桓武天皇の后妃と皇子女をチェックしてみた。 | MERKABA~マカバ~

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第50代桓武天皇(かんむてんのう:737-806年 在位:781-806年)には、

皇后(こうごう)1人
妃(ひ/きさき)1人
夫人(ぶにん/おおとじ)4人
女御(にょうご)6人
宮人(きゅうじん/くにん)12人
女嬬(にょじゅ)2人

と、26人の女性との間に34人の子供がいたという記録がある(Wikpedia)。「ほか」と追記があったので、これ以上いたかもしれない。

宮人、女嬬は現代で言えば職員であり、宮人は上級職、女嬬は下級職で、女嬬は掃除や灯りを灯すといった雑用を担当していた。

女性たちの出自を見ていくと

皇后
藤原乙牟漏(760-790:藤原式家)
・第51代平城天皇・第52代嵯峨天皇の母 

妃(ひ/きさき)
酒人内親王(754-829:第49代光仁天皇皇女)
・朝原内親王(伊勢斎宮、のちに平城天皇妃)の母

夫人(ぶにん/おおとじ)4人
(藤原式家・南家・北家各1+多治比家)
・藤原(式家)旅子が第53代淳和天皇を生み、贈皇太后となった

女御(にょうご)6人
(紀氏、百済王氏、藤原北家、式家、橘氏2)
・桓武天皇の祖母(光仁天皇の母)は紀氏
・桓武天皇の母・高野新笠の父方の和(やまと)氏は百済武寧王の子孫を称する渡来系氏

宮人(きゅうじん/くにん)12人
(坂上氏2、藤原京家、式家、南家、北家、橘氏、紀氏、錦部氏、百済王氏2、中臣氏1)
・征夷大将軍となった坂上田村麻呂の娘と田村麻呂の父の娘

女嬬(にょじゅ/めのわらわ)2人 
・藤原(北家)冬嗣の母と多治比家の娘の2人だからということで記録に残されているのではないかと思われる。

桓武天皇の即位は781年で生年は737年だから、44歳で即位したことになるが、781年以前に生まれたのは皇后(即位から皇后と認められるまで2年かかっている)の生んだ第一皇子と妃の生んだ第一皇女の2人のみ。

即位後、45歳以降に32人が生まれているのだから、幼くして亡くなった内親王や親王はいるものの、奈良時代に激減した皇族が一挙に増加したという印象がある。

その中で、4人の親王の子孫が臣籍降下で平氏となっている。親王自身ではなく子や孫が平氏となっているので、実際に皇族から離れたのは第53代淳和(じゅんな)天皇以降となる。
第51代平城天皇、第52代嵯峨天皇、第53代淳和天皇は兄弟での皇位継承なので、次世代へ向けて様々な思惑があったのだろう。

葛原親王(786-853) 825年臣籍降下
生母(夫人)の出自:多治比氏 
葛原(かずわら)親王は第52代嵯峨天皇、第53代淳和天皇と同じ年に生まれた。(もし1年早く生まれていたら、幼くして亡くなっていたかもしれないですねw)

賀陽親王(794-871) 873年臣籍降下
生母(夫人)の出自:多治比氏
葛原親王の同母弟

万多親王(788-830) 862年臣籍降下
生母(夫人)の出自:藤原北家

仲野親王(792-867) 872年臣籍降下
生母(宮人)の出自:藤原京家
仲野親王の娘・班子(はんし/なかこ)は第58代光孝天皇の女御となり第59代宇多天皇を生んでいる。



桓武天皇は、賀茂下上社、松尾大社を王城鎮護の神として篤く崇敬し、大原野神社、平野大社を創建。延暦23(804)年には「皇太神宮儀式帳」「止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)」を成立させた。ここに記載された儀式の詳細は現在でも伊勢の神宮に受け継がれている。