坊ちゃんスタジアムで、DeNA vs ヤクルトの試合があったので、見に行ってきました。


とてもいい天気でした。





▼ 電光掲示板



半旗でした。

やはり、熊本の地震のことがあったからでしょう。


ちなみに、試合開始前に国歌斉唱はありませんでした。

土曜日の試合では国家斉唱があったようですが、私が見に行った試合ではありませんでした。

なぜなんでしょう・・・?



▼ 試合中



天気が良かったです。

雨が降って中止になるかもしれないと思っていたので、

予想外の好天にびっくりでした。


腕がかなり日焼けしました。


▼ 9回裏ノーアウトランナー1塁


9回裏、ヤクルトの攻撃です。

川端がバッターボックスにいます。


ピッチャーは、守護神・山崎。

川端、山田が倒れ2アウトになったのですが・・・



ここからが悲劇のはじまりでしたw



ツーアウト、ツーストライクまで追い込んだのに、

バレンティンの打席でサード白崎が痛恨のエラー!



で、結果は・・・



▼ 結果




ちーん・・・ドンッ


でも、面白かったです。

やはり、プロの試合は、迫力がありますね。


ひいきのチームが負けたのは残念でしたけど、

白熱した試合を見ることができて、よかったです。



5月は、愛媛FCを応援に行こうかな、と思っています。

スポーツ観戦は、楽しいです!




愛光高2生が、「現代文の実力テストがものすごく難しかった、先生読んでみてください」、というので、読ませてもらった。

でも、がっかりした。

学校の国語教育では、こういう左巻きのものばかり、良識ある見解として読まされているのかもしれない。





何から引用したのかわからない。本文は、以下の書き出しで始まる。

『われわれがネーションへの帰属に縛られることなく、世界人である可能性はないか。これはスポーツにかぎらず、われわれ(少なくとも私)にとっては切実な願望である。スポーツはほんらい、そのような傾向があって不思議ではない。』

この書き出しで、読む気がほとんど失せてしまったのだが、

国家への帰属をすっとばして世界人である可能性は絶対にないし、現実を無視してそんな理想を強引に実現したら、とんでもない悲劇になると私は確信する。


私は、国境というのは人類が発明した素晴らしいシステムで、まさに国境があるからこそ人は幸せでいられると思っている。

多様な価値観、民族・言語・宗教、相互に尊重しあう異常、棲み分けはとても大切なのだ。

世界人なんていうアイデンティティはない。あるとしたら、それは火星人の存在が判明したときか、または宇宙に人が住み着いたとき、だろう。

人は、その外部を意識することがない形で一体感をもち、社会を構成することはないと思う。社会科学を学び続けてきて、20年くらい前に至った確信である。




『19世紀末から20世紀にいたる世界の政治的歴史は、決して好ましい方向をとったとは言えないし、そのなかで異様に強硬で排他的なナショナリズムが生まれてくる。』

『(中略)ネーションとは、…媒介でしかない。重要なのは「個人」と「世界」なのだ。』


ナショナリズムには罪の部分もあることは否定しないが、功の部分もある。

世界史の中におけるナショナリズムについて、もう少し多角的に研究してみたらどうか、と言いたい。

重要なのは、「個人」と「世界」というが、「国家」をすっぽかしているところが悲劇としか言いようがない。


『ネーションを廃絶することは今のところすぐには望めないが、それは絶対のものではない。スポーツに限って言うと、ネーションを相対化することはできるのである。今、スポーツが面白いのは、ほかでは考えられないこの相対化が想定できるからである。』



確かにスポーツはネーションを相対化した、と言えると思う。

それでも、私にとってはオリンピックやワールドカップがムチャクチャ面白い。

私はなぜか、スポーツがネーションに帰属しているときも、ムチャクチャ面白いのだが…。

この著者は、オリンピックやワールドカップを醒めた目で見ているのだろうか。



『今、自由な社会的人間にとって本当に必要なことは「国家」の威力をできるかぎり縮小することである。なぜなら20世紀の世界は、カール・シュミットが言ったように国家と社会の完全な一致としての全体主義の苦い経験をもっているからである。』



