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馬越城は中部横断道八千穂高原ICから大石川を1kmほど遡った右岸の段丘上にある。川沿いを八千穂高原へと登ってゆく国道299号とは川を挟んで反対側で、城へ行くには少し下流から対岸へ渡ることになる。

歴史などは全く分かっていないようで、現地の説明板でもまったく言及されていない。


この日はここが朝イチで、8時頃にはすでに日向は刺すような強烈な陽射しで暑くなっていたが、標高の高いこのあたりの日陰はまだ涼しく、なかなか気持ちの良い中でのスタートだった。


現在位置(Googleマップで)

投稿日現在、Googleマップ上では説明板の位置にピンが打たれている。

国道299号を中部横断道八千穂高原ICから少し登り、大石川右岸の林道へと入ってゆく。

左側が江戸時代に掘削されたという馬越用水が流れる森の中、その反対側に標柱と説明板が立っている。

 

この説明板の裏側が城域。

縄張図の類は全く無さそうなので、この説明板の説明が頼り💦

道から入ろうとするとヤブの突破が必要だが、少し麓側の水道施設の脇から入ればラク。

 

森の中に入ると、やや奥に向かって傾く広い平坦地に出た。

これが北側の曲輪か。

 

その麓寄りの段になっているのが、城の北端を区画する堀切だろうか。

こちら側は2メートルぐらい高くなっているが、向こう側はそれほど掘られていないようす。

 

この堀は、そのまんまの浅い断面で西側の大石川沿いの斜面に出ている。

城内側に細いやつが分岐しているみたいだな…

 

この分岐した堀みたいなやつ、曲輪の西の端に出て段丘崖の内側を並走している😮

 

この堀を南へ追いかけてゆくと、この曲輪の南側の境界になる空堀に突き当たっていた😮

なかなか魅惑的な風景✨

 

この細い溝は説明板では言及されていないので、遺構なのか後補なのか判別する手がかりが全く無い…

 

突き当たった空堀から大石川に向かって斜面を降りてゆく竪堀も、浅いけどハッキリ見えている✨

 

この空堀も、浅い😮

幅は7〜8メートルぐらいあって、かなり広い。

ちょうど説明板の真裏から城の長軸と垂直に交わり、大石川ぎわまで一直線に区画している。

 

そして、ここも南側が高くなっている。

この側壁が見事✨

 

このあたりが、いちばん城の雰囲気を感じられるところかな😊

なお、この堀は車道からも説明板の背後を注意して覗き込めば見つけることができる。ただしその辺りから入城するとヤブ突破が必須。

 

この斜面を、崩さないように注意しながら登ると、向こう側の曲輪。

大石川の斜面に面したところは緩傾斜の斜面だが、少し道路側に戻ると平坦になる。さっきの曲輪より西への傾きは少ない感じ。

 

ここから見下ろすさっきの空堀は、なかなか見事✨

 

曲輪は膝下ぐらいのササに地面が覆われ、その下に倒木とかが散乱している。

それなりに生き物を育んでいそうな感じ、真夏に城内を探索する◯態にはイヤな感じ😂

夏休みにマム君🐍に立て続けに出会って、まだ怯えてる…🤣

 

この曲輪には竪穴とかがあったとのことだが、🌿🌿の中をけっこう探し回ったものの全く見つけることが出来なかった😅

諦めて南へ進んでゆくが、けっこうだだっ広い😮

進むにつれて、大石川の斜面が迫ってきて傾きが急になってくる。

 

そして、その先に竪堀なのか自然の小さな沢なのか…

ごく浅い溝が、大石川に向かって落ちていた。
斜め後方に向かって落ちているような感じ。

 

この向こう側には、説明板にある通り狭い平場が続いていた。

 

大石川へ落ち込むところは、いかにも切岸のように鋭いが、ここは城内なのだろうか…?

 

この空間は、やがて左側に一段高くなった畑が迫り出してきて、その下に埋もれるような形で終わっている。

これが後補で盛ったものなのか往時からのものかは分からず、城の南端も城内に4条あるという堀の残り1本も、けっきょく確認することはできなかった。

ここまでに見ることのできた遺構の位置は、こんな感じだろうか。

(電子国土webの図上に筆者作図)

 

けっきょく、大石川と背後の山との間にできた段丘利用の城ということは分かったが、どんな目的とか設計思想とかを持つ城かは良く分からなかった、というのが正直なところかも…

とくに、丘城には必須と思われる城と背後の山との間を区切る堀みたいなのが見えなかったので、気になった。

ひょっとして道の脇を流れている馬越用水が、空堀跡をトレースしたやつだったとか…?

