音型(おんけい)が彫る -2ページ目

音型(おんけい)が彫る

私の名は、
雨垂れ石を穿つ音型

篆刻とか
書きものとか
掛け軸とか
小物作ったり
好きな時に好きな事をする
勝手気ままなブログです

甲骨文字百顆印 第七十一顆 / 白文・7mm角・新疆彩凍石


01 「雪」という文字について

     
意 味 ゆき
成り立ち 会意文字。『雨』と『ヨ(ほうき)』の組み合わせ。積もった雪を掃き清める意。甲骨文字の段階では雨の下に鳥の羽の象形で、水滴が羽のようにヒラヒラと舞い落ちる樣子を表していた。
部 首
現代漢字の畫數 11畫

甲骨文字の「雪」は、雨の下に鳥の羽がある形だったとされる。「羽」の回で鳥の羽の象形の話を書いたが、まさかその形が雪の表現にも使われていたとは思っていなかった。ヒラヒラと舞い落ちる雪の姿を、鳥の羽の動きで表した発想が美しい。現代字のほうきで掃き清めるという表現も素敵だが、甲骨文字の段階の方が詩的だと思う。


02 ほうきで掃き清めるという表現

現代の「雪」の下半分は、ほうきを表す「彗」が変化したものだとされる。

雪が降ると、あたり一面が白くなって清らかになる。その様子を、ほうきで掃き清めるという動作に重ねた。「掃」の回で神聖な場所をほうきで清めるという話を書いたが、雪が降ること自体がその清めの動作と同じ意味を持っていたということになる。

自然が大きなほうきで地上を一掃していく。そういうイメージが「雪」という一字に込められているとすれば、なかなか壮大な発想だ。


03 父と母がスキー場で出會った

雪という字を見て、スキーのことを思い出した。

父と母がスキー場で出會ったという話を聞いている。詳しい経緯は知らないが、当時はスキーが若い人たちの間でかなり流行っていた時代だったらしい。ゲレンデで出會って、仲良くなって、という流れだったのだろう。あの時代のスキー場がどんな雰圍氣だったのか、具體的には想像するしかないが、賑やかで楽しそうな氣がする。

その縁があったからこそ、小さい頃からシーズンになるとスキー場に連れて行ってもらっていた。ほぼ毎年行っていたと思う。行かない年があったかどうか記憶が定かではないが、「行かなかった年はなかったのではないか」というくらいの頻度だった。


04 スキー場の記憶

当時の記憶はおぼろげだが、雪山の空氣と光のことは覚えている。

晴れた日のゲレンデは、雪の表面がきらきらと光っていた。升った後の体の火照りと、冷たい外氣のコントラストが気持ちよかった。こけて雪まみれになっても、それはそれで楽しかった。

今はもうスキーをしていない。何年も行っていないので、今の自分が板の上に立てるかどうかも怪しい。でも、あの頃の記憶は体のどこかに残っているような氣がする。「復」の回で帰るべき場所があるという話を書いたが、スキー場もそういう場所の一つかもしれない。


05 人工雪は雪ではない氣がする

スキー場に人工雪が使われるようになって久しい。

でも、機械で作った雪は、空から降ってくる雪とは何かが違う。結晶の形が違うのかもしれないし、含まれているものが違うのかもしれない。あるいは、空から降ってくるという過程そのものに意味があるのかもしれない。うまく言えないが、人工雪はもう雪ではないという感覚がある。

「農」の回で人間が自然に過度に介入することへの違和感を書いたが、人工雪もそういう部類の話だと思っている。効率的で便利ではあるが、何かが失われている。


06 雪が降るとゴミが消える

今住んでいるところは海岸に近く、雪がほとんど降らない。

積もることもまれで、積もったとしても翌日には溶けていることがほとんどだ。だから雪が降ること自体が少し特別なことで、積もった翌朝の一面眞っ白な景色というのはそれだけで嬉しくなる。

そして、雪が積もると副産物として、ゴミが見えなくなる。毎朝続けているゴミ拾いも、雪の日は拾えるゴミがほぼなくなる。道に落ちているものが全部雪の下に埋もれてしまうからだ。これは「寶」の回でゴミ拾いの話を書いて以来ずっと感じていることで、雪が降った日の朝は地面がきれいに見えて、何となく嬉しい。

雪もほうきで掃き清めているのだと思うと、自分のゴミ拾いと同じことをより大規模にやっているということになる。


07 制作について

今囘も白文。字體は甲骨文字風で仕上げた。擊邊は入れた。彫る前に研いだ。

制作メモ

  • 印 式:白文
  • 字 體:甲骨文字風
  • 印 材:新疆彩凍石(7mm角)
  • 印 刀:刀匠印刀 三號(彫前に研磨)
  • 擊 邊:あり
  •  

     

甲骨文字の「雪」は雨の下に羽の形で、ヒラヒラと舞い落ちる様子を描いていた。その形を7mm角に收めた。「羽」の回で彫った形と近いものが今囘も登場したことで、字と字の間の繋がりを改めて感じた一顆になった。


08 甲骨文字百顆印 これから

七十一顆目で「雪」が加わった。

鳥の羽で雪を表した甲骨文字、ほうきで掃き清めるという詩的な表現、両親がスキー場で出會ったという記憶、ゴミが雪に埋もれる喜び。今囘も一字からいろんな景色が広がった。次の一顆も、楽しみながら彫っていく。

 

 

 

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漢字がすごいことになってるけど、いいですね(´艸`*)
 


#篆刻 #甲骨文字 #雪 #白文 #新疆彩凍石 #百顆印 #会意文字 #印章


 

甲骨文字百顆印 第七十顆 / 白文・7mm角・新疆彩凍石


01 「復」という文字について

     
意 味 もどる
成り立ち 形聲文字。『彳(道を行く)』と『复(ひっくり返した器を元に戻す)』の組み合わせ。出かけた道を再び戻る意。甲骨文字の段階では住居と足の記号の組み合わせで「家へ帰る」を直接描いたものだった。
部 首 彳(ぎょうにんべん)
現代漢字の畫數 12畫

「得」の回でも「德」の回でも彳が登場した。今囘で三度目だ。道を行くという動作が、様々な意味の字の根幹にある。得ること、德を積むこと、そして戻ること。同じ道を使いながら、方向や目的が変わる。


02 ひっくり返した器を元に戻す

「复」という音符の部分が面白い。

ふっくらとした酒壺を逆さまにした形と、下向きの足の象形から成り立っているとされる。ひっくり返ったものを元の状態に戻す、というニュアンスを持っている。それに道を行くという彳が加わって、出かけた道をもう一度辿って戻る、という意味になった。