全くもって、賛同できない見解。




この文章について塾生たちに聞いてみたところ、「意味がわからない」で内容について話し合うことはできなかったのだが、

意味がわからないうちに、ナショナリズムがなんとなく悪いものだという刷り込みがなされていなければいいのだが、

刷り込みというのは潜在意識に働きかけるものなので、やはり不安に感じる次第である。




人権軽んじる政府の「体質」、ですか・・・、

日本政府が人権を軽んじていると本気で信じるのなら、

日本よりも人権を保障してくれる外国に引っ越してみればよいのでは。



「表現の自由」国連調査 人権軽んじる政府の「体質」憂慮

2016年04月14日(木)

日本では今、国民の「知る権利」が脅かされてはいないか。政府の情報公開は十分か。そんな現状把握のため、国連の「表現の自由」担当の特別報告者が来日、19日まで調査している。
 国連の人権委員会は一昨年、日本への見解の中で特定秘密保護法に触れ、報道を萎縮させると懸念を表明していた。調査で問題が見つかれば、勧告もあり得る。政府は誠実に協力し、指摘を待つまでもなく改善に取り組まねばならない。
 だが、その期待は薄い。政府の消極性、問題意識の低さは、調査受け入れを渋り、今夏の参院選後に先送りしようとした姿勢に如実に表れている。
 調査は本来、昨年12月の予定だったが、政府は「予算編成で受け入れ態勢が取れない」と拒否し、異例の延期に。その後も「人員をそろえるのは国会会期中は難しい」などと抵抗、報告者のデービッド・ケイ氏に「今秋」を提案したという。
 ケイ氏や市民団体が早期調査を求めたため今月になったが、政権に不都合な問題を隠し、避けたい思惑がにじむ。日本は国際人権基準を軽視する国、と内外から受け止められかねない愚挙であり、知る権利を正面から侵害して恥じない「体質」こそが問題と断じざるを得ない。
 秘密保護法を成立させた安倍政権は、メディア介入や圧力が際立つ。自民党議員が「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなることが一番」と放言し、政府自ら「政治的公平性」を判断してテレビ局に「停波」を命じる可能性に担当大臣が言及した。権力の側が意に沿わない論説を攻撃し、暴言を吐いても撤回して終わりという現状を強く憂慮する。国連の調査を機に、自覚と猛省を促したい。
 また、テロ事件などで高まる差別や排外主義との闘いは、世界共通かつ喫緊の政治課題。その点でも、日本は遅れている。
 特定の人種や民族への差別をあおるヘイトスピーチ(憎悪表現)を抑止する法案が、先週ようやく自民、公明両党から参院に提出された。野党は昨年5月に同種法案を出したが、継続審議中で成立に至っていない。
 そもそも1995年の人種差別撤廃条約の加盟時に制定すべきだったが、放置。国連委員会からは包括的な人種差別禁止法を作るよう2001年、10年、14年の3回も勧告された。政治の不作為の責任は極めて重い。
 表現の自由の侵害への懸念はあるが、ヘイトスピーチの実態は差別であり暴力。明確に区別した上で、国を挙げて差別的言動を許さない姿勢を早急に打ち出してもらいたい。むしろ、危惧すべきは政権側の「乱用」。自民党は、ヘイトスピーチ対策にかこつけ国会周辺の政治デモの規制を検討しようとした過去もある。国民の表現の自由、知る権利を最大限尊重することは憲法が要請する政治の重要な、当然の責務。そのことを決して忘れぬよう、国民もメディアも注視し続けねばならない。



以上。引用終わり。

http://www.ehime-np.co.jp/rensai/shasetsu/ren017201604141650.html



愛媛新聞は、国連国連というが、国連はそんなにエライのか?


