MERKABA~マカバ~ -6ページ目

MERKABA~マカバ~

ヘクサグラムからマカバになるっていいことだよね?

朝、バスでホテルを出発して1時間半ほどで

「道の駅でトイレ休憩をします~」との業務連絡。

時間は8時49分、出発は9時10分。

小雨が降るなかの到着は、道の駅ひろさき兼JAで、駐車場には車が停まっていたから、もうオープンしているものと、店内に入ったら、思い切り準備中の雰囲気で

「開店は9時なんです~もう少しお待ちください~」

ツアー仲間のお父さんが、腕時計をはめた左手を突き出して、その時計を指さしながら

「でも俺達は9時10分に出発するんだ!」

即座に

「今、開けまぁ~す~お買いものできますよ~」

( ̄▽ ̄;)

青森といえば、りんごで、店頭販売で試食もあり、2割ほど小ぶりのりんごが10個で500円。試食してみると甘くて美味しい~♪

でも重いし、小さいといえども10個は多い。

店内を物色していたダンナには、アップルクーヘンっていうのがあるよ、バウムクーヘンの中にリンゴが入っているんだよ~とさりげなくお勧めしておいたので、昨夜もアップルクーヘン1/8。

アップルクーヘン

開店を繰り上げた道の駅ひろさきを出発するときには、バス車内はリンゴの香りがしてた。1人で3袋(1袋10個)のリンゴを買った人もいたのだった。そういう人を見ると、自分も買わなくては!と思うのか、ツアー中に立ち寄った道の駅の中でも買い物量はダントツの多さだった。

開店時間を繰り上げただけのことはあった。(←道の駅兼JAの立場から)

道の駅ひろさき

ただ、旅行会社は「○日○時頃、寄りますよ」と連絡しないんだろうかという疑問は残った(^^;

高望王(平高望)が898年に「介(すけ)」を命じられた上総国は親王任国(しんのうにんごく)の1つで、国司のトップ「守(かみ)」は親王が命じられ、任国には行かず「太守」として都で過ごす。「介(すけ)」は国司に次ぐ次官であり、親王任国では実務上の最高位だった。

<国司には4等官あった>
守(かみ)-介(すけ)-掾(じょう)-目(さかん)

長男・国香は、常陸国筑波山西麓の真壁郡東石田(現・茨城県筑西市)を本拠地とし、常陸大掾(だいじょう:在地の有力者が任される)であった源護(みなもとのまもる)の娘を妻として、その地位を受け継ぎ、坂東平氏の勢力を拡大した。常陸・越後・伊勢の平氏の祖であり、伊勢平氏が平清盛に続く家系。

桓武平氏の臣籍降下したのは、第50代桓武天皇の孫からで825年が最も早いが、第52代嵯峨天皇は親王をまだ幼いうちに臣籍降下させているので、814年には嵯峨源氏が誕生している。嵯峨源氏の名前を確認すると、一文字である場合が多く、源護の出自は明確ではないが嵯峨源氏の流れを汲んでいると考えられている。

次男・良兼は、父に次いで上総介を勤めるなどして上総、下総に勢力を拡大した。

三男・良将(良持と表記された場合もある)は、下総・豊田郡(茨城県、鬼怒川東岸)を開墾し、私営田を経営し、その私営田の権利を守るために武士団を形成した。延長年間(923年 - 930年)には鎮守府将軍を勤めるなどして、勢力を拡大した。将門の父。

鎮守府将軍とは、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)に置かれた鎮守府の長官。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職とされたが、鎌倉幕府成立以後は征夷大将軍が武家の首長職とされたため鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。桓武平氏では、良将のほか、国香、異母弟の良文の名も鎮守府将軍として挙げられてはいるが、その任期が不明瞭。

...というわけで、高望の子、桓武天皇の曾孫の3兄弟は関東で栄えたわけである。鎮守府将軍となったということは、朝廷も認める武門の家となったということ。京の都から見れば、関東だから東北に近いという点も利点だったのかもしれない。

「平氏」には、第50代桓武天皇、第54代仁明天皇、第55代文徳天皇、第58代光孝天皇の4流があり、桓武平氏が一番栄え子孫が多い。現在、「平」は「たいら」「ひら」「ひょう」「へい」と読み方の違いを含めて、全国におよそ34,000人。(名字由来netによる)

