桓武平氏をチェックしてみた2高望王。 | MERKABA~マカバ~

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さて、その出発点である桓武天皇から、親王の1人、葛原(かずわら)親王が桓武平氏の祖と言われる人物であるが、その長男・高棟王は武家ではなく、幕末まで脈々と残った公家だった。

桓武天皇をチェックしてみた。

桓武天皇の后妃と皇子女をチェックしてみた。

桓武天皇と臣籍降下をチェックしてみた。

桓武平氏をチェックしてみた1。(葛原王~高棟王)

では、次男か?と思っても、次男・善棟(よしむね)王は臣籍降下してから4年後、829年に亡くなり、記録に残る子孫はいない。

そして、三男ではなく、単に「男子」として、高見王がいる。この高見王は名前と高望王という子供がいたという以外に記録がない。高見王と高望王が同一人物ではないかという説もあるが、高見王が885年に亡くなり、高望王は889年に第59代宇多天皇の勅命により平氏を賜ったという記録もあり、葛原親王-高見王-高望王とするのが、年代からしても妥当と思える。

年が離れていたとか母が違うといった事情により、皇籍に残っていた息子・高見王がいて、その息子が高望王だと考えるということだ。

高望王は藤原良方の娘を妻とした。
良方は、左大臣となった冬嗣の三男だが、第54仁明(にんみょう)天皇の女御となり第55代文徳(もんとく)天皇をもうけた順子(のぶこ)や皇族以外で初めて摂政となった良房、娘・高子(たかいこ)が第56代清和天皇の女御となり第57代陽成天皇の外祖父となった長良とは、母が違う。

母は百済王氏(くだらのこにきしし)だった。そして、兄弟の中でも最も昇進が遅かったと記録され、藤原氏とは言えども娘の嫁ぎ先には苦慮したのではと思われる。良方の母方の縁、百済王氏は、娘が桓武天皇の女御や宮人となり、子孫をもうけているので、そういった母方百済王氏の縁で高望王に娘を嫁がせたのかもしれない。

そして、898年に上総介(かずさのすけ)を命じられると、良方の娘との間にもうけた3人の息子、国香(くにか)、良兼(よしかね)、良将(よしまさ)を連れ、上総国へ向かい、その後任期が過ぎても都に戻らなかった。

この3兄弟が常陸国、上総国、下総国で、それぞれ勢力を拡大していく。そして、この3兄弟のほかにも高望には息子がおり、常陸国に良孫、武蔵国・相模国には良文が拠点を持った。

しかし、高望は、関東に留まっていたわけではなく、902年に西海道の国司となり大宰府に居住し、911年に同地で亡くなった。高望が大宰府で国司を勤めていた903年には、失脚した菅原道真も同地で亡くなっている。

菅原道真の門弟であった味酒安行(うまさけ・やすゆき)が亡骸を乗せた牛車の牛が動かなくなった地に、道真公の御心によるものと、その地に埋葬してから、905年にその墓所の上に祀廟(しびょう)が建てられ、919年に大宰府天満宮が創建された。

後世、桓武平氏高望流の祖と称される高望の晩年が、菅原道真の改葬や祟りを封じるための神社創祀に忙殺されたのかもしれないと思うとなんだか気の毒(^^;

そういえば、今年の3月25日には亀戸天神で道真公の命日に行われる神忌祭(しんきさい)に参列し、4月には大宰府天満宮に参拝した。



(亀戸天神・神忌祭↑大宰府天満宮↓)


大宰府天満宮

平高望に関わる画像がないので、同じ場所で亡くなった縁で、道真公に関わる画像を使ってしまおう(^^;;;


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