たしかに、彼らにとってはエライ、国連様、と思っているかもしれない。

国連は、サヨクリベラルの巣窟だから。

人権委員会なんぞ、その最たるもの。



しかし、まともな人にとってもれば、そんなの迷惑でしかない。

第一、人権がそんなに気になるのなら、国連は中国へと調査に行けばいい。

いっくらでも仕事が見つかるだろう。




要するに国連、何かと反日をあおりたい、自称正義の味方、サヨクリベラルである。

勘違いしたアホはいくらアホといっても仕方ないので、どうしようもない。


で、愛媛新聞はこう続ける。



政府自ら「政治的公平性」を判断してテレビ局に「停波」を命じる可能性に担当大臣が言及した。権力の側が意に沿わない論説を攻撃し、暴言を吐いても撤回して終わりという現状を強く憂慮する。国連の調査を機に、自覚と猛省を促したい。



面倒くさいので、放送法を引用して反論する。

第1条
この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。

1 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
2 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
3 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

第4条
放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

1 公安及び善良な風俗を害しないこと。
2 政治的に公平であること。
3 報道は事実をまげないですること。
4 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。



愛媛新聞は、以前第4条を倫理規定といった。

万一それが正しいとして、では第1条はどうなるのだろうか。

国民の公共財である電波をテレビ局が独占的に利用して、自分たちの私見を垂れ流して、健全な民主主義の発達に資するとでも言うのだろうか。


TBSで、コメンテーターが「メディアとしても(安保法案)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」と発言しても、それのどこが健全な民主主義の発達に資するというのだろうか。

彼らに偏向報道をする自由はない。


愛媛新聞は、

国連の調査を機に、自覚と猛省を促したい。

と上から目線で言っているが、


これ書いてる人こそ、自らの自覚を促したいですねwww


しかも、国連の調査を機に、とはwww



PS

昨日、フジテレビを見ていたら、田母神さん逮捕のニュースをやっていた。

そこでコメンテーターが、田母神さんが夏の参院選挙に出馬できなくなる可能性があることに触れて、

「どうせ出ても落ちる」

と言い放った。


自分としては、信じられないセリフでびっくりしたが、これは問題ないのだろうか。

私は、その一言を聞いたとき、目と耳を疑ったが。







北島選手が引退を表明し、以前読んだこのコラムを思い出した。



塾を作る前の2008年夏に、産経新聞で下記のコラムを読んだ。

その切り抜きを今も大切に取っておいてある。

もうすっかり黄ばんでしまったが、絶対に捨てたくない切り抜きである。

その全部を紹介したい。



【めざましカフェ】’08北京 漫画家・さかもと未明 孤独が人を強くさせる
2008.8.17
 
 水泳の北島康介選手が、ついに五輪2大会連続で4つの金メダルを獲得した。そして、日本中が偉業に沸いた翌日のメディアには「引退」の文字が躍った。
 北京にいる北島選手直近のマネジャーに、私は電話をかけた。「引退なさるんですか?」と聞くと「それは報道が先走っています」とマネジャーは言った。「ただ、北京で終わる気で挑まないと真剣勝負できなかったのは事実。北島とは引退は無論、今後の話もしていません、そんなことを全く考えられないほど、北島はこの北京に向け、あらゆる努力を続け、犠牲を払ってきました」
 アテネ五輪後の北島選手と交流する機会があった私は、その努力を事あるごとに耳にしていた。最もつらかったろうと推測されるのは、2006年のパンパシフィック水泳選手権大会のころだ。アテネ後、燃え尽き症候群のような状態に悩まされた北島選手は、記録低迷にあえいだ。あらゆる取材を断り、黙々と練習をしていた彼の努力を、私は沈黙の中に感じた。
 当時こそ彼は、引退を考えていたかもしれない。しかし、何も言わず練習し続けていた。どれだけ周りが彼の成功を祈っていても、誰も彼の代わりに泳ぐことはできない。彼は、たったひとりで自分の気持ちと体を北京に向けて作り替えていったのだ。北島選手が瞳に輝きを取り戻し始めたのは、新泳法を身につけ始めてからだとマネジャーは言う。
 「北京入りの数日前、僕は北島を怖いと思いました。目をそらしたいような強烈な目力と、近寄りがたい気を湛(たた)えていたんです」
 そのころの彼に、実は私も同じものを感じた。「この人はたった一人で“孤独の森”に入って、徹底的に孤独と闘ってきた人だ」
 私自身も漫画家としてデビューする前、家族に反対され、金銭的にも困窮し、明日死ぬのではないかという孤独の中で原稿を書いた経験がある。しかし、その体験がなければ私は強さも意地も熟慮する習慣も身につけることがなかったろう。北島選手に会ったその日、私は改めて確信した。「孤独を恐れることはない。誰であれ、何かに覚悟をもって挑むとき、人はたった一人で孤独の森に入り込んで、自身と向き合わなくてはだめだ」。彼が極みにたどり着いたと認めたからこそ、人々は引退を想起してしまったのだろう。
 五輪に挑む人々は、誰もがこの孤独を背負って集うのだと思う。次に期待をもたせる内村航平選手も、「体操を極める」とまだ中学生の時にたった一人で決めたそうだ。柔道の鈴木桂治選手は孤独の森で、既に自分の限界を見ていたのだろう。それを受け入れるのもまた並大抵のことではあるまい。女子柔道の谷亮子選手が迷いなく「これからは主婦になります」と言えたのは、戦い尽くしたものの潔さだと思う。陸上の為末大選手も、驚くほど思索的な文章を自身のブログに記している。
 これから昇る者もいれば、必ず去っていく者もいる五輪は、最高の人生の教科書だと私は思った。すべての人生に必ず訪れるだろう覚悟のとき、あるいは恐れる人物に対峙(たいじ)するとき。われわれを支えるのは、それぞれが闘った恐ろしいほどの孤独の総量でしかないと、選手が教えてくれる。
 孤独から逃げずに闘った者だけが、輝きを手にし、悔いのない決断をわがものとするのである。(さかもと みめい)






