やわらかこころ塾 since2007 -64ページ目

うさんくさい

今まさに書いているコレもそうですが
すでに精神世界のものではありません
映し出された表象のカタチです。

その人により、そのタイミングにより

それに神聖さを感じることもできれば
うさんくささを感じることもできます。

神聖さを感じれば、良い/悪い影響が
ある/ないわけでもなく
うさんくささを感じても、良い/悪い影響が
ある/ないわけでもなく

ただその時々の自分が映るだけのこと

精神世界の情報をやたらうさんくさく感じる
ワタシ自身もうさんくさいんだろうなぁ。





牛×10…?

禅の十牛図をご存知でしょうか?
悟りへの道程を示した図だそうです。

以前から知っており解説なども読んでいたのですが
最近ふと再び目にして、異なる筋書きを得ました。

よくある解説では、牛を仏性や真の自分と見立て
(修行者を表す)童子がそれを追い求めるという
ストーリーになっています。

もちろん、それが正しいのでしょう^^:

以下はごく個人的な見解だということで、予めご了承ください。

今のワタシの目には牛が自我意識(エゴ)に映ります。

自我を外側から見ようとして、初めて童子の視点を得る。
気づきのプロセス(修行)の始まりです。
(牛がそのまま自分である限り、牛の概念を得ることも難しい)

足跡を見て(概念を知り)
牛を見つけ(認識し)
捕まえたり、逃げられたり(自覚しても抵抗にあい)
手なずけて(抵抗が減ってきて)
乗りこなす(コントロールする)
悠々自分の手足のように乗りこなす(コントロールも不必要)
なんだぁ~元々一緒だったってか!(ワンネスってヤツ?)
それどころか周囲にあったすべてがもともと一緒なのよ。

ワタシはまだまだ牛と格闘(いや暴走中?)の段階ですのでにひひ
わかったようなことは言えませんが…

もともと主客の二元論を突いている話ですから
このような主客の逆転(厳密には違いますが)も
アリかも知れません。

…ちなみにどん底の時に、黒毛和牛を食べて
「これのために生きていける!」と思ったのは
ワタシですガーン
目指せA5ランク!!←牛を追う牛

「られる」ものと「る」もの

目のないところでは(感じられる存在としての)
光がなくても、光の本質や動きはあります。

耳のないところでは(感じられる存在としての)
音はないけれど、音の本質や動きはあります。

自分のないところでは(感じられる存在としての)
私はないけれど、意識の本質や動きはあります。

時間のないところでは(感じられる存在としての)
世界はないけれど、たんなる本質であるspaceがあります。

ちなみにちゃんとわかっているのに
自分であるワタシには理解できません。

おまけにオカルトや電波系はチョーニガテです。

あはは^^;