今日も当ブログに
お越しいただき
ありがとうございます。
かなりブランクがありましたがいかがお過ごしでしょうか・・。
彼女の毒母が
ディクレスシア
だったと書いたきり
そのまま数ヶ月が過ぎてしまいましたね。
とある取り組みが完了し
ダウナーな感情になることを避けていた期間も過ぎたので
ここのところは大好物のダウナー系の
書物を読み漁っています。
何気に選んだ
この書物のチョイスが
さらに毒親に受けた弊害を
あぶり出すことになりました。
そして
・
・
・
なんと
毒母だけでなく
彼女自身こそが
発達障害であることに気づかされてしまったのです。
もちろん
自分が発達障害であることを
認めたくはなかったのですが・・・
読めば読むほど
これまでに自信の発達障害ぶりと
思い当たること
シンクロすることが多々ありました。
自分が発達障害であることを
認めるに至るまでの書物を紹介いたしましょう。
まず最初はこれでした
「死刑でいいです」
池谷孝司著
裁判で反省や後悔のことばを発する事もなく、
「死刑でいいです」と言い放つ少年。
自分が死にたいけど自殺はできないゆえに死刑になるためだけに人を殺めた少年。
未熟モノや身勝手
などと言ったシオことばで処理するのには不可解な思考をもつ犯罪者のことを記したものです。
私はここで紹介される事件に限らず、
犯罪を起こすに至る経緯には
犯人の生い立ち、家庭環境、
出会った大人、
特に母親の存在を
無視するわけにはいかないと感じています
そしてこの本では
実母を撲殺と
面識のない姉妹を惨殺する2つの事件自体の
内容にフォーカスするのではなく
少年犯罪と発達障害の関係性や
少年院での発達障害もちへの対応やフォロー
少年院と少年鑑別所の役割の違い
犯罪を犯すに至った人間への世間の解釈の変化についても記述があり
とてもうなづける部分が多々ありました
その証拠に
ほら
こんなに付箋だらけになって・・・!
この付箋部位の中から
今日は一つ紹介したい文脈があります
以下引用・・・
「虐待」も以前は知らない人には言葉が通じず、「しつけ」ではないのか、と言われましたが、今は違う。
言葉が通じるのと通じないのとでは全然違うんです。
〜中略〜
以前はいくら説明しても「私は虐待じゃない」という顔をする人がいました。
今はレベルの高低はあっても、みんな「虐待」という言葉を説明しなくてもわかるようになりました。
ここ
すっごく納得です。
まだまだ全親に同等の認識があるとは言えないまでも
平成子育て世代には「虐待」にたいする認識や理解はかなり広まったと感じています。
でも多分
押入れに閉じ込められたり
ご飯を抜いたり
お尻に線香を押し付けられたり(幼馴染がされていた)
といった行為に対して、
「私、ずっとあなたに虐待されてきたよね?」
と、昭和子育て世代の親に詰め寄ったとして
「あれはしつけのうちだ!」
と、言って引かないに決まっている。
申し訳なかった
なんて言える親は多分ひとりたりとていないでしょうよ。
そして
子供の見ている前で
女親を引きづり回したり
首を絞めたり
血が出るまで頬をつねったりといった
行為が
虐待にはならないだろう・・・
とすら思っているだろう。
健康分野でよくあるように
「かつての常識が今の非常識」みたいに
子育て上での認識においてもそれは起きていて
子供や女性の人権も確立されたおかげもあるし、
子は親の所有物ではない
という発想も生まれ、
「自分の子どもに対してはなんでもあり」
という認識は排除しやすくなったなぁ・・・とは思う。
あからさまにダメな親なら
児童相談所も介入しやすいし
赤の他人でも子供を保護できるようになったのは
大きな進歩だと思う。
とはいえ
社会性があり、
良識人を装っている親の場合は厄介
一見
虐待には見えないレベルの、
真綿でくるむような虐待行為も厄介
そうでなくても
子どもは
親が無条件に好きなので
どんなダメ親でも
庇おうとするよね
どんな理不尽な仕打ちにも
疑問を持たずに受け止めるよね。
愛されない原因も
自分が悪い子だから
ダメな子だからだとおもうよね
全部立派な虐待なのに・・・
いまも
この瞬間も
虐待を
「普通のこと」と受け止めて生きている子どもが
きっといっぱいいるんだよね。
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