以上。引用終わり。


北島選手のすごさは、正直私にはわからない。

しかし、さかもと未明にここまで言わせたという点で、すごかったんだろうなとは思える。




自分は、塾を作ったことを死ぬほど後悔したこともあったし、

最初のころは、朝の肉体労働・深夜のバイトがなければ塾を続けられない日々が続いた。

なんども、塾をとっととたたんで別の仕事を探そうとした。

東京まで就職活動に出かけたこともあった。


辞めたいと思いつつ、

それでも孤独から逃げずになんとか戦えたからこそ、今があると思う。

もちろん、何も一人でできたわけでは決してなくて、支えてくれた人たちがいた。



まだまだ自分は孤独の森に入っていかねばならないだろうが、

それよりも今は受験生たる塾生たちにこのコラムを読んでもらい、

その意味を少しでも理解してほしいと思っている。



すべての人生に必ず訪れるだろう覚悟のとき、あるいは恐れる人物に対峙(たいじ)するとき。

われわれを支えるのは、それぞれが闘った恐ろしいほどの孤独の総量でしかない。





さかもと未明のコラムから、

人生で決して忘れられない教訓を得ることができた。





しょぼーん・・・(´・ω・`)






電王戦二番勝負第1局は▲4三成銀(投了図)まで、PONANZAが勝ちました。▲3三歩成からの詰めろと、馬の利きを通しての角取り。△3一香と受けても、▲3六馬が詰めろになって一手一手の寄りです。終局時刻は16時31分。消費時間は▲PONANZA5時間7分、△山崎7時間9分。第2局は5月21・22日(土・日)、滋賀県大津市「比叡山延暦寺」で行われます。


以上。引用終わり。
http://kifulog.shogi.or.jp/denou/2016/04/ponanza-6dab.html



▼ 棋譜
http://denou.jp/2016/kifu/20160409.html



残念です。

将棋はもうほとんどやっていないので、素人同然なのですが、

棋譜を見てみて、これってワンサイドゲームみたいに思ってしまったのですが、

そんなことはなかったのでしょうか。


しかも、人とはちがって、

コンピュータは囲いませんね。

将棋の入門書には、囲ってから攻めるように書いてありましたが。

これが合理的な将棋というものなのでしょうか。


もう人が負けるのが当たり前みたいになってしまったのですが、

次回は人間側の勝利を期待してみたいです。


早く人間界最強の、羽生さんに出てきてほしいです。


英語教科書の「エレン先生」人気は出版元も想定外 
なぜあのイラストが採用されたのか、そして初の試みとは


▼エレン・ベイカー先生



東京書籍の中学生向け英語教科書「NEW HORIZON」に登場するエレン先生がかわいい。2016年(平成28年)度版から刷新された教科書は、リニューアルに伴い登場キャラクターも入れ替わっており、よりアニメやマンガに寄せた、中学生にとってはなじみのあるイラストになっている。過去の英語教科書の挿絵とは一線を画しており、ネットでも話題だ。



以上。引用終わり。
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1604/08/news159.html



あらー、ミス・エレン~


てなわけで、うちの塾のテキストに、ちょこっと登場してもらいました。


▼ エレン先生 inドリル




▼ 拡大



できないやつは、斬る!