 

★馬越(まごし)城

長野県南佐久郡佐久穂町千代里

説明板の反対側の路肩にスペースあり。

丘城

 

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(2025年9月3日 記)

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北東側の天神峠から尾根を辿って到達した、駒宮砦の主郭🙌

ここから先へは、南側にあるという虎口を先ずは探してみる。

南の縁に沿って東へ向かっていると、下の方に大きな帯曲輪があるのが目に留まる😮


そして、主郭の中心より少し東まで戻ったところにある、このわずかな凹みが虎口か。

下へ落ちる動線はなかなかの急坂で、スパルタな虎口だ😨


で、ここから降りてゆく。

少し下った左側には、投石にお誂え向けぐらいな大きさの石がたくさん転がっている。

ただ、曲輪の中でなく外に転がっているのは…🤔

石垣なんぞも有りようの無い砦だし…


そして、ある程度降りてゆくと導かれるように帯曲輪に降り立つ。


全体はバドミントンコートより少し細長いぐらいで、東の方はササで覆われているが真ん中より向こう側はクッキリ見える。


そして、この帯曲輪の西側に、さっきの大きな堀切が横たわっている。

ただ、この帯曲輪の脇では浅くなってしまって、よく見えない…


曲輪の端には土塁が積まれていた。

これが堀切との間の仕切りか。


主郭の西側に横たわる堀切も東側と同じような感じで、外側が土塁に仕切られ、主郭側の城塁が5メートルちょいぐらいの土壁になっている。

堀切の外側がシッカリ土塁している✨


堀底は、🌿🌿が濃いぃ😂

西の方がよりクリアーに見えたので、こちら側を。


この下の曲輪が城内西側を占めているが、主郭に近い側は北側がやや高く、全体にも外傾している感じ。


西の端近くに行くと、平坦になる。


ここにも南側に虎口らしい竪堀状が入り込んできているが、そうとうな急傾斜😨

やっぱり中世山城はスパルタところが結構多い…


そして、この曲輪の外側を仕切る堀切が、またデカい😮

下草もほとんど無くて、土の曲線がクッキリ見えるのも高ポイント✨


ここは南の虎口から降りてみるか。

 

虎口の真ん中の竪堀状は急傾斜過ぎるので、外側の土塁状から降りる。

竪堀状は少し降りると右へ大きくカーブし、曲輪の南縁に沿って水平に進むが、城の西端の堀切にぶつかって終わっている😮


向こう側を登ってゆく堀切。

ここからさらに2メートルばかり掘り下げられていて、かなり大きい。


この堀切、この砦でいちばん断面がデカいようで、深さが2メートルばかりある。

両側への竪堀は、南へはしっかり落としているようだが、北側はすぐに終わっていて斜面まで落ちていなかった。


外側の土塁、というか尾根の削り残しだろうか。

ここもしっかり残っていて、外側に向かってなだらかに裾を引いている。


砦はここまでのようで、西の方はなだらかに降りる幅広の尾根になっていた。


ここまでで撤収💨

 

ちっこい砦と聞いていたけど、なかなかどうしてデッカイじゃん✨

堀切もバッチリ入れていて、凝った縄張りでは無いけど土木の力の込められっぷりが伝わってくる砦だった。


となると、やっぱり乱世の緊張感を肌身で感じてたんだろう。この砦…


★駒宮砦

山梨県大月市七保町葛野

登城口前に普通車5台分程度の駐車スペースあり。

山城

 

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(2025年9月1日 記)

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駒宮砦は大月の町中から葛野川沿いに4kmほど遡った左岸に東から降りてくる尾根の末端にある。北側の麓に集落があって今の登城ルートもここからスタートになる。

城のある山は御前平もしくは天神山と呼ぶようで、かつては神社が建っていたと地元の方から聞いた。

歴史はまったく分かっておらず、位置や遺構などから戦国時代に甲斐武田氏の対武蔵方面の最前線を担った小山田氏の砦か烽火台と考えられているぐらいらしい。

飛騨・越前方面からの遠征の帰り道、早めに帰ってくるようにしたら時間に余裕ができたので立ち寄った。


現在位置(Googleマップで)