往路と復路。行きと帰り。一度外側に出たものが、元の場所へ戻ってくる。「繼」の回で絲をぐるぐる囘すという話を書いたが、復も一種の循環だと思う。


03 甲骨文字では家に帰ることだった

甲骨文字の段階では、住居を示す記号と足の組み合わせだったとされている。

「家へ帰る」という動作をそのまま描いた形だ。出かけた先からまた家に戻ってくる。それ以上でも以下でもない、シンプルな意味だ。「宿」の回で家という場所の話を書いたが、帰るべき場所があるということは、それだけで安心感の源になる。

時代が下るにつれて意味が抽象化されて、「ふたたび」「繰り返し」という概念が加わっていった。家へ帰るという具体的な動作から、元に戻るという普遍的な意味に育った。

 


04 手を上げて下山したら熊除けと間違われた

「復」といえば復路、登山でいえば下山だ。

以前、手を頭の上に挙げて下山すると膝への負擔が軽くなるという話を聞いた。試してみた。確かに何となく楽な氣がした。ただ、下山途中ですれ違った登山者から「熊ですか?!」と訊かれた。

つまり、熊が近くにいるから自分を大きく見せて退散させようとしているのだと思われたようだ。確かに、両手を頭の上に挙げて歩いている人間を見たら、そう解釋するのが自然かもしれない。特に山の中では、そういう場面はあり得る話だ。

慌てて「いえ、膝のためです」と説明したが、相手の表情は少し釈然としない様子だった。紛らわしいことこの上ないので、その方法はそれ以来やめている。

 


05 膝を一センチ下げる下り方

熊と間違われる方法はやめて、別のことを試してみた。

下り道で、膝の位置を地面に向かって一センチだけ近づけることを意識する。たったそれだけだが、やってみると不思議と楽に下山できる。膝が曲がるタイミングや重心の位置が微妙に変わるのだろうか。詳しいことはわからないが、体が楽だと感じるので今も続けている。

喜んで母に伝えた。でも母には效果がなかったようだ。感想を聞いたら、「あまり変わらなかった」とのことだった。もしかすると、僕の體の構造や歩き方に特化した方法なのかもしれない。万人に通じる技術かどうかは、引き続き検證が必要だ。


06 下山が苦手な理由

登山をしていると、下山の方が体への負擔が大きいということを痛感する。

登りは心肺に負擔がかかるが、下りは関節、特に膝に来る。同じ距離でも、筋肉の使い方がまったく違う。登りで疲れ果てた状態で、膝をかばいながら長い距離を下りてくる。それが登山の後半をきつくする一因だ。

「歩」の回で片道4kmを歩く話を書いたが、平地を歩くのと山を下るのとでは体への影響がまったく異なる。それを少しでも楽にする方法を探すのは、山に通い続けるための実際的な問題だ。


07 家へ帰るという安心感

甲骨文字の「復」が「家へ帰る」という動作から来ているという話に戻ると、下山してから麓に降りてくる感覚と重なる部分がある。

山の中では、自分が普段いる場所とは別の世界にいる感覚がある。下山して、舗装された道に出て、街が見えてきた時の「帰ってきた」という感覚。「夢」の回で屋久島の森の中で時間の感覚が変わるという話を書いたが、その逆の、現実に引き戻されてくる感覚だ。

帰るべき場所があるということは、出かけることができるということでもある。復路があるから往路がある。


08 以前のシリーズで彫ったかと思ったら勘違いだった

今囘彫る前に、以前の百顆印シリーズで「復」を彫った氣がして調べてみた。

往復という字を彫っていたかもしれないと思ったが、調べたら彫っていなかった。記憶違いだった。

これはこれで面白い話で、記憶というのは意外とあてにならない。確かに彫った氣がしているのに、記錄には残っていない。「新」の回で過去の事實を正確に把握できているかという話を書いたが、自分の記憶についても同じことが言える。


09 制作について

今囘も白文。字體は甲骨文字風で仕上げた。擊邊は入れた。彫る前に研いだ。

制作メモ

  • 印 式:白文
  • 字 體:甲骨文字風
  • 印 材:新疆彩凍石(7mm角)
  • 印 刀:刀匠印刀 三號(彫前に研磨)
  • 擊 邊:あり
  •  

     

彳と复という二要素を7mm角に收めた。「德」の回でも彳が登場したが、今囘は方向が戻る側だ。往路と復路、行くことと戻ること。その両方が彳という一つの部首を共有しているというのが、彫りながら興味深かった。


10 甲骨文字百顆印 これから

七十顆目で「復」が加わった。全體の七割だ。

熊と間違われた下山法、膝一センチの発見、家へ帰るという甲骨文字の起源、記憶違いの話。今囘も一字からいろんな方向に転がった。残り三十顆、引き続き楽しみながら彫っていく。

 

 

 

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振り返りながら戻ってますね、、、(´艸`*)

 


#篆刻 #甲骨文字 #復 #白文 #新疆彩凍石 #百顆印 #形聲文字 #印章


 

甲骨文字百顆印 第六十九顆 / 白文・7mm角・新疆彩凍石


01 「射」という文字について

     
意 味 いる・うつ
成り立ち 會意文字。弓に矢をつがえて放つ樣子をそのまま描いたもの。後の時代に、本来は無關係だった「身」という字に誤って変化してしまったとされる。
部 首
現代漢字の畫數 10畫

漢字の歷史の中で、誤って変化することがあるというのは今囘初めて知った。「暮」の回で原字が別の意味に転用されて新しい字が派生した話を書いたが、あれは意図的な変化だった。「射」は意図せず別の字に似た形に変わってしまったという、アクシデント系の変遷だ。


02 誤って変化するということ

甲骨文字の「射」は弓・矢・手という三要素から成り立っていた。

それが時代を経るうちに、本来まったく無關係だった「身」という字に似た形へと変化してしまった。「身」は腹に子を宿した女性の形を表す字で、射るという動作とは何の繋がりもない。でも字形が似てきたため、現代の「射」は身を部首とする字になった。

字形の類似から誤った方向に変化してしまうというのは、情報の伝言ゲームに似ている。「傳」の回で口傳でしか伝わらないものがあるという話を書いたが、文字も書き継がれる中で少しずつ形が変わっていく。それが意図しない方向に向かうこともある。正確に受け継ぐことの難しさは、文字の世界も同じだ。


03 射止めるという言葉

射るという動作から派生した言葉に、射止めるというものがある。

恋愛の文脈でよく使われる。ハートを射止める、というやつだ。矢を放って的に命中させる、という動作が、相手の心を捕らえるという意味に転じている。

ハートは心で、「宿」の回で書いた肉体の中に宿るエネルギー体を指しているのだろう。矢が刺さって釘付けになり、動けなくなってしまう。その状態から来ているとすれば、恋愛というのは本質的に狩りに近いのかもしれない。素直に言葉を受け取ると、かなり物騒な表現だ。