って言ってたりしてwww




エレン先生のおかげで、

中学生の英語の偏差値が1くらいアップしたら、

それこそ東京書籍はグッジョブですよ!

以下の記事は、昨晩のニュース23の内容。

ニュース23を見てが、TBSはこの事件を冤罪にしたいんだなと、その熱意しか感じられなかった。




勝又被告にJNNが単独取材
「死刑になると言われて自白した」



 栃木県の旧今市市で吉田有希ちゃんが連れ去られ、殺害された事件の裁判員裁判です。8日の判決を前に、被告の男がJNNの単独取材に応じ、「自白しなかったら死刑になると言われて自白した」と改めて無罪を主張をしました。

 7日朝、雨の中、宇都宮市にある拘置所に入る記者。栃木県の旧今市市で吉田有希ちゃん(当時7)が連れ去られ、殺害された事件の裁判員裁判で、8日の判決を前に、被告の男が2日間にわたってJNNの単独取材に応じました。

 「自白したのは何で?」(記者)
 「当時の自分の精神状態、本当に考えられないくらい追い込まれていたんだなって」(勝又被告)

 記者の質問に答える勝又拓哉被告(33)。2005年12月、茨城県の山中で吉田有希ちゃんを殺害した罪に問われています。

 「『有希ちゃん殺したの君だね』と検事に言われたそのときは?」(記者)
 「殺していないけど認めた方が印象いいし、認めずにこのままずるずるいったら刑が重くなるし」(勝又被告)

 青色の長袖シャツにジャージー姿で、看守2人に付き添われ面会室に現れた勝又被告。裁判の争点となっている犯行を認めたとされる自白についてこう話しました。

 「有希ちゃん殺していないのに認めたの?」(記者)
 「はい」(勝又被告)
 「殺したの認めたら、殺したことになってしまうよ」(記者)
 「そうだけど、検事は『僕の自白無くても証拠あるんだよ』って言うし、自白しなかったら死刑になると警察官に言われて自白した」(勝又被告)

 勝又被告は、自白は強要されたとしたうえで、「有希ちゃんを殺していない」と改めて無罪を主張しました。



以下略。引用終わり。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20160407-00000030-jnn-soci


結局、判決は無期懲役になったというが、妥当だろう。


類推にすぎないが、被告はおそらく犯人で、罪の意識や謝罪の感情はみじんもないのだと思う。ただ、自己保身だけはしたいのだろう。

そこへ弁護士が入れ知恵をした。

そして、今の彼には自己保身しか興味がない。


その程度だと思う。

結局、他の殺人事件の犯人と同じように、彼もサイコパスで、ただ、気が小さいだけなのではないだろうか。


上記のことは類推でしかないが、

冤罪の可能性はあるし、

かといって真犯人を逃がす可能性もあるし、

私は無期懲役で妥当だと思う。



それにしても、ニュース23は久しぶりに見たが、偏りすぎではないか。

この単独取材を通してみて、なんとしてでも冤罪にしたいという熱意しか感じられなかったのだが、それは私だけだろうか。


しかも、なぜ裁判の前日にこれを放送するのだろうか。

なんか、すごく無神経な気がした。

裁判に影響するわけで、被告に会うべきではないとも思った。


TBSは、やはり好きになれない。




PS

TBSは、山尾しおり議員の政治資金疑惑はスルーだった。

民進党には寛大なんですねw



厚顔無恥とは、まさにこれのこと。







 民進党の山尾志桜里政調会長が代表を務める政党支部が、ガソリン代として1年間に約230万円を支出していた問題。山尾氏は6日夜、元秘書が架空の代金を計上した疑いがあると釈明した。

 「政治とカネ」の問題では、甘利・前経済再生担当相が今年1月、秘書が建設業者から金銭を受け取ったとして大臣を辞任。このとき山尾氏は、「秘書のやったことについて、本人の責任が免れるわけではない」と述べ、“秘書の責任にするのは通らない”と厳しく追及していた。

 今度は、追及される側になった山尾氏。

 山尾氏「大事な時期の民進党の政調会長として、今担っている役割を全うしていきたい」

 監督責任を認めたものの、政調会長を辞任する考えはないと述べた。



以上。引用終わり。
http://www.news24.jp/articles/2016/04/07/04326706.html



なんだこれは?