葛野川にかかる橋を渡って、集落の中まで入ってゆく。

登城口になりそうな辻の近くに車を停められそうなスペースがある。集落の中なので大人数で騒いだりしない方が良かろう。

歩き始めはコンクリ舗装された道。


最後の民家の前を通り抜けると、🌿🌿の道、そして森に入って山道になる。

砦ではないけど、ここから登れる天神峠や麻生山への道標が立っている。

これがあると安心して入って行ける✨ホント有難い🙇


なお、道標にある麻生山は天神峠からさらに距離5km、比高800メートルを登った先にある。1日がかりの軽登山になるだろう。

さてコンクリ舗装された道は最終民家までで、通過すると一気に緑が増える…

一部ササが深くてトレイルが見えないほどなので、足元注意で登ってゆく。

尾根が近づくと、竪堀状でカーブしてゆくようなところもあった😮

こういうのを見ると、つい砦関連かと…😂


ここからは浅くなりながらもずっと竪堀状で登ってゆき、やがて前方が峠のようになってくる。


しばらくで天神峠らしい尾根上に出る。

麻生山への道標は左を指しているが、砦は右。


ここから尾根上はササが濃いぃが、東側に少し外れると下草のない杉林なので、そちらから進むのが良いだろう。


しばらく水平な尾根を南西に進んでいき、鞍部を過ぎると疎らなササに覆われた緩やかな登りになる。

砦の手前まで一登りする頃には、すっかり雑木林の尾根になっていた。


そして砦の前まで来ると、再び登り。

上に10メートルばかり登っているのが見える。


そして、あと少しで上に平場らしいものが、という手前がそそり立つような土壁になっている😮


その裾には…


あった〜🙌


さほど大きくはないが、薬研のV字の名残は分かるぐらいに切れ込んだ堀切が、土壁の裾に横たわっていた。

ここが砦の東端で、特に南への竪堀がハッキリ残っている。


いやいや、これだけ残っていれば十分っすよ✨


ここは土壁の右側から踏跡が登っているので、そちらへ。

曲輪に登りつこうというところで、早くも奥が盛り上がっているのが見えてくる。


上の曲輪は、テニスコートぐらいの広さか。

奥に主郭の盛り上がり、末端の堀切に面した側も少し高くなっている。


そこから、いま越えてきた堀切を見下ろしてみる。


樹木がジャマだが、それが無ければ尾根伝いに攻め込んでくる寄せ手を迎撃するキルゾーンになるところか。

もっとも小さい砦なので、大規模な攻防戦は出来なかったろう。せいぜい時間稼ぎか…🥺


そして、ここから主郭のところが、さっきの拡大コピーのような感じ😮

高さ5メートルほどの土壁が立ち塞がり、その裾を堀切が横断している。


尾根の幅が広がって横堀のようになっている…

深さはやっぱり1メートルぐらいだが、心持ち幅が広いか…?


両側への竪堀は、ここもしっかり落ちている。


ここは登ってゆく踏跡などは無いので、登りやすいところから登るしかないだろう。
正面右から踏跡らしいものが登っているか。

そして、登りきれば主郭。
堀切に面した側に土塁を盛っているか。

このあたりには、投石にお誂え向きぐらいの石がたくさん転がっていた😨

主郭は下の曲輪より広く、野球の内野より少し狭いぐらいか。形は正方形に近い。

中央南側にわずかな盛り上がりがある。
砦の中には神社があったという地元の方のお話だったが、これなんかは名残か?

反対側も土塁のような高まりがあるようだが、倒木などで少々荒れている…

で、その向こう側には大きな堀切😮
さすがに砦の中心だけあって、しっかり守っている。

めちゃくちゃ傾斜は急だが、ここから降りることもできる。

だが折角なので、主郭の南側にあるという虎口から下の帯曲輪らしいところを見物しつつ降りてゆくことにした💨


大月 駒宮砦 その2に続く)

 

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(2025年9月1日 記)

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阿千葉城は美濃白鳥の中心地から5kmばかり南、長良川の左岸すぐキワの南北に走る尾根上にある。かつてはすぐ下を国道156号が通っていたが、いまは対岸に移っていて、旧道は城下の通り抜け不可。

承久の乱で戦功を挙げた東胤行がこの地にやってきて最初に築いたといわれる。東氏は100年間ほど居城とした後に南の篠脇城に移り、配下の鷲見氏の城となり戦国時代に入ったが天文十年(1541年)に東常慶の命に背いたとして城を攻め落とされ、そのまま廃城になったらしい。


朝イチの揖斐川から岐阜市内、そして郡上八幡ときてラストはココにした。夏休み遠征のラス前💪だが、気温30℃を優に超える暑い中での登城道となった🥵


現在位置(Googleマップで)