04 流鏑馬という難技

射るといえば、流鏑馬を思い浮かべる。

馬を全速力で走らせながら、三か所の的を次々に弓矢で射るという神事だ。実際に生で見たことはないが、映像を見るだけで迫力が伝わってくる。弓を引くだけでもかなりの力と技術が必要なのに、そこに馬の動きと速度が加わる。体のバランスを保ちながら、走る方向を向いて的を狙う。どこをどう鍛えればそれができるようになるのか、想像がつかない。

神事として受け継がれてきたという点でも興味深い。弓矢と神の繋がりという意味では、後で書くアイヌの話とも重なる部分がある。


05 アイヌの文化と弓

最近読んだ本に、アイヌの文化が細かく描かれていた。

生活の道具として弓と小刀が登場していた。現代では考えにくい話だが、ヒグマを矢で射るという場面も描かれていた。大型の野生動物に対して弓矢という道具で向かっていくというのは、相当な技術と度胸と、それ以上に熊との向き合い方の知恵が必要だったはずだ。

アイヌの文化の根底にあるのは、全てのものに神が宿るという考え方だ。カムイという概念で、自然のあらゆるものに精霊や神性を見出す。熊も、木も、川も、火も、道具さえも、それぞれにカムイが宿っている。だから熊を射ることは、単なる狩猟ではなく、カムイを丁重に送り返す儀式でもあった。


06 全てのものに神が宿るという考え方

全てのものに神が宿るという発想は、正直なところ当たっていると思う。

「禮」の回で神への供え物の話を書いたし、「鳴」の回で白川靜博士の神意を伝える鳴き声の話を書いた。古代の人々は、自然の中に絶えず神の存在を感じていた。それを迷信として退けることは簡単だが、そこに積み重ねられた観察と畏敬の感覚は、現代の科學では測れない部分を持っている。

アイヌに限らず、世界中の先住民の文化には、自然とのそういった関係性が共通して見られる。それが現代化の波の中で失われていっているというのは、何かが根本から変わってしまっているのだと思う。


07 失われていく文化のこと

アイヌの文化が少なくなっているというのは、様々な意味で惜しい。

言語が失われると、その言語でしか表現できなかった概念も一緒に消える。儀式が失われると、その儀式の中にあった知恵も一緒に消える。「新」の回で歷史の書き換えの話を書いたが、文化の消滅も別の形の上書きだと思う。残っているものを記録して学ぶことと、生きた文化として受け継いでいくことの間には、大きな差がある。

弓矢でヒグマに向かった人々の知恵と勇氣は、記録の中にしか残らなくなっていく。それでも、誰かが読んで、感じて、伝えていくことに意味がある。


08 制作について

今囘も白文。字體は甲骨文字風で仕上げた。擊邊は入れた。彫る前に研いだ。

制作メモ

  • 印 式:白文
  • 字 體:甲骨文字風
  • 印 材:新疆彩凍石(7mm角)
  • 印 刀:刀匠印刀 三號(彫前に研磨)
  • 擊 邊:あり
  •  

     

弓・矢・手という三要素を7mm角に収めた。甲骨文字の段階では弓矢の形がそのままあったが、それを小さな印面に表現するのが今囘の工夫どころだった。誤って変化してしまう前の形を彫っているという意味で、原点に近い一顆になったと思っている。


09 甲骨文字百顆印 これから

六十九顆目で「射」が加わった。

誤って変化した字の歷史、射止めるという言葉の物騒さ、流鏑馬の迫力、アイヌの弓と全てのものへの神性、失われていく文化。今囘は一字からずいぶん遠いところまで旅した。次の一顆も、丁寧に向き合っていく。

 

 

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矢が、、、羽が、、、www

 


#篆刻 #甲骨文字 #射 #白文 #新疆彩凍石 #百顆印 #會意文字

甲骨文字百顆印 第六十八顆 / 白文・7mm角・新疆彩凍石


01 「面」という文字について

     
意 味 かお・おもて
成り立ち 象形文字。顔の輪郭を枠で囲み、その中に目を配置した形。古代の人は目から表情や顔色を讀み取っていたため、目が顔の中心として描かれた。そこから「おもて」「表面」「物事の側面」へと意味が派生した。
部 首
現代漢字の畫數 9畫

顔という複雜な部位を表現するのに、輪郭と目だけで十分だったというのが面白い。鼻も口も耳も省かれて、目だけが残る。それが「面」になった。目は口ほどに物を言う、という表現があるが、古代の人々にとっても目が顔の本質だったのだろう。


02 面が割れる、という表現

刑事ドラマで「面が割れる」という言葉が出てくる。

正体がバレる、という意味で使われる表現だ。顔が知られてしまうと、身分や素性が露見する。「面」という字が顔の本質を表しているとするなら、面が割れるというのは、最も隱したいものが見えてしまうという話になる。

表面という意味でも「面」は使われる。物事の表面だけを見ていると、本質が見えない。面が割れていない状態とも言えるかもしれない。「鑄」の回で一次情報まで遡ることの大切さを書いたが、面の裏側まで見ようとすることも、同じ方向の話だと思う。


03 矯正をやめた経緯

目が悪い。でも矯正をしていない。

コンタクトやメガネをしていた時期はある。でもある時期から、目に余計な負擔をかけているのではないかという氣がしてきて、外してしまった。度の入ったレンズを通して世界を見ることへの違和感というか、それが本當に自分の目なのかという感覚が生まれてきた。

外した直後はもちろん見えにくい。でも、しばらく経つと、見えなくてもそれほど困らないということがわかってきた。遠くの人の顔や細かい表情は讀めない。でも、それで日常生活にそれほど支障はない。

たまに、見える前提で話をされることがある。すみません、見えませんと言うと、矯正するよう促される。しないんですけどね、と思いながら聴いている。


04 見え過ぎると左腦が動く

矯正をやめてみて、一つ氣づいたことがある。

見え過ぎると、かえって思考が回るということだ。

細部までくっきり見えると、情報量が增える。看板の文字、遠くの人の表情、細かい凹凸。それらが全部意識に入ってくると、左腦がせっせと處理を始める。分析して、比較して、判斷して。そのループが止まらなくなる。

「飮」の回で左腦ではなく右腦で感じることの話を書いたが、视覺情報の量が減ると、その切り替えがしやすくなる氣がしている。見えないことで、外から入ってくる情報が減る。その分、内側からの感覚に意識が向きやすくなる。


