
日本人が抱える意味不明なコンプレックス
多くの日本の人が抱えている変なコンプレックスがあります。都会と田舎、もしくは中央と地方、みたいなのとか。これってものすごく大きな機会損失を作っているように思えてならないんです。なぜって世界中の観光景勝地などの大半はいわゆる「田舎」だからです。そこでしか味わえない景色や文化を味わうために何時間もかけてそこに出向いて「素晴らしい」って思えるのに、なぜか日本国内ではそうはならないんですよね。例えばイタリア。いわゆるイタリア語というのは標準語とされていますが、ローマの人はローマの言葉で、ミラノの人はミラノの言葉で喋るんだそうです。だから喧嘩になると地が出てしまって言葉が通じなくなることがある、なんてことをイタリア人の友人から聞いたことがあります。イタリアが全てとは思いませんが、少なくともイタリアでは自分の生まれ育ち、住んでるところが「中央」なんですよね。こういう感覚が日本では希薄に感じます。中央集権的発想に縛られ過ぎてる感じ。東京だって23区のハズレくらいまでくると同じ苗字の人が固まってる地域があるとか、他の地方都市と同じです。別に東京の人は標準語を使ってるというわけではなくて、東京にだって方言はある(いわゆる江戸っ子的な言葉はほぼ絶滅したように思えますが、ちょっと郊外に出ると北関東の言葉と案外共通する感じ)んです。ただ首都としての機能があって規模が馬鹿でかいだけのことです。いい意味の田舎がちゃんと残っています。東京も田舎です。中央集権的な中央と地方みたいな先入観って損です。日本は観光資源大国であると常々考えているのですが、であればこそ、いわゆる地方が堂々と胸を張って「ウチはいいよ!」っていうのを発信したら相応の国際的な観光需要はあると思うんです。他の世界の観光景勝地がそうであるように英語なんか大してできなくても良いし、無理に飾らず普通にしてれば(ここに外国人がハマるエキゾチズムがあってそれ自体が観光資源であることを認識できてない)良いと思われるのです。中央と地方みたいなコンプレックスと外国語コンプレックスの合わせ技でものすごく損をしてる気がします。近年「日本スゲー」みたいなのが色々なところで見られる一方で昔から「欧米一流、日本は二流」みたいな変なコンプレックスが色々なところで見え隠れしていますよね。ここ、変えられたらいいのになぁ、ずいぶん長いこと考えています。
英語の強調の倒置で気がついたこと。
私は英語は「言いたいことを先に言う言語」と考えています。主語述語が最初に出るのはまさにそれですし、いわゆる一般動詞の文章では助動詞が先頭に出て質問のコマンドのような役目をしているように見えます。疑問詞はさらに助動詞より優先される感じ。副詞を先頭に出したければ一般動詞であれば助動詞のdoを使い、be動詞であれば主述を倒置させると言うオプションルールみたいなことをする、と。第2文型であればいわゆるSVCをCVSってやっても構わないわけです。時々日本語の参考書で見るS=Cなのであればひっくり返しても違和感ないですよねぇ。そう考えるとよく日本語の高校文法の例文で出てくるUp went baloonがBaloon went upであることも簡単に理解できます。
この間音楽を聴いててWild is Loveという曲を発見しました。こいつはLove is wildの倒置ですよね。ああ、こういう使い方できるんだ、ということにとても納得させられました。youtube貼ります。
主語になれるもの、もしくは「動詞の名詞化」について。
いい歳をして英文法の学び直しをしているのですが、学び直しが進むにつれて「英文法っていうほど複雑ではないのではないか?」などと考え始めています。というか、品詞に対する理解を日本語の国文法と照らし合わせて差異なり何なりを認識するべきではないか、と考え始めています。で、今朝なんとなく気づいたのですが、「主語になれる言葉」について一つ見落としがあるなぁ、と。それは「動詞の名詞化」です。動作を名詞化したもの、これが名詞としてワークするわけですよね。つまり不定詞の名詞的用法と動名詞をきちんと「名詞」としてみること。まぁいわゆる「準動詞」などと言われるもの全体の説明の仕方が今ひとつ捌けてないということでもあるのですが。動作を表すいわゆる一般動詞(日本語の品詞区分では動詞なのでことさらに「一般」とつけるべきではないのではないか、むしろBe動詞が特殊動詞なのではないかと最近は考え始めてる)の文章では「名詞化された動詞」は主語にはなり得ませんが、日本語の用言的に見て動詞以外の品詞が述語になっている文章についてはこの「名詞化された動詞」が主語になりうるわけで(目的後や補語はどちらの文でも使える)、ここを整理すると一段見えやすくなるかな、と。
以上、備忘録として。