登り口は、かつて長良川の左岸を走っていた国道156号が車両通行止になるところ。

ここから北の美濃白鳥方面には抜けられないので、南から入るようにする。


通行止の封鎖の前に駐車でき、登城口には縄張図入りの説明板も立っている。


竹の杖も多数置いてあるので、必要なら使える。


登城道はキレイに整備され、それほど急な登りでもなく歩きやすい😊

ただこの道は、往時のものではないようだ。


7〜8分も登れば、もう山頂らしいところが見えてくる。


比高もそんなに無いし、道はずっと日陰。

虫などさえ何とか出来れば町中ほど暑くもないので、真夏でもこなせると思う。


主郭部に風雅な池が…


そんなことを思いながら登っていると、もう城内に登りつめる。

ここは二の丸に入るところだが、道が後補なのでここも往時の虎口ではないらしい。


二の丸はテニスコートぐらいの広さか。

南〜東側に本丸の高い段がそそり立っている。


真ん中ちかくに立派な石碑が立っている。

城址碑と思ったら義民碑だった。


東側の段。

この上に本丸があり、高さは3メートルほど。


で、石積が嵌め込まれたところがある😮

しかも、その前は坂道のようになっていて、登ることが出来るようだ。


反対側には、これまた周囲に石組みのされた池のような凹み。

井戸にしては風流だな…


で、池の隅っこにはこんなものも…

城なき後、神社や寺の境内になったことがあるのだろうか…?🤔


つづいて、本丸に登ってみる。

トバ口に あずまやが立っているのが目立つが、野球の内野ぐらいの広さがあり、二の丸よりも広い。


奥の方には立派な土塁✨

この上にも石碑が立っている。


本丸はこの土塁で終わりではなく、裏にも空間が広がっている。


この本丸には東から搦手道が登ってきているとのことだが、🌿🌿に埋もれていて全く分からなくなっていた…


三の丸へ


本丸からはどこにも行けないようなので、二の丸に戻ってさらに西へ入ってみる。

どうやら、先ほどの池のような凹みの外側が、石組みの土橋のようになっているらしい😮


土橋から西側は、竪堀状になって落ちている😮

この竪堀のてっぺんを土橋で堰き止めて、貯水池を作ったか…?


