桓武平氏をチェックしてみた3関東進出 | MERKABA~マカバ~

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高望王(平高望)が898年に「介(すけ)」を命じられた上総国は親王任国(しんのうにんごく)の1つで、国司のトップ「守(かみ)」は親王が命じられ、任国には行かず「太守」として都で過ごす。「介(すけ)」は国司に次ぐ次官であり、親王任国では実務上の最高位だった。

<国司には4等官あった>
守(かみ)-介(すけ)-掾(じょう)-目(さかん)

長男・国香は、常陸国筑波山西麓の真壁郡東石田(現・茨城県筑西市)を本拠地とし、常陸大掾(だいじょう:在地の有力者が任される)であった源護(みなもとのまもる)の娘を妻として、その地位を受け継ぎ、坂東平氏の勢力を拡大した。常陸・越後・伊勢の平氏の祖であり、伊勢平氏が平清盛に続く家系。

桓武平氏の臣籍降下したのは、第50代桓武天皇の孫からで825年が最も早いが、第52代嵯峨天皇は親王をまだ幼いうちに臣籍降下させているので、814年には嵯峨源氏が誕生している。嵯峨源氏の名前を確認すると、一文字である場合が多く、源護の出自は明確ではないが嵯峨源氏の流れを汲んでいると考えられている。

次男・良兼は、父に次いで上総介を勤めるなどして上総、下総に勢力を拡大した。

三男・良将(良持と表記された場合もある)は、下総・豊田郡(茨城県、鬼怒川東岸)を開墾し、私営田を経営し、その私営田の権利を守るために武士団を形成した。延長年間(923年 - 930年)には鎮守府将軍を勤めるなどして、勢力を拡大した。将門の父。

鎮守府将軍とは、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)に置かれた鎮守府の長官。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職とされたが、鎌倉幕府成立以後は征夷大将軍が武家の首長職とされたため鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。桓武平氏では、良将のほか、国香、異母弟の良文の名も鎮守府将軍として挙げられてはいるが、その任期が不明瞭。

...というわけで、高望の子、桓武天皇の曾孫の3兄弟は関東で栄えたわけである。鎮守府将軍となったということは、朝廷も認める武門の家となったということ。京の都から見れば、関東だから東北に近いという点も利点だったのかもしれない。

「平氏」には、第50代桓武天皇、第54代仁明天皇、第55代文徳天皇、第58代光孝天皇の4流があり、桓武平氏が一番栄え子孫が多い。現在、「平」は「たいら」「ひら」「ひょう」「へい」と読み方の違いを含めて、全国におよそ34,000人。(名字由来netによる)

1/34,000を北浦和駅周辺を散策しているときに発見。



均(ひとし)さん。

最初は、なんの平均(へいきん)?と思ったが、民家のポストにあり、上には住所があった。