やわらかこころ塾 since2007 -67ページ目

最初の一瞥

目があるから見える
耳があるから聞こえる
脳があるから認知できる

当たり前だけれども

もともと
視覚を持たず
聴覚を持たず
嗅覚も味覚も
触覚も持たなかったら?

見ず、聞かず、匂いも味も得ず
感触すらなくしたら?

この世界にはなにがある?

視覚を得て光を見た。

虹

その瞬間、対照世界の存在を得た。

光の地平を見た最初の一瞥は
ものすごい喜びだった。

その瞬間「自分」が生まれた。

ニワトリ?タマゴ?起こること、コイツ。

ニワトリがタマゴを産んだからタマゴがあって
いやタマゴがあったからニワトリが生まれて…

思考や感情は出来事から起こる反応だと考えていました。
そしてまた思考は感情を呼び起こす刺激でもあると。

いえ、それはたしかにその通りなのだけれど。

知った、というか気づいた、感づいた?
自分でもアタマでは理解できませんでした^^:
(もちろん一般論を語ってるわけではないので
その点はご了解ください)

感情が先にある!(こともある?)

感情(を分析?に抵抗?)が思考を起こし
出来事まで左右している。

感情そのものというより、それを起こす漠然とした
カタマリみたいなもの。

いつからあった?いつできた?

その時々起こってくる感情の火消しよりも
コイツをなんとかしないと。

出来事どころか、悩みやアイデアを相手にせず
感情もうまく受け流す(相手にしない)ように
なると、見えてくるはずのコイツ

コアな自分(私)といえるのかも知れません。
いえ、自分(私、概念的なものも、物理的なものも)を
まといたがるコイツです。

自分(私)は、その外からアプローチしないと
見えてきません。

魚が海を見るように。
人が宇宙を知るように。

でもたしかに。魚も海を見る
ワタシ達にもそれに気づく視点があります。





「私」と生死

感じたのか、考えたのか、想像したのか、はたまた
ひらめいたのか…?

たしかドラマか何かで、ある人が息をひきとる直前に
大切な人との別れを惜しんでいるシーンを目にした時
ふと頭に浮かんだこと。

大切な人々(場所やモノ、思い出etc…)との別れどころか
当の「自分」との別れなんだよなぁ…
そっちも名残惜しいだろうに。

死はまた、自分として統合している有形無形が織り成す
「私」との別れ。

気がついてみると、ずいぶん幼い頃から知っていたような。

あれ?

そうなると死後の世界や、生まれ変わり、お盆やお彼岸
あの世にもついて回る人格、霊や魂の存在は?

生きてる人にとってはアル。
そうでない人(←もはや「人」でもない?)に
とってはナイ。

生まれてしばらくは「私」を認識できないように
死んでしばらくは「私の消滅」が起こらないのかな? 
(個の意識が存在する?)

うーん…^^;

ずいぶん後になってからのことですが

釈迦が永遠のアートマンの存在を否定したという
話を知り、ずいぶんとホッと(!?)したものです。

この点については、エライ学者さんも数多論じている
ようですが、そもそも理屈で解る類いのものだろうか?
と素朴に思ったりもします。

じつはさっぱり読解できないだけなのですが(笑)

アートマンを全体の一つの相だととらえてみると
それは全体の姿でもあり、(他の相からみれば)
異なるものに見受けられるということのような。

主客によって世界が変わります。

…まぁ、いいや。

というワケで、スピリチュアリティに興味があっても
スピリチュアリズムには実感がわかないのです。

死ぬって生まれることと同じように自然なこと。

そしてやっぱり「私」はそれを漠然と恐れています。