1/34,000を北浦和駅周辺を散策しているときに発見。



均(ひとし)さん。

最初は、なんの平均(へいきん)?と思ったが、民家のポストにあり、上には住所があった。

ヨルダンのペトラ遺跡で元アメリカ大統領クリントン氏を写真に収めたことを思い出し、探してみた。2005年のゴールデンウィークにシリア・ヨルダン・レバノンを周遊したのだ。

ディスカバリー・チャンネルで「国王と巡るヨルダンの旅」というタイトルの番組だったと思うが、アブドゥラ国王が大型バイクに跨って、ヨルダン各地を案内していた。国王自ら、観光PR!

その番組で、映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」の撮影地であるペトラ遺跡がヨルダン国内であることを知り、是非行ってみたい!と思ったのだった←かなりミーハー



ペトラ遺跡のエル・カズネ。写真下の柱の足元に人が立っている。近くで見上げると上のほうが見えないほど巨大だけれど、これは王族の墓。

ペトラ遺跡に近づいていくバスの中で、ペトラの近くで国際シンポジウムが開かれていて、各国から参加者が集まっているため、もしかしたらペトラ観光の中断もありうる、などと悪いニュースもあったが、その時に泊ったホテルで、参加者の奥様たちのパーティがあると迷彩服にライフルを持った兵隊さんたちが大勢押し掛けていて、大抵そういう兵隊さんたちは大柄だから、なんだか狭苦しいとか、テラスでお茶を飲んでいても見上げると迷彩服の兵隊さんが見えるとか、カメラを向けたりしたら撃たれるぞとか、若干景色が悪いけど、それもまた面白いという程度だった。

ペトラ観光は中断されることもなく、夕方、馬車で戻ろうとする頃に、VIPが来るらしい、ヨルダン国王かもしれないという噂が流れて、ヨルダンに来たのは国王の案内を見たからという私は、しばらく待ってみようと待機。

なにやら集団が到着したから、ヨルダン国王かとワクワクしていたら、国王じゃない!



クリントンさんじゃないですかぁ~!!

TVで見た事しかなくて、実物を見る機会があるなんてことも考えてなかったから、テンションは上がったけれど、やっぱり国王の方が良かったなぁと、馬車に乗って戻った。

...しかし、クリントン・フィーバーが冷めた頃に、リチャード・ギアが現れたことを後からホテルに戻ってきたツアー仲間に聞いたのだ...ついでだから、もうちょっといればよかった。

アブドゥラ国王は王子の頃は色白で、タレ目なところがアラブ人には全く見えない風貌だったけれど、国王になってから日焼けマシーンでも購入したのか、浅黒い肌のアラブ人になった?


アブドゥラ国王の母親はイギリス人で、国王はイギリスやアメリカで教育を受けたから、国内の伝統的な文化や習慣にこだわる人たちからは批判されることもあるらしい。実は前国王は自分の弟を後継者に指名していたのに、亡くなる直前に王子を次の国王に指名したのであった。

ホテルに戻った時に、馬車でペトラ遺跡まで案内するベトウィンたちが勢ぞろいしていたのは、VIPのためだった。もしかしたら、待っていたのはリチャード・ギアだったかもしれないぃ~



そういったことがあったため、夕食の時間はペトラ遺跡の思い出などは吹っ飛んでしまい、クリントン、リチャード・ギアで盛り上がってしまった。

さて、その出発点である桓武天皇から、親王の1人、葛原(かずわら)親王が桓武平氏の祖と言われる人物であるが、その長男・高棟王は武家ではなく、幕末まで脈々と残った公家だった。

桓武天皇をチェックしてみた。

桓武天皇の后妃と皇子女をチェックしてみた。

桓武天皇と臣籍降下をチェックしてみた。

桓武平氏をチェックしてみた1。(葛原王~高棟王)

では、次男か?と思っても、次男・善棟(よしむね)王は臣籍降下してから4年後、829年に亡くなり、記録に残る子孫はいない。

そして、三男ではなく、単に「男子」として、高見王がいる。この高見王は名前と高望王という子供がいたという以外に記録がない。高見王と高望王が同一人物ではないかという説もあるが、高見王が885年に亡くなり、高望王は889年に第59代宇多天皇の勅命により平氏を賜ったという記録もあり、葛原親王-高見王-高望王とするのが、年代からしても妥当と思える。