05 右腦中心でやっていきたい

右腦中心で生きていきたいというのが、今の自分のスタンスだ。

直感、感覚、氣配。言語化される前の情報を大事にしたい。左腦はそれを言葉に変換して整理しようとするが、その過程でこぼれ落ちるものがある。「聽」の回で耳だけでなく目と心で聴くという話を書いたが、右腦で感じるというのはそれに近い。フィルターを通さずに受け取る、という状態に近いかもしれない。

矯正をやめたことで、左腦の出番が少し減った。都合がよかった、という言い方もできる。意図したわけではないのに、結果として自分の方向性と合っていた。こういうことは割とよくある。


06 目が顔の中心だった

「面」の成り立ちに戻ると、顔の輪郭の中に目だけが描かれている。

鼻も、口も、眉も省かれている。それでも顔として認識できるのは、目が顔の中で最も情報量が多い部位だからだと思う。喜怒哀樂が最もよく現れる場所が目だという感覚は、古代の人々も持っていたということだ。

眼科医でも整体師でも、目を見て状態を判斷するという話を聞くことがある。瞳の状態、白目の色、目の開き方。目は全身の状態を映す鏡でもあるらしい。輪郭の中に目だけを置いた古代の「面」という字は、案外深いところを捉えていたのかもしれない。


07 制作について

今囘も白文。字體は甲骨文字風で仕上げた。擊邊は入れた。彫る前に研いだ。

制作メモ

  • 印 式:白文
  • 字 體:甲骨文字風
  • 印 材:新疆彩凍石(7mm角)
  • 印 刀:刀匠印刀 三號(彫前に研磨)
  • 擊 邊:あり
  •  

     

顔の輪郭の枠の中に目を配置するというシンプルな構成を7mm角に收めた。枠の大きさと目の配置のバランスが工夫どころで、「面」らしさが伝わる配置を意識した。


08 甲骨文字百顆印 これから

六十八顆目で「面」が加わった。

面が割れる、矯正をやめた経緯、見え過ぎると左腦が動く、右腦中心の生き方、目が顔の本質だった話。一字から視覺と思考と感覺の話が展開した。次の一顆も、右腦で感じながら向き合っていく。

 

 

 


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・・・なんでそうなった・・・(;^ω^)
 


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甲骨文字百顆印 第六十七顆 / 白文・7mm角・新疆彩凍石


01 「友」という文字について

     
意 味 とも
成り立ち 象形文字。二つの右手を並べた形。二人が手を取り合ったり、神に誓いを立てたり、協力し合う樣子から「仲間」「親しい人」を意味するようになった。
部 首
現代漢字の畫數 4畫
甲骨文字の畫數 4畫ほど

4畫というのはこのシリーズの中でも最も少ない部類だ。「自」も「正」も3畫ほどだったが、「友」も同じくらいシンプルな構成だ。右手と右手が重なって友になる。說明するより字形を見た方が早いという、直接的な象形の典型だと思う。


02 右手と右手が重なって友になった

甲骨文字の「友」は、同じ方向を向いた二つの右手が重なり合う形から来ている。

AさんとBさんが向き合っているのではなく、横に並んでいるというのがポイントだ。向き合っているとどうしても對立の氣配が生まれるが、横に並んでいると同じ方向を見ているという感覚になる。その方が友情らしいと思う。一方が他方の右手に手を重ねる、あるいは支えるという配置だ。

右手と右手が重なると「友」になったのは、何か特別な意圖があったのかもしれないし、単純に当時の人が自然にそう書いたのかもしれない。考え過ぎの可能性もあるが、どちらにしても面白い。


03 友達って必要なのだろうか

最近よく考えることがある。友達というものは、自分に必要なのだろうか、という問いだ。

大勢で集まってワイワイすることが本当に楽しいのかというと、正直なところよくわからなくなってきた。人が多く集まるほど、それぞれの違いによって意見が分かれたり、見えない摩擦が生まれたりする。楽しい時間もあるが、消耗する時間もある。

ここ數年、人が集まる場にはほとんど顔を出していない。疎遠といえば疎遠だが、自分から選んでそういう状態にしてきたという感覚がある。


04 必要最低限の接點で十分

アルコールを摂取していないので、飲み会はことごとく斷っている。

これは意志の問題ではなく、単純に楽しくないからだ。飲まない人間が飲み会にいると、場の空氣と自分の状態が合わないことが多い。「浴」の回でアルコールを取らなくなった話を書いたが、あれ以来飲み会という場がどんどん遠くなっていった。

今の人付き合いは、必要最低限の接點で成り立っている。それが氣楽で、会いたいと思わないのでこちらから連絡することもない。会いたい人ができた時は、自分で調べて会いに行くつもりでいる。「率」の回で三人いるとソワソワするという話を書いたが、そういう感覚は今も変わっていない。


05 分斷という問題

ただ、人と人が繋がることには、とんでもないパワーがあると思っている。

手と手が重なると友になる、という字の起源は、二人が力を合わせることの強さを示している。それは神への誓いにもなり得るし、互いを支え合う基盤にもなる。一人ではできないことが、二人になるとできるようになる。

だからこそ、今の時代はわざと分斷させられているのではないかという氣がしている。「象」の回でゾウの鎖の話を書いたし、「幸」の回でみんなでそっと離れましょうという話をした。鎖は物理的なものだけでなく、人と人の繋がりを断ち切ることでも機能する。孤立した個人は、集まった人間よりずっと動かしやすい。


06 手が届く範囲の人と繋がる

では、どうするか。

遠くの多くの人と繋がろうとするより、今身近にいる手が届きそうな人と繋がっておく方がいいと思っている。一人でもいい。二人でもいい。本當に信頼できる人との繋がりは、數より質だ。

「系」の回で途切れた糸を手繰り寄せるという話を書いたが、友という字が手と手を重ねる形から来ているのと、感覚として近いものがある。手を伸ばして届く場所にいる人に、繋いでおく。それが今後きっと役に立つ時が来る。今はわからなくても、繋がっていたということが意味を持つ瞬間が来ると思っている。


07 對面ではなく横並びという關係

横に並んでいるというのが、友という字の構造だということは、もう少し掘り下げると面白い。

對面は議論や交渉の配置だ。向き合って、それぞれの主張を出し合う。でも横に並んでいると、同じ景色を見ている。同じ方向を向いている。そこに自然と共感が生まれやすい。

「鼓」の回で力を抜くことの話を書いたが、友關係も力を抜いた状態が続く方が長持ちする。向き合って何かを決めようとする關係より、横に並んで同じものを見ている關係の方が、結果的に深くなっていく氣がする。