まぁ、責任取っても取らなくても、どうでもいいんだけど、

辞めなければ、恥さらしだろうな。

もっとも、本人は厚顔無恥なんで、なんとも思わないのかもしれないが。


頭は良いかもしれないが、真正のアホだな。

こういう勘違いしている真正のアホがたくさんいるから、困る。



林修先生が、こんなことを言っております。












正論ですな。



勉強をやる気にならない子は、

全てを当たり前のように与えられているから、

現状で「満たされている」と感じているから、

自分で努力することの意味が分からないのだろう。


親が与える「当たり前」の環境が、

実は親の不断の努力によって成し遂げられているという事実を知らない。


少し想像力を働かせれば、高校生にもなればわかりそうなことだが・・・。



百獣の王ライオンでさえ、走ることを怠れば餓死する。

ライオンも生きていくためには必死になって走らねばならない。

走ることを怠るライオンの子がもれなく死ぬのは、自然の摂理だ。


学びたくない学生は、一度社会に出てみればよいと思う。

そして学ぶことの意味と必要性がわかったら、復学すればいいのではないだろうか。



ただし、往々にして、その時はもういろいろなことが手遅れになっていることに気がついて、後悔することになるだろうが。

「傷ついた」TVタックルひきこもり特集に経験者ら異議

 「大人のひきこもり」を特集したテレビ朝日の番組で、取り上げ方などに問題があったとして、精神科医の斎藤環さんやひきこもり経験者らが4日、東京都内で会見を開き、異議を唱えた。放送倫理・番組向上機構(BPO)や放送各社に声明文を送るという。

 番組は3月21日に放送された「ビートたけしのTVタックル」。親の依頼を受けたひきこもりの支援団体が、当事者が説得に応じない場合に、怒鳴ったりドアを突き破ったりして部屋から出そうとする場面などを紹介した。同様の団体を取り上げた番組は、他局にもあるという。

 こうした手法について、斎藤さんは人権意識や倫理性などが欠如しているとし、「支援という名の暴力。好意的に取り上げる番組がこれ以上あってはならない」と訴えた。ジャーナリストの池上正樹さんは、「映像ありきで勧善懲悪のストーリーに落とし込まれている」と指摘。テレ朝に質問したところ「社会問題の一つとして取り上げ、特定の組織・団体等の宣伝に当たるものではない」との回答があったという。

 さらに、ひきこもり経験者たちが共同声明を発表。「放送で出た発言により、自分の過去・現在を完全否定され、精神的に傷つけられた」などとして、放送各社に当事者の声や有識者の見解を取り上げるよう求めた。


引用終わり。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160404-00000032-asahi-soci

▼引きこもり特集




引きこもり特集を見てみたのだが、この番組に問題があったという上記主張には賛同できない。

騒ぎになっているので、戸塚ヨットスクールなみの凄さかと思えば、とんでもない。

めちゃくちゃマイルドじゃないか・・・。


人権意識とはいうが、そもそも、ひきこもりを養っている親の人権が侵害されているわけで、

その人権侵害を行っている引きこもりの人権を、なぜ守らねばならないのか。



それにしても、ひきこもりなんていうのは、それを養う人にも責任があると言わざるを得ない。

自分の身内が引きこもろうものなら、とりあえずまずは停電と断水から始める。

それでも引きこもるのなら、本物だと感心する。即身仏になろうというのだから、それはそれで尊重するしかないから。


番組に出てきた伊藤学校は、社会が必要としている学校だと思う。


それにしても、異議を唱えた団体は、ズレているとしか思えない。

本当にズレていて、自分とは絶対に相いれない感じがする。