愛光高2生が、「現代文の実力テストがものすごく難しかった、先生読んでみてください」、というので、読ませてもらった。
でも、がっかりした。
学校の国語教育では、こういう左巻きのものばかり、良識ある見解として読まされているのかもしれない。
何から引用したのかわからない。本文は、以下の書き出しで始まる。
『われわれがネーションへの帰属に縛られることなく、世界人である可能性はないか。これはスポーツにかぎらず、われわれ(少なくとも私)にとっては切実な願望である。スポーツはほんらい、そのような傾向があって不思議ではない。』
この書き出しで、読む気がほとんど失せてしまったのだが、
国家への帰属をすっとばして世界人である可能性は絶対にないし、現実を無視してそんな理想を強引に実現したら、とんでもない悲劇になると私は確信する。
私は、国境というのは人類が発明した素晴らしいシステムで、まさに国境があるからこそ人は幸せでいられると思っている。
多様な価値観、民族・言語・宗教、相互に尊重しあう異常、棲み分けはとても大切なのだ。
世界人なんていうアイデンティティはない。あるとしたら、それは火星人の存在が判明したときか、または宇宙に人が住み着いたとき、だろう。
人は、その外部を意識することがない形で一体感をもち、社会を構成することはないと思う。社会科学を学び続けてきて、20年くらい前に至った確信である。
『19世紀末から20世紀にいたる世界の政治的歴史は、決して好ましい方向をとったとは言えないし、そのなかで異様に強硬で排他的なナショナリズムが生まれてくる。』
『(中略)ネーションとは、…媒介でしかない。重要なのは「個人」と「世界」なのだ。』
ナショナリズムには罪の部分もあることは否定しないが、功の部分もある。
世界史の中におけるナショナリズムについて、もう少し多角的に研究してみたらどうか、と言いたい。
重要なのは、「個人」と「世界」というが、「国家」をすっぽかしているところが悲劇としか言いようがない。
『ネーションを廃絶することは今のところすぐには望めないが、それは絶対のものではない。スポーツに限って言うと、ネーションを相対化することはできるのである。今、スポーツが面白いのは、ほかでは考えられないこの相対化が想定できるからである。』
確かにスポーツはネーションを相対化した、と言えると思う。
それでも、私にとってはオリンピックやワールドカップがムチャクチャ面白い。
私はなぜか、スポーツがネーションに帰属しているときも、ムチャクチャ面白いのだが…。
この著者は、オリンピックやワールドカップを醒めた目で見ているのだろうか。
『今、自由な社会的人間にとって本当に必要なことは「国家」の威力をできるかぎり縮小することである。なぜなら20世紀の世界は、カール・シュミットが言ったように国家と社会の完全な一致としての全体主義の苦い経験をもっているからである。』
全くもって、賛同できない見解。
この文章について塾生たちに聞いてみたところ、「意味がわからない」で内容について話し合うことはできなかったのだが、
意味がわからないうちに、ナショナリズムがなんとなく悪いものだという刷り込みがなされていなければいいのだが、
刷り込みというのは潜在意識に働きかけるものなので、やはり不安に感じる次第である。