08 制作について

今囘も白文。字體は甲骨文字風で仕上げた。擊邊は入れた。彫る前に研いだ。

制作メモ

  • 印 式:白文
  • 字 體:甲骨文字風
  • 印 材:新疆彩凍石(7mm角)
  • 印 刀:刀匠印刀 三號(彫前に研磨)
  • 擊 邊:あり
  •  

     

4畫というシンプルな構成を7mm角に収めた。二つの右手が重なる形を、どう表現するかが工夫どころだった。シンプルすぎる字は余白の取り方が印象を決める。手が重なっている感覚が伝わる配置を意識した。


09 甲骨文字百顆印 これから

六十七顆目で「友」が加わった。

友達は必要かという問い、分斷という構造、手が届く範囲で繋ぐこと、横並びという關係の本質。一字から自分の人付き合いの在り方を改めて考えることになった。甲骨文字百顆印は、彫りながら自分の輪郭を確認する作業でもある。


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手とか、指とか苦手のようですね・・・(;^ω^)
 


 

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甲骨文字百顆印 第六十六顆 / 白文・7mm角・新疆彩凍石


01 「德」という文字について

     
意 味 よい行い
成り立ち 會意文字。『彳(進む)』と『直(まっすぐな目)』と『心』の組み合わせ。まっすぐな心を持って正しい道を進む、という意味から人德・道德を表す漢字になった。
部 首 彳(ぎょうにんべん)
現代漢字の畫數 14畫

彳・直・心という三要素が揃って「德」になる。「得」の回で彳が十字路の左側を表すという話を書いたが、今囘もこの部首が登場した。道を進む、という動作が「德」の根幹にある。進む方向と、進む時の心の状態と、見ている目。それが全部揃って初めて德ということになる。


02 逆にすると怨になる

成り立ちを知って、面白いことに氣づいた。

まっすぐな心で正しい道を進むのが「德」なら、邪な心を持って惡しき道を進むとどうなるか。「怨」になるという。

德と怨は表裏一体だ。同じ構造の正反対にある。まっすぐさが曲がり、心が歪むと、德が怨に変わる。これは字の話だけではなく、人間の状態としてもそのまま当てはまる。德のある人が急に怨みの人になるわけではなくて、少しずつ方向がずれていくのだろうと思う。


03 德を積んでいるのだろうか

彫りながら、自分はちゃんと德を積めているのだろうかと考えた。

德というのは、自我を捨てて人のために行うことだとされる。見返りを求めない行爲、承認を必要としない善行。それが德の本質だとすれば、自分がやっていることがそれに当たるかどうか、正直なところ自信がない。

毎朝のゴミ拾いは、「寶」の回でも書いた通り、今も続けている。自分なりに気持ちよくやっているが、その行爲によって何か氣持ちいい感覚を得ているとしたら、それは完全な無私とは言えないのかもしれない。やっていること自體は同じでも、動機の純粋さの問題が残る。


04 3S欲求の話

「得」の回で所有・承認・支配という三つの欲求について書いた。その時は3S欲求と名付けた。

德を積む話をしていると、この3S欲求が邪魔をする。人のために何かをしながら、承認されたい氣持ちがどこかにある。所有したい氣持ちが行動を歪める。支配したい氣持ちが相手への押しつけになる。これらが少しでも殘っているうちは、完全な意味での德にはならないということだ。

全部取り除くことができるのかというと、正直なところ難しい。人間である以上、何かを望む氣持ちは消えない。ただ、それを自覺していることと、まったく氣づいていないことの間には大きな差がある。自覺した上で、できる限り方向を整えていく、という積み重ねが、德に近づく道なのかもしれない。


05 不德の致すところ、の誤用

「不德の致すところ」という表現がある。

謝罪やお詫びの場面でよく使われる言葉だが、実は使い方に誤りがある場合が多いらしい。この表現は自分自身の行爲の至らなさを指すものであって、他者の行爲や出來事に対して使うのは誤用だという。

「貴方の不德で事件が起きた」という言い方はできない。あくまで「私の不德の致すところ」というように、自分に向けて使う言葉だ。知らなかった。日常的によく耳にする表現でも、こういう落とし穴があることがある。「鑄」の回で一次情報まで遡る話を書いたが、言葉の使い方にも同じことが言える。


06 彳という部首との再會

「德」の部首である彳(ぎょうにんべん)は、「得」の回でも登場した。

「得」は十字路の左側を歩きながら価値あるものを手にするという成り立ちだった。「德」は同じ彳を持ちながら、進む方向が目と心によって決まるという構造だ。同じ部首でも、組み合わさるものによって意味がまるで変わる。

道を進む、という動作は同じでも、何を得るために進むのかと、どんな心で進むのかでは、辿り着く場所が違う。「德」と「得」は、方向が近いようで、実は全然違う話をしている。


07 まっすぐな目で見るということ

「直」という字には、まっすぐな目という意味がある。

物事をありのままに正しく見つめる、という意味だ。これが「德」の構成要素の一つになっている。先入觀なく見る、感情に流されずに見る、自分の都合で歪めずに見る。そういう目の在り方が、德ある行動の前提になっている。

「鳴」の回で意識を向けると見えてくるという話を書いたが、まっすぐに見るということはその逆で、余分なものを取り除いて見るということだ。見えすぎることも、見えなさすぎることも、直ではない。ちょうどいい見方というのが、德への道の入り口なのかもしれない。


08 制作について

今囘も白文。字體は甲骨文字風で仕上げた。擊邊は入れた。彫る前に研いだ。

制作メモ

  • 印 式:白文
  • 字 體:甲骨文字風
  • 印 材:新疆彩凍石(7mm角)
  • 印 刀:刀匠印刀 三號(彫前に研磨)
  • 擊 邊:あり
  •  

     

彳・直という要素を7mm角に収めた。


09 甲骨文字百顆印 これから

六十六顆目で「德」が加わった。

德を積んでいるかという問い、3S欲求との葛藤、不德の誤用、彳との再會、まっすぐな目の話。一字を掘り下げるたびに、自分の行動を見直す時間になる。甲骨文字百顆印はそういう意味でも、続ける價値のある作業だと改めて思っている。

 

 

 

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習字うまいですね・・・(;^ω^)

お、、、おだんご、、、?
 