年が離れていたとか母が違うといった事情により、皇籍に残っていた息子・高見王がいて、その息子が高望王だと考えるということだ。

高望王は藤原良方の娘を妻とした。
良方は、左大臣となった冬嗣の三男だが、第54仁明(にんみょう)天皇の女御となり第55代文徳(もんとく)天皇をもうけた順子(のぶこ)や皇族以外で初めて摂政となった良房、娘・高子(たかいこ)が第56代清和天皇の女御となり第57代陽成天皇の外祖父となった長良とは、母が違う。

母は百済王氏(くだらのこにきしし)だった。そして、兄弟の中でも最も昇進が遅かったと記録され、藤原氏とは言えども娘の嫁ぎ先には苦慮したのではと思われる。良方の母方の縁、百済王氏は、娘が桓武天皇の女御や宮人となり、子孫をもうけているので、そういった母方百済王氏の縁で高望王に娘を嫁がせたのかもしれない。

そして、898年に上総介(かずさのすけ)を命じられると、良方の娘との間にもうけた3人の息子、国香(くにか)、良兼(よしかね)、良将(よしまさ)を連れ、上総国へ向かい、その後任期が過ぎても都に戻らなかった。

この3兄弟が常陸国、上総国、下総国で、それぞれ勢力を拡大していく。そして、この3兄弟のほかにも高望には息子がおり、常陸国に良孫、武蔵国・相模国には良文が拠点を持った。

しかし、高望は、関東に留まっていたわけではなく、902年に西海道の国司となり大宰府に居住し、911年に同地で亡くなった。高望が大宰府で国司を勤めていた903年には、失脚した菅原道真も同地で亡くなっている。

菅原道真の門弟であった味酒安行(うまさけ・やすゆき)が亡骸を乗せた牛車の牛が動かなくなった地に、道真公の御心によるものと、その地に埋葬してから、905年にその墓所の上に祀廟(しびょう)が建てられ、919年に大宰府天満宮が創建された。

後世、桓武平氏高望流の祖と称される高望の晩年が、菅原道真の改葬や祟りを封じるための神社創祀に忙殺されたのかもしれないと思うとなんだか気の毒(^^;

そういえば、今年の3月25日には亀戸天神で道真公の命日に行われる神忌祭(しんきさい)に参列し、4月には大宰府天満宮に参拝した。



(亀戸天神・神忌祭↑大宰府天満宮↓)


大宰府天満宮

平高望に関わる画像がないので、同じ場所で亡くなった縁で、道真公に関わる画像を使ってしまおう(^^;;;


↓公家の歴史を辿るというのも興味深いが書籍を読む手間が省けるサイト
公卿累別譜(公家の歴史)


岩手県一関市の厳美渓(げんびけい)は、Google map の経路検索によると「平泉の世界遺産」の中尊寺から11kmちょっと、車なら22分、毛越寺(もうつうじ)までなら8.5km。


途中には、延暦20年(801年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷討伐の記念として建てた達谷窟毘沙門堂がある西光寺がある。「平泉の世界遺産」に追加登録を望まれているようだ。
達谷窟毘沙門堂別当達谷西光寺


この程度の距離なら、途中西光寺で休憩を取って、藤原氏も地元の自然美を愛でるために訪れたかもしれない。

そんな厳美渓の名物はお団子で、中でもガイドブックで「空飛ぶだんご」と称されている「郭公(かっこう)だんご」。
お団子を食べたいというだけでなく、お団子が空を飛んでくるのを見たい、その様子を写真に動画に収めたいという観光客に大人気!...なので、私も橋の上で見どころを説明するガイドの声がかろうじて聞こえ、なおかつ、郭公だんごの発注地点に最も近いところでソワソワしながら説明終了を待った。



対岸からお茶と共にやってくる団子。しっかり三脚を立てて動画の撮影をしている人が先客だった。



郭公は鳥のカッコウのことで、創業者がカッコウの鳴き真似が上手かったというのが、その由来。店名もカッコウ屋なのだった。



みたらし、ごま、あんこの3本、お茶付きで400円。3本食べると満腹(^^;