北島選手が引退を表明し、以前読んだこのコラムを思い出した。
塾を作る前の2008年夏に、産経新聞で下記のコラムを読んだ。
その切り抜きを今も大切に取っておいてある。
もうすっかり黄ばんでしまったが、絶対に捨てたくない切り抜きである。
その全部を紹介したい。
【めざましカフェ】’08北京 漫画家・さかもと未明 孤独が人を強くさせる
2008.8.17
水泳の北島康介選手が、ついに五輪2大会連続で4つの金メダルを獲得した。そして、日本中が偉業に沸いた翌日のメディアには「引退」の文字が躍った。
北京にいる北島選手直近のマネジャーに、私は電話をかけた。「引退なさるんですか?」と聞くと「それは報道が先走っています」とマネジャーは言った。「ただ、北京で終わる気で挑まないと真剣勝負できなかったのは事実。北島とは引退は無論、今後の話もしていません、そんなことを全く考えられないほど、北島はこの北京に向け、あらゆる努力を続け、犠牲を払ってきました」
アテネ五輪後の北島選手と交流する機会があった私は、その努力を事あるごとに耳にしていた。最もつらかったろうと推測されるのは、2006年のパンパシフィック水泳選手権大会のころだ。アテネ後、燃え尽き症候群のような状態に悩まされた北島選手は、記録低迷にあえいだ。あらゆる取材を断り、黙々と練習をしていた彼の努力を、私は沈黙の中に感じた。
当時こそ彼は、引退を考えていたかもしれない。しかし、何も言わず練習し続けていた。どれだけ周りが彼の成功を祈っていても、誰も彼の代わりに泳ぐことはできない。彼は、たったひとりで自分の気持ちと体を北京に向けて作り替えていったのだ。北島選手が瞳に輝きを取り戻し始めたのは、新泳法を身につけ始めてからだとマネジャーは言う。
「北京入りの数日前、僕は北島を怖いと思いました。目をそらしたいような強烈な目力と、近寄りがたい気を湛(たた)えていたんです」
そのころの彼に、実は私も同じものを感じた。「この人はたった一人で“孤独の森”に入って、徹底的に孤独と闘ってきた人だ」
私自身も漫画家としてデビューする前、家族に反対され、金銭的にも困窮し、明日死ぬのではないかという孤独の中で原稿を書いた経験がある。しかし、その体験がなければ私は強さも意地も熟慮する習慣も身につけることがなかったろう。北島選手に会ったその日、私は改めて確信した。「孤独を恐れることはない。誰であれ、何かに覚悟をもって挑むとき、人はたった一人で孤独の森に入り込んで、自身と向き合わなくてはだめだ」。彼が極みにたどり着いたと認めたからこそ、人々は引退を想起してしまったのだろう。
五輪に挑む人々は、誰もがこの孤独を背負って集うのだと思う。次に期待をもたせる内村航平選手も、「体操を極める」とまだ中学生の時にたった一人で決めたそうだ。柔道の鈴木桂治選手は孤独の森で、既に自分の限界を見ていたのだろう。それを受け入れるのもまた並大抵のことではあるまい。女子柔道の谷亮子選手が迷いなく「これからは主婦になります」と言えたのは、戦い尽くしたものの潔さだと思う。陸上の為末大選手も、驚くほど思索的な文章を自身のブログに記している。
これから昇る者もいれば、必ず去っていく者もいる五輪は、最高の人生の教科書だと私は思った。すべての人生に必ず訪れるだろう覚悟のとき、あるいは恐れる人物に対峙(たいじ)するとき。われわれを支えるのは、それぞれが闘った恐ろしいほどの孤独の総量でしかないと、選手が教えてくれる。
孤独から逃げずに闘った者だけが、輝きを手にし、悔いのない決断をわがものとするのである。(さかもと みめい)
以上。引用終わり。
北島選手のすごさは、正直私にはわからない。
しかし、さかもと未明にここまで言わせたという点で、すごかったんだろうなとは思える。
自分は、塾を作ったことを死ぬほど後悔したこともあったし、
最初のころは、朝の肉体労働・深夜のバイトがなければ塾を続けられない日々が続いた。
なんども、塾をとっととたたんで別の仕事を探そうとした。
東京まで就職活動に出かけたこともあった。
辞めたいと思いつつ、
それでも孤独から逃げずになんとか戦えたからこそ、今があると思う。
もちろん、何も一人でできたわけでは決してなくて、支えてくれた人たちがいた。
まだまだ自分は孤独の森に入っていかねばならないだろうが、
それよりも今は受験生たる塾生たちにこのコラムを読んでもらい、
その意味を少しでも理解してほしいと思っている。
すべての人生に必ず訪れるだろう覚悟のとき、あるいは恐れる人物に対峙(たいじ)するとき。
われわれを支えるのは、それぞれが闘った恐ろしいほどの孤独の総量でしかない。
さかもと未明のコラムから、
人生で決して忘れられない教訓を得ることができた。