#篆刻 #甲骨文字 #德 #白文 #新疆彩凍石 #百顆印 #會意文字 #印章


 

甲骨文字百顆印 第六十五顆 / 白文・7mm角・新疆彩凍石


01 「衆」という文字について

     
意 味 おおい
成り立ち 會意文字。三人が集まる形。甲骨文字では太陽(または城壁)の下に三人が並んで集まっている樣子を描いたもの。時代を経て現代の字形に変化した。
部 首
現代漢字の畫數 12畫
甲骨文字の畫數 8畫ほど

「众」という異體字がある。三つの「人」が集まった形で、これ以上ないほど直接的な表現だ。三人集まると多くなるという発想は、「森」の回で木が三つ重なると数え切れないほどになるという話を書いたのと同じ構造だ。古代の文字では、三つ重ねることで「たくさん」を表すパターンがあちこちに出てくる。


02 身近なところに衆がいた

「衆」という字を見た瞬間に、いくつかの言葉が浮かんだ。

烏合の衆。まとまりのない集団を指す言葉で、なんとなく失礼な響きがある。皆の衆。こちらは時代劇などで耳にする親しみやすい呼びかけだ。衆議院。日本の立法機關の一つで、これはかなり日常的に使われる言葉だ。合衆國。アメリカ合衆國の「衆」もこれだ。

こうして並べてみると、かなり身近なところで使われている字だということがわかる。でも、字そのものの意味を意識したことはほとんどなかった。


03 日本獨自の用法を知らなかった

今囘調べていて、知らなかった用法が一つあった。

「衆」には日本獨自の使い方として、複數の人への敬稱という意味があるらしい。「皆の衆」の「衆」が、単に多いという意味だけでなく、複數の人に対する尊重の氣持ちを含んでいるということだ。

日常の話し言葉で使うことはほとんどないので、意識したことがなかった。でも、そういう意味が含まれているというのは、「禮」の回で書いた相手への敬意という話とも重なる。言葉の中に、敬意が込められていたのだ。


04 太陽の下か、城壁の下か

今囘一番引っかかったのが、甲骨文字の上の部分が何を表しているかという點だ。

太陽という說と、城壁・囲いという說がある。どちらを取るかで、情景がまったく違ってくる。

太陽の下に三人が集まっているとすると、炎天下で働いている情景だ。今だったら「熱中症になるからやめとけ」と言いたくなる状況だが、古代においては屋外での集團作業が日常だったのだろう。炎天下で汗を流しながら労働する人々の姿が「衆」の起源というのは、ずいぶんリアルだ。

城壁という說の方は、囲まれた空間の中に人々が集まっているイメージだ。城壁というより間仕切り、あるいは囲いと考えると、今に置き換えやすくなる。


05 四疊半に三人は少しきつい

間仕切りの中に三人、という解釋をもう少し現代に引き寄せてみた。

今の最小單位でいえば、部屋だろうか。部屋の中に三人が集まれば、小さな「衆」が成立するということになる。六疊の部屋なら一人あたり二疊分のスペースが確保できるので、まだ余裕がある。ただ、四疊半に三人となると、一人あたり一疊半しかない。これはかなりきつい。

解釋が合っているかどうかはわからないが、面積で考えてみると急に具體的になって面白い。


06 烏合の衆という言葉について

烏合の衆、という言葉について少し考えた。

烏、つまりカラスが集まっても統制がとれない、という比喩から来ている言葉だ。多くの人が集まっても、目的やまとまりがなければ意味がないという意味だ。

「率」の回で人を率いることが苦手という話を書いたし、「盟」の回で同盟より棲み分けという話を書いた。烏合でもいい、という感覚が個人的には少しある。まとまりがなくてもそれぞれが自分の場所で動いていれば、それはそれで一つの形だと思っている。


07 制作について

今囘も白文。字體は甲骨文字風で仕上げた。擊邊は入れた。彫る前に研いだ。

制作メモ

  • 印 式:白文
  • 字 體:甲骨文字風
  • 印 材:新疆彩凍石(7mm角)
  • 印 刀:刀匠印刀 三號(彫前に研磨)
  • 擊 邊:あり
  •  

     

上の部分が太陽なのか城壁なのかという疑問を持ちながら彫った。どちらを意識するかで、印面の重心が変わってくる氣がした。三人の人の形をどう表現するかが今囘の工夫どころで、三者が均等に並ぶバランスを意識した。


08 甲骨文字百顆印 これから

六十五顆目で「衆」が加わった。

烏合の衆から合衆國まで、皆の衆への敬意、炎天下の労働者、四疊半の密度計算。今囘も一字からいろんな方向に話が広がった。次の一顆も、自分のペースで向き合っていく。

 

 

 

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民家の壁に・・・(;^ω^)

 


#篆刻 #甲骨文字 #衆 #白文 #新疆彩凍石 #百顆印 #會意文字 #印章


 

甲骨文字百顆印 第六十四顆 / 白文・7mm角・新疆彩凍石


01 「鼓」という文字について

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意 味 つづみ
成り立ち 會意文字。太鼓の象形(壴)と手で棒を持って打つ動作(攴)の組み合わせ。太鼓を打ち鳴らす樣子がそのまま文字になっている。そこから鼓舞するという意味にも廣がった。
部 首
現代漢字の畫數 13畫

太鼓と打つ動作を組み合わせた、とてもわかりやすい會意文字だ。楽器を鳴らして神を祀ったり、戰場で兵を奮い立たせたりする場面から生まれた字で、「鼓舞」という言葉もここから来ている。音を出すという行爲が、神聖な儀式とも鼓舞とも結びついていたというのは、「禮」の回で甘酒を神に捧げる話を書いた流れと重なる氣がする。


02 逆に彫ってしまった

最初に白状しておく。

今囘、參考にしたアプリの字形が左右反轉していたらしく、逆に彫ってしまった。彫り終えてから氣づいた。どうりで何か引っかかると思いながら彫っていたのだが、確認が甘かった。

まぁ、そういう時もある。完璧を目指さないことがこのシリーズの方針でもある。逆向きの鼓もまた、この百顆印の一部だ。


03 舌鼓を打つ機會は少ない

舌鼓を打つ、という言葉がある。美味しいものを食べた時の感嘆を表す表現だ。

ただ、最近は舌鼓を打つような場面がかなり少ない。食べるものをかなり絞っているからだ。「養」の回でビーガン生活の話を書いたが、現在は魚・肉・卵・乳製品・小麥・油・砂糖・食品添加物を拔いた生活を続けている。素材の味が中心になるので、必然的にシンプルな味わいになる。

それでも、空腹の時に食べるものは美味しい。どんなにシンプルな食材でも、腹が減っていると格段に旨く感じる。そして食べられること自體に感謝している。これは「賜」の回で書いた、受け賜ることへの感謝と同じ感覚だ。


04 鼓舞することについて

鼓舞する、という言葉はたまに使う。

自分を奮い立たせる時だ。新しいことを始めようとする時、一歩踏み出すのに少しだけ躊躇する瞬間がある。そういう時に、内側から背中を押すような氣持ちが必要になる。鼓舞というより、軽い自己暗示に近いかもしれない。

