先日、新聞の書評欄で文学と外国語学習をテーマにした本が取り上げられていた。様々な英語圏文学作品を扱っているそうで、評文では『高慢と偏見』の英文への言及が例に挙がっていた。


書棚からペンギンクラシックを取り出して該当箇所を見てみる。あー、ここか。この用法か。翻訳ではどうなってたかな。そういえばオレ、新潮の"自負"の方しか読んだことないな。他のも見つけたら買っとこうかな


私の好きな著者や先生などには、文学は言葉を学ぶのに適している、という意見を展開する人も多い。


サマセットモームの『Of Human Bondage(人間の絆)などは、まさに上記の人々が言及していたことで興味を持って、大人になってから読んでみた作品だ。


そう、大人になってからモームを読むくらいには、私は文学に無頓着だった。学生時代の先生や友人など周囲に文学好きが多い一方で新書や学術書ばかり読んでいる自分の偏屈さに疑問をいだいて小説なども意識的に読むようになった。


そうなってからは、翻訳を読了した小説などの原文を書き写したり、訳文も参照しながら辞書や文法書を開く、といった学び方が楽しくなっていった。


『変身』

『人間の土地』

『草原に黄色い花を見つける』

『桜の園』

『百年の孤独』


などなど、原文と邦訳がどちらも日本で手に入るものを買って、多くの場合は先に邦訳を楽しんで、それから原文を少しずつ読んでいく。


先に原文を読むのは私の場合、英語の文学作品だけ。他の言語でそれをやるには、残念ながら私の語学力ではキツい。ベトナム語ならニュース記事くらいはなんとか読めなくもないけど、文学となるとやっぱりキツい。他の言語だともっとキッツい。


作中の描写の歴史的、文化的背景や作者のことについて知りたければ、辞書や文法書にとどまらず歴史書や地域研究本なども開いてみる。さいわい、そういった本の堅めの文体には学生の頃から親しんで()いるから大丈夫だ。


外国の言語文化への興味を同じくしながら自分とは読む本の種類が違う人々が周囲に多かったのは良かったと思う。おかげで自分の偏食ぶりに気づいて関心を広げることができたのだから。


人の趣味に傾向性があるのは当たり前のことだけど、閉じ籠ってしまうのは時に害かも知れない。読書も食事も、何事も、偏りすぎて"オタク"になると良くない。