そして、西へ続く道は竪堀状の北側を仕切る土塁上にあるようだ。

歩くには少々荒れ気味だが、なかなか立派なやつ✨


土塁上をしばらく下って、竪堀状を振り返ったところ。

🌿🌿がなかなかに強盛だが、けっこう幅があってほぼ一直線。

その先に、尾根を横切る小さな堀切がある。

竪堀状はこの手前まで。

ここから、尾根はさらに少し下り、先に見える鞍部から登りに転じている。


この鞍部に、申し訳のような小さく浅い堀切がある。


自然の鞍部のようにも見えるが、これがちゃんと掘られている😮

もとの尾根線より丸く凹んでいるのが、見えるだろうか…


ここからは、三の丸に向けてひたすら登り。

このどこかに左から大手道が登ってくるということだったが、サッパリ分からず😅

やがて、尾根の北側が土塁のように盛り上がってきて、全体が竪堀のようになる。


北側の土塁。

なかなか大きな断面😮


そして、登りきると三の丸。

ただ、削平されてない自然の山頂のような感じだった。

広さはあるので、建物を建てようと思えば場所は確保できそう。


三の丸を過ぎると、そのままの幅と形で尾根の高度が下がってゆく。

間伐されたらしい杉の木や枝が倒れまくっていて、進むのは少々骨が折れる💦

尾根線を少し西に外すと進みやすい。


そして、鞍部まで下ると…


これ、堀切かぇ😮


それは、自然の鞍部を利用したらしい、やたら広くて浅いものだった。

両側の斜面に竪堀を落としてなさそうなところを見ると、自然地形+α程度っぽい。


向こう側へ少し登って城内側を見てみるが、城があったように見えない…

妄想に困るところ💦


ガチキツ北出丸しかし果てに…


さて、この上には北出丸がある。

見るからに相当上の方、しかも道がない💦

じっさいの比高は30メートルほど、幸い傾斜がそれほどでもないので、歩きやすいところを探して登ってゆく。


堀切の底から2/3ぐらいまで登ったところ。

まだ高いなぁ…💦


じっさい、ここの標高は400メートルを超えていて、385メートルの本丸より高い。

そして登り詰めると、広い平場があるのかと思ったら南北に伸びた尾根状だった。


少し北に、それなりの広さが取れそうな小ピークがある。


それにしても土木工事の跡がまったく見えず、地形も城郭としてのまとまりを見つけ出すのに苦労するような、緩やかな尾根だ。

高原状のピークの北端あたりにも、削平の跡は無かった…


ここから尾根は下っていて、先の鞍部に堀切があるというので、もう少し進んでみた。


そして…


ちゃんと掘ってんじゃんか❗️🤯


こんどは、鞍部の底をキレイに穿ち込んだ堀切が、かなり手前からしっかり見えた。

さっきの出丸の手前のやつとは大違いだった。


とくに、西へ掘り込んで自然の広い谷まで繋いでいる様子が見事✨


東側は痕跡程度になって、やはり広い谷に出て消えていた。


城はここまで。

大きく登って降りての北出丸の先までよく行けたと、我ながら満足🙌


これにて撤収💨


始まりは鎌倉時代だったが、これだけの遺構は戦国時代まで使われてたろうと思っていたら、やっぱりそうだったか…

そして、南の松尾城とともに東家内の相克で幕を下ろされたか…😢


★阿千葉城

岐阜県郡上市大和町剣

旧国道の通行止封鎖の前が登城口。ここに駐車も可。

山城

 

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(2025年8月29日 記)

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松尾城は『道の駅古今伝授の里やまと』のすぐ近く、大間見川左岸の丘の上にある。川は城の西端のすぐ下を流れていて、堀代わりにしたような立地。

承久の乱での功績によりこの地を与えられた東氏の一族野田氏が築いたが、南北朝の戦乱が収まろうかという頃に土岐氏の下にいた池田将監、あるいは本家の東氏に攻め落とされたと伝わるとか。


この日は越前方面への遠征からの帰り道、岐阜市内から板取川沿いを通って郡上八幡まで来た。途中思いのほか混雑したものの、昼過ぎには訪問をスタートすることができた。


現在位置(Googleマップで)

城は、道の駅からすぐ東、大間見川の対岸にある。

県道317号を少し登ってゆくと、対岸に緑の山が見えてくる。

ガードレールの向こう側の森の中に、城の主郭が眠る。


橋を渡って、突き当たりを右に曲がって登ってゆくと、100メートルちょい行ったところで左後方に登ってゆく道が現れる。

これが登城口で、標柱が倒れている…


中腹を、物置小屋のようなもの二つほどの間を縫いながら、つづら折れで登ってゆく。

ここは平坦ではなく、小屋は斜面上に立っている。


そして、特に虎口なども無く主郭に出る。

斜面がそこそこ急傾斜なのが、城の面影をとどめるか…


そして登るとテニスコートよりも狭いぐらいのコンパクトな主郭。

削平はきちんとしている。


東側が山続きで仕切るものが何もないか?と思ったら、ちゃんと城外より一段高くなっていた。

ヤブが猛烈で詳しい様子は窺えなかったが、堀切までは入っていないように見えた…


奥の方に城址碑が立っていた。

錆びついた屑カゴとかも置かれていて、一度は公園にしようとした跡が偲ばれる…😢


 西の方、大間見川に面した辺の斜面は鋭く、切岸加工もされたような感じだが、あいにくの🌿🌿で見えず…


で、この城は南側に虎口があって、下から道らしいものが入ってきている😮


下から見た虎口。

浅いし幅が異様に広いので後補っぽい感じがしなくもないが…


虎口から出た道は、すぐ下で右に折れて急角度で下ってゆく。

こういう折れたところが見渡せるのは、広角レンズの威力✨


この道を降りてゆくと、15メートルぐらい下で曲輪に行き着いた。

大間見川により近く、出丸みたいな位置に突き出した感じ。


全体に少し外傾しているが、バドミントンコートぐらいの広さがある。

そしてここからも下に降りる道が続いているが、虎口のような造作は無かった。


降りてゆくと、道は不鮮明になる…

が、草刈りされている✨

降りていって水音が近くなってきたと思ったら、🌿🌿の中に階段が埋もれていて、城の北を流れる沢沿いに降りることが出来た。

沢沿いを登ってきた道はここから城に向かって登っていて、もともと登城道だったか?


そして、城は田切のように切れ込んだこの沢も活かして築かれたに違いない✨

小さな城で背後の山続きが弱いような感じに見えたが、伊那谷に多くあるような田切地形を生かした城のミニチュア版のように見えた。


★松尾城

岐阜県郡上市大和町大間見

駐車場無し。『道の駅古今伝授の里やまと』から徒歩10分ほど。

丘城

 

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(2025年8月28日 記)