「翌」の回で蛹から蝶への羽化の話を書いたが、殼を破るためのひと押しというのは、いつになっても要る氣がする。慣れてきても、全く要らなくなることはない。


05 ドラムで手が血だらけになった

昔、ドラムを叩いていた時期がある。

バンドに参加して、しばらく叩いていた。大きな音を出すことの氣持ちよさというのは、やってみて初めて知った感覚だった。ドラムは体全体を使う楽器で、腕だけでなく足も同時に動かす必要がある。音の大きさと、体から出るエネルギーが直接つながっている感じが面白かった。

ただ、当時はかなり力み過ぎていた。スティックを握る力が強すぎて、すぐに手に豆ができた。豆ができた段階で止めればよかったのだが、構わず叩き続けていたら潰れて血が出た。練習の後、スティックが赤くなっていたのを覚えている。

今思えば、もっと脱力して叩けばよかった。力を込めるより、力を抜く方が遠くまで音が飛ぶし、長く叩き続けられる。あの頃の自分に教えてあげたい。


06 力みと脱力の話

ドラムの話から、力みと脱力について考えることがある。

篆刻も同じかもしれない。印刀を持つ手に力が入りすぎると、線が荒れる。石の抵抗に逆らうように彫ろうとすると、刃先がブレる。軽く持って、石の感触に従うように彫った方が、かえって細かい部分がきれいに出る。

ドラムで学んだことを、彫ることで再確認している感じがある。「繼」の回で続けると楽しくなるという話を書いたが、技術的なことも続けることで体得されていく部分がある。頭で理解するより前に、手が覚えていく。


07 和太鼓への興味

和太鼓にも興味がある。

ドラムとは全く別物だと思っているが、大きな太鼓を体全体で打つというのがどういう感覚なのか氣になっている。和太鼓の演奏を見ていると、打ち手の表情と体の使い方に独特の迫力がある。音楽というより、儀式に近い雰圍氣がある。「鼓」の字の起源が神を祀る場面から来ているというのは、あの雰圍氣と確かに重なる。

機會があれば、一度叩いてみたい。


08 制作について

今囘も白文。字體は甲骨文字風で仕上げた。擊邊は入れた。彫る前に研いだ。

制作メモ

  • 印 式:白文
  • 字 體:甲骨文字風
  • 印 材:新疆彩凍石(7mm角)
  • 印 刀:刀匠印刀 三號(彫前に研磨)
  • 擊 邊:あり
  • 備 考:左右反轉して彫ってしまった
  •  

     

太鼓と打つ動作という二要素を7mm角に收めた。そして冒頭に書いた通り、參考にしたアプリの字形が左右反轉していたため、逆に彫ることになった。結果として、鏡像の鼓ができ上がった。これも記録として残しておく。


09 甲骨文字百顆印 これから

六十四顆目で「鼓」が加わった。

逆に彫ったこと、ドラムの血豆の記憶、力みと脱力の話、和太鼓への憧れ。ミスも含めて全部このシリーズの一部だ。次の一顆も、力を抜いて向き合っていく。

 

 

 


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素敵です・・・(´艸`*)
 


#篆刻 #甲骨文字 #鼓 #白文 #新疆彩凍石 #百顆印 #會意文字 #印章


 

 

甲骨文字百顆印 第六十三顆 / 白文・7mm角・新疆彩凍石


01 「正」という文字について

     
意 味 ただしい・ただす
成り立ち 會意文字。城壁で囲まれた都市(囗)に足(止)を向けて進む樣子を表した文字。元々は「征伐・攻める」という意味だったが、勝者の論理として「これが正しい姿」となり、「ただしい」という意味へ轉じた。
部 首
現代漢字の畫數 5畫
甲骨文字の畫數 頑張れば3畫ほど

「武」の回で戈を止めることが武だという解釋の話を書いたが、「正」も同じように、元の意味と現代の意味がずいぶん遠いところにある。攻め込んで征服することが、なぜ「ただしい」になったのか。その轉換の背後に、勝者が歷史を書くという構造があった。


02 正しさの起源が征伐だった

城壁に向かって足を踏み出す。他の集落や國を攻め、征服する。その行爲が「正」の起源だ。

攻め込んだ側が「これが正しいあり方だ」と宣言することで、征伐という暴力的な行爲が「正義」として定着していく。勝った側の論理が正しさになる。「新」の回で歷史は勝者によって書かれるという話を書いたが、「正」という字の成り立ちはそれを一字で凝縮している。

この頃からすでに、善惡二元論の刷り込み、勝者の歷史、敗者の消去、そして腐敗や改竄の構造があったのかもしれない。漢字の成り立ちを調べると、古代が現代よりずっと「素直」だったという感覚があったが、「正」に關しては素直すぎて逆に怖い。


03 正しいとか間違っているとかは、人によって違う

正しさというものを突き詰めていくと、困ったことになる。

人によって違うからだ。Aさんにとって正しいことが、Bさんにとっては間違いだということは、日常の中でいくらでも起きる。文化が違えばさらに差が大きくなるし、時代が違えば倫理そのものが変わることもある。

「庸」の回で普通の定義問題と甲骨文字の諸說問題が構造的に似ているという話を書いたが、「正しさ」も同じだ。共通の基準がない以上、絶對的な正しさというものは存在しないかもしれない。突き詰めていくと、どちらも正しくてどちらも間違っているという地點に辿り着く。


04 愛があるかどうかという判断材料

では、何を基準にして判斷するか。

そこで使いたいのが、愛があるかどうかという軸だ。

難しい判断を迫られた時、正しいかどうかではなく、愛があるかどうかで考えてみる。相手のことを想っているか。誰かを傷つけることになっていないか。その行爲の動機が、自利なのか利他なのか。「得」の回で自利と利他の話を書いたが、判断の最終的な基準として、愛という言葉が一番近い氣がしている。

正義という言葉は、使う人によって意味が変わりすぎる。愛があるかどうかという問いの方が、もう少し普遍的な感じがする。これが正解だとは言えないが、今の自分にとっての判断材料としては、しっくりくる。


05 靜寂と穩やかさを守る

正しいか正しくないかという問いより大事なことがある氣がしている。

靜寂と穩やかさを守ること、だ。

正しさをめぐる議論は、たいていの場合、何かを激しくする方向に向かう。怒り、對立、分斷。「幸」の回でみんなでそっと離れましょうという話を書いたが、正しさを押しつけ合うことからも、そっと離れる方がいい。

誰かを論破することより、自分の中の靜けさを保つことの方が、長い目で見ると大事なのかもしれない。正しいかどうかより、穩やかでいられるかどうか。その感覚を手放さないことが、今の自分にとってのひとつの指針になっている。


