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主語になれるもの、もしくは「動詞の名詞化」について。

いい歳をして英文法の学び直しをしているのですが、学び直しが進むにつれて「英文法っていうほど複雑ではないのではないか?」などと考え始めています。というか、品詞に対する理解を日本語の国文法と照らし合わせて差異なり何なりを認識するべきではないか、と考え始めています。で、今朝なんとなく気づいたのですが、「主語になれる言葉」について一つ見落としがあるなぁ、と。それは「動詞の名詞化」です。動作を名詞化したもの、これが名詞としてワークするわけですよね。つまり不定詞の名詞的用法と動名詞をきちんと「名詞」としてみること。まぁいわゆる「準動詞」などと言われるもの全体の説明の仕方が今ひとつ捌けてないということでもあるのですが。動作を表すいわゆる一般動詞(日本語の品詞区分では動詞なのでことさらに「一般」とつけるべきではないのではないか、むしろBe動詞が特殊動詞なのではないかと最近は考え始めてる)の文章では「名詞化された動詞」は主語にはなり得ませんが、日本語の用言的に見て動詞以外の品詞が述語になっている文章についてはこの「名詞化された動詞」が主語になりうるわけで(目的後や補語はどちらの文でも使える)、ここを整理すると一段見えやすくなるかな、と。

以上、備忘録として。

音楽のジャンルの違いは方言の違いのようなもの

日本のミュージシャンからはほとんど聞いたことがないけど、アメリカのミュージシャンの中で"Musical Dialect"という言葉を使う人を見たことがあります。よく覚えてるのはドラムのピーター.アースキン。2012年にボブ.ミンツァーで日本に来た時に一緒に来てたトロンボーンのMichael Davisにインタビューのビデオ撮影を頼まれて1時間ほどの撮影をした時にその話をしてました。確かに音楽のスタイルやジャンルの違いは方言によく似ているように思えます。

 

最近はあんまり言われなくなったような気がしますが、昔は「クラシックの人にジャズは吹けない」とか「ジャズの人はクラシックが吹けない」なんて言われてたものでした。確かにモーリス.アンドレがジャズを吹いてるのはリズムセクションはジャズだけどジャズっぽく聞こえません。同じジャズでもルイ.アームストロングとディジー.ガレスピーでは全然違います。スキャットを聞けばわかりますが、サッチモもディジーもスキャットの発音が全然違ってて、楽器でもそれと同じことをやってるだけなんです。スタイルによって発音やアクセントが違ってくるんです。つまり、関西言葉を知らない俳優さんの関西言葉のナレーションを聞いた時に感じる違和感と同じものが音楽でも起こってしまうんです。ジャズのソロをトランスクライブして譜面通りに吹いてのオリジナルと全然ニュアンスの違うものになってしまうということであれば、それはアーティキュレーションが違うということになります。今ではウィントン.マルサリスみたいにクラシックとジャズの両方できる人も出てきていますが、それはアーティキュレーションの切り替えがちゃんとできてる、ということなのです。

 

日本人でジャズの知識のない人が吹奏楽でジャズ的なアレンジの譜面を演奏すると盆踊りになっちゃうのはタンギングの仕方が違うからです。つまりシングルタンギングの"T"の発音が日本語と欧米言語では違うということです。それはさっき書いた

 

「方言を知らない人の方言による語りに感じる違和感が音楽に出る」

 

ということに他ならないのだと思います。

 

この問題は管楽器に顕著な問題です。管楽器の中でも特に金管楽器とフルート、すなわち演奏している時に口の中が自由になっている(リードをくわえる楽器は口内の形が制約を受けるのでさほど大きな差は出ない)楽器では非常に大事な問題になります。英語での子音の発音は日本語よりも種類が多く、シングルタンギングの"T"ですら違いがあります。この辺りをきちんと認識して演奏しないとラージアンサンブルでは浮いてしまうのではないかとさえ思えますし、日本人で海外で活躍している演奏家の大半が管楽器以外、すなわち楽器の「タッチ」のコントロールだけでいける楽器であることとも関係あるような気がしています。私自身は昔バリー.ハリスのワークショップが東京でもあった時代にバリーさんからアーティキュレーションは彼をお手本にしなさい、みたいなことを言われたことがあるんですが、それは参加者が全員日本人でその中で多少マトモだった、ということだけなのかもしれません。アーティキュレーションの問題は自分にとって大きな研究テーマの一つになっていて、この数年は音声学の本も読みかじったりしています。アメリカン.ネイティブ.イングリッシュで発音する感覚と同じ感じでジャズを演奏したい、音楽の現場でカタカナイングリッシュは絶対にやっちゃダメ、という意識を常に持っています。もちろん「日本人のジャズ」ってのもあるでしょうが、日米混在なジャズの現場の中で日本人が浮く、みたいなことは回避したいのです。

誰のための災害報道?

以前からもやもやと考えていることを書いてみます。

今朝、台湾で地震がありましたね。現地の被害が大きくないことを祈ります。で、これで沖縄に津波警報がでてメディアがいわゆる災害報道なる大騒ぎをしていましたが、これ、ものすごく違和感を感じました。
「避難しなくてはならない人達はテレビなんて見てるのか?」
ということです。見てないですよね。つまり災害だと騒ぐメディアを見ることができるのは「被害のない場所にいる人」なのです。高みの見物なのです。そしてテレビは全国放送で、しかも現場から遠く離れた東京から実況します。今朝の場合であれば、避難しないといけない対象は沖縄に住む該当エリアに住む人だから数万人程度かもしれません。が、それを全国放送で全国民に「避難!」って延々と繰り返すわけです。はたしてそれをする必要があるのでしょうか?公共放送も民放もこぞって災害報道に切り替えてしまうわけですが、それをする必然性はどこにあるのでしょうか?全国放送にする必然性があるのでしょうか?

これおかしくないですか?

そして画面は固定されたモニター画面を流しっぱなしになります。何も変化のない画面の脇にテロップで到達時間や予測される高さが表示されています。さて、高みの見物をしている私達は画面を見ながら「こなければ良いなあ」と思うかもしれないし、「デカいの来て破壊されるのかなあ?」と考えるかもしれません。もし後者ならば、テレビは災害で破壊される現場をリアルで見たい、というある種おぞましい潜在意識を植え付ける存在になってしまっているのではありますまいか。今回は大丈夫でしたが、本当に災害になったときに、テレビのモニターからの高みの見物で「すげー」「怖ー」って見ているだけということ、すなわち災害を見世物としてみてしまうリスクが隠されてるのではないか、と思えてならないのです。自然災害はそれによって社会インフラや人命が毀損されるから「災害」になるのであって、そうならないならばそれは単なる「自然現象」でしかありません。ならば、被害の及ばない人達にまで現場を晒す必然性はないのではないか、と思えてなりません。私は阪神大震災罹災経験者ですが、震災後にテレビが見られたのは被災からかなり日数が経ってからでした。

この災害報道なるもの、誰のためのものなんでしょうか?