牛久城は龍ケ崎市と牛久市の境界付近、牛久沼と国道6号に挟まれた南北に長い丘の上にあった。今でも深い堀と高い土塁に仕切られた土木の跡が美しい。また城址から北にかなり離れたところに大手門の説明板が立っていて、往時は堀などをめぐらした総構が存在たとのこと。
戦国時代真っ只中の天文年間(1532〜1555年)に北の小田氏の一族岡見氏が築き、東の方にあった岡見城から移ってきた。北の佐竹氏と結んだ多賀谷氏の攻勢にあったことで後北条氏の傘下に入り、対佐竹氏の最前線を担うこととなった。
豊臣秀吉が小田原合戦で後北条氏を下したときに牛久城も落ち、後北条麾下にあって秀吉から赦された由良国繁が城主となった。江戸時代に入って元和九年(1623年)に廃城。のちに牛久の地に封ぜられた山口氏は牛久城には入らず北東の沼のほとりに牛久陣屋を建てた。
いまは大手門跡が市の史跡に指定されているが、遺構の残る主郭まわりは未指定。
この日は牛久の駅から歩いて東林寺城を訪問、引き返したその足で訪問した。
シロウト時代の6年前にいちど訪問していたが、さて今回は何が見えてくるか…
大手門跡から城中地区を往く
国道6号の牛久土浦バイパスが途切れているICの傍らに、大手門の説明板が立っている。
いまは住宅地になっていて面影はまったく見えないが、ここに堀で仕切って土橋を渡し枡形虎口も備えた大手門があったようだ。
土木の跡が残っていたなら、さっき見てきた東林寺城の、御城の虎口みたいなやつかな…?
少し進むと、得月院。
開基1594年、小田原合戦ののち入城した由良国繁の母妙印尼輝子が開いたとのこと。
通りを挟んで反対側に駐車場があるが、ここは市営の観光駐車場で、城を訪れるときに利用出来る。
その裏手の少し低い所に、城中街道という道が通っていたので、入ってみる。
空堀のようなものかと思ったら、丘から降りて裾を通る道のようだ。
道はすぐに終わってしまい、ほかの場所に出ることはできない。
だが、道の西側は城の切岸のようだし、小さいが周りの斜面が鋭い谷戸のようなところへ降りていて、城っぽい面影が濃いぃ空間だった…
この奥の方で城中地区と中城の間に食い込む谷戸にぶつかり、そこには空堀状もあるらしい。ただ民家の庭に不法侵入になる可能性が大。この道の終点から奥へは入らない方が良い。
得月院の前まで戻って、さらに城内方向へ。
道の右側には愛宕神社の鳥居が⛩️
さらに先へ行って、城址看板のほうへゆく道を左に分けて下って行ったところに、小さな谷戸。
南の牛久沼の方から城の西側を通って入ってくるこの谷戸、幅30メートルぐらいあるようす。
大手門から城内側のこのあたりも上は曲輪だったのだろうが、けっこう起伏がある。
東側が尾根みたくなっているような感じだが、完全な住宅地でよく分からなかった…
道も谷戸の上でクネクネと曲がりながら、城址のほうへ向かっている。
このあと見た城址入口の説明板によると、この谷戸の上が城中町と中城の境になるようで、ここも狭く土橋のようになっていたようす。
木戸口へ
さて、城内の道に戻って、城址の入口たる木戸口に向かって、直線路を南下する。
そして、正面が森になる広場から、森の中へ向かって入ってゆく道…
この森が、城の中心部になる。
傍らには説明板が立っている。
この縄張図がとても役に立った✨
6年前に来たときから作り直されたようだ✨
木戸口の前まで進む。
車は入れないよう規制されているが、人は問題なく入れる🙌
ここから振り返る中城。
広い平坦地で、曲輪というよりもはや町だったか、という感じ😮
では、城の中心部へ💨
(牛久城 その2に続く)
(2025年10月7日 記)






















































































