06 「止」という字が二度登場する

今囘の「正」の成り立ちに「止」が登場するが、「武」の回でも「止」が出てきた。

「武」は戈と止の組み合わせで、戈を止めることが武だという解釋もあった。「正」は囗と止の組み合わせで、城壁に向かって足を踏み出すことが起源だ。同じ「止」という字が、片方では止まることを、もう片方では進むことを表している。

「止」一字でも、何と組み合わさるかで全く異なる意味が生まれる。漢字というのは、組み合わせの妙で成り立っているのだと改めて感じる。


07 制作について

今囘も白文。字體は甲骨文字風で仕上げた。擊邊は入れた。彫る前に研いだ。

制作メモ

  • 印 式:白文
  • 字 體:甲骨文字風
  • 印 材:新疆彩凍石(7mm角)
  • 印 刀:刀匠印刀 三號(彫前に研磨)
  • 擊 邊:あり
  •  

     

頑張れば3畫という極めてシンプルな構成だった。前囘の「自」も3畫ほどで、シンプルな字が続いている。線の數が少ないほど、一本一本の存在感が大きくなる。余白をどう使うかが、今囘も仕上がりを左右した。


08 甲骨文字百顆印 これから

六十三顆目で「正」が加わった。

征伐から正しさへという轉換、愛という判断基準、靜寂と穩やかさを守ること。正しさという一字から、これだけ多くのことを考えることになった。正しいかどうかを問い続けるより、自分の中の穩やかさを保ちながら彫り続けることの方が、このシリーズにとっても大事なのかもしれない。

 

 

 

 

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城壁かな。
 


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甲骨文字百顆印 第六十二顆 / 白文・7mm角・新疆彩凍石


01 「自」という文字について

     
意 味 みずから
成り立ち 象形文字。鼻を正面から描いた形。古代中国では自分を指す時に鼻を触る習慣があり、「はな」から転じて「みずから」を意味するようになった。後に「はな」を表すために別途「鼻」という字が作られた。
部 首
現代漢字の畫數 6畫
甲骨文字の畫數 頑張れば3畫ほど

鼻が「自分」になったというのは知らなかった。自分を指差す時に鼻を触るというのは、確かに日本でも「私?」という時に人差し指を鼻に向けることがある。あの仕草が、文字の起源になっていたとは。身体的な動作が文字として定着していくというのは、甲骨文字の面白さの一つだと改めて思う。


02 自分とは何か

「自」という字を彫りながら、自分とは何かということを考えた。

この体そのものが自分なのかというと、そうではないと思っている。「宿」の回で肉体は入れ物だという話を書いた。体は確かに自分のものだが、自分そのものではない。中に宿っているエネルギー体、意識や魂と呼ばれるものが本当の自分だという感覚がある。

鼻を指して「自分」を示したということは、古代の人々も体の外側から自分を認識していたのかもしれない。あるいは、鼻で呼吸するという行為が生命そのものを象徴していたのか。どちらにせよ、鼻という具体的な部位から「みずから」という抽象的な概念が生まれた経緯は面白い。


03 体は入れ物、でも大事にする

体はエネルギー体の入れ物だ。入れ物だからといって、粗末にしていいわけではない。

魂が抜けるまで使い続ける、代わりの効かない唯一のものだ。どんなに修理しても限界はあるが、正しく使えば相当長持ちする。体という入れ物を大切に扱うことが、中に宿っているものを大切にすることにもなる。

基本的には食べたもので体が作られている。「埜」の回で在来種の野菜の話を書いたし、「養」の回でも食べることの話をした。口に入れるものが体の材料になるという意識を持つと、何を選ぶかの基準が変わってくる。


04 判断を人に任せるのは危険だ

体のことを人に任せてしまう、という状況がある。

医者に言われたことをそのまま実行する。処方された薬を疑わずに飲む。専門家が言っているから正しい、という前提で動く。そういう姿勢は、場合によっては自分の体に合わない判断を受け入れることになる。

「尊」の回で今だけ自分だけお金だけという言葉を書いた。かつての自分のことを指していたが、今の医療の構造を見ていると、同じ言葉が当てはまる場面が多い。手術や投薬が患者のためになされているのか、それとも別の動機があるのか、自分で考えないといけない。

体の声を聴くというのは、体の反応に素直になることだ。食べた後の体の感覚、薬を飲んだ後の変化、疲れの出方。自分の体が出しているサインは、他の誰も読めない。「飮」の回で左脳より右脳で感じて飲むという話を書いたが、医療の判断にも同じことが言える。情報として理解するより前に、体が知っていることがある。


05 本当の自分に必要なものは何か

これが今の一番の問いだ。

情報が多い時代で、何が体に良くて何が悪いのかという話は毎日のように出てくる。でも、誰かの情報より自分の体の反応の方が、最終的には信頼できる。「鑄」の回で一次情報まで遡ることの大切さを書いたが、体に関しては自分自身が一次情報だ。

本当に必要なものを知るためには、まず余計なものを減らすことが近道だと思っている。食べるものを絞ると、体の感覚が繊細になってくる。体が欲しがっているものと、頭が欲しがっているものの区別がつくようになってくる。「飮」の回で身体の感じた通りに飲むという話を書いたが、食べることも同じで、体に聴けばだいたい正直に答えてくれる。


06 鼻の象形がシンプルすぎた

今囘、甲骨文字としてはかなりシンプルな構成だった。

頑張れば3畫ほどという、このシリーズの中でも最もシンプルな部類だ。鼻筋と小鼻と鼻の穴を描いたものが起源とされているが、それを3畫で表現するとなると、何を残して何を省略するかに集中することになる。

シンプルすぎるがゆえに、線の一本一本の意味が重くなる。バランスを取るのが難しい一顆だった。


07 制作について

今囘も白文。字體は甲骨文字風で仕上げた。擊邊は入れた。彫る前に研いだ。

制作メモ

  • 印 式:白文
  • 字 體:甲骨文字風
  • 印 材:新疆彩凍石(7mm角)
  • 印 刀:刀匠印刀 三號(彫前に研磨)
  • 擊 邊:あり
  •  

     

3畫という極限のシンプルさを7mm角に収めた。余白の使い方がそのまま印の印象を決める。鼻の象形として、かつ「みずから」という意味が伝わるような佇まいを目指した。


08 甲骨文字百顆印 これから

六十二顆目で「自」が加わった。

鼻を指すことから始まって、エネルギー体としての自分、体の声を聴くこと、判断を人に任せないこと。一字から自分という存在そのものを改めて考える時間になった。甲骨文字百顆印は、彫りながら自分と向き合う作業でもある。

 

 

 

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