急事態宣言、明けて2021年1月7日、2回目の緊急事態宣言の発出となり、2021年も感染予防のための行動制限生活がつづくという状況である。
昨年の世界中のパンデミックによる混乱は、小松左京の「復活の日」を思わせるSF的な危機感を感じさせたが、1年経っての気の緩みからか、感染拡大の再来となっている。
マスク、手洗い消毒の日常が常態化した窮屈な生活がまた1年続くというのは、人々にいろんな意味でストレス、経済的打撃を与え、マイナスの影響が大きい。
また、感染拡大による医療の圧迫、崩壊の危険も無視し得ない。
しかし、感染予防と経済、どちらも救うという、よくいえばバランスを図る、悪く言えばいいとこどりは、感染拡大の「明白かつ現在の危険」の状況下では、経済的打撃をある程度甘受せざるを得ないであろう。そのフォローとしての補償や経済的援助はもちろんのこと、税金の減税や債務支払いの猶予(モラトリアム)も全国的政策としては必要である。
それでも、100%の経済的救済は難しいかもしれないが、「政治」は、コロナ収束後の、どういう「復興」政策、目標を提示するのか。首相の記者会見をみても、「国難を乗り越えて希望をもつ」説得的な印象は受けない。
100年に一度の「災難」にいま、いろんな意味で自由主義・民主主義を前提とする「政治」、個人・社会の「近代的価値観」が生存を脅かす不安・恐怖、同調圧力の中、試されている。
営業時間規制等行動制限違反の罰則による強制を歓迎する世論の動きは、その実効性がどこまであるのかといった合理性判断よりも、人々の不安、不平等意識解消といった社会心理的な「安心感」担保にウェイトがある。
その副作用、例えば警察による取締り目的の過度な介入、密告的な行動、「自粛警察」に見られる過度な同調圧力の拡大などにより、人々の生活は新たな不安に汲々とするかもしれないとの意識、目配りを忘れがちとなる。
緊急時の即時対応とともに、一見矛盾しているが、「前のめり」から一歩「引いた」思考を持つ癖も、もたないと「いきあたりばったり」では、ものごとの解決からは、かえって遠ざかるだろう。