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鷺山城は岐阜の中心地から北に6kmほどの住宅地の中にある。平地の中にボコッと盛り上がった鷺山一帯が城で、東の麓には堀で囲まれた居館があったという。

その歴史は12世紀末の文治年間にまで遡り、佐竹常陸介秀義が居城にしていたとか。その後は土岐氏の城となり、戦国時代の一時期は美濃の守護所が置かれたこともあった。

天文元年(1532年)土岐一族の相克の中で土岐頼芸が枝広館ついで稲葉山の麓に移り、最後は斎藤道三の隠居所となったが、弘治二年(1556年)の長良川の戦いで道三が討たれると廃城になったらしい。


揖斐川方面から道草を食いつつ東へ進んで岐阜市内に入った時にはもう昼近く、カンカン照りの猛暑の中で駐車場探しに手間取りった😅

 

現在位置(Googleマップで)

麓には立派な駐車場が出来ていた。

公園利用者と北野神社参拝者の駐車場とのこと。

 

駐車場の眼の前、やや隅の方だが一段高くなったところに城主館址の石碑が立っている。

黒御影石の重たそうなやつ。


往時は駐車場の北側あたりから一辺200メートルほどの堀と土塁で仕切られた館があったことが分かっているが、いまはそれを偲ぶものは全く無い…

が、見ると山の麓が段々に造成されている。

法面はコンクリ石垣だが、これも居館みたいな部分だろうか…


そんな真ん中を、道はズンズン登ってゆく😮


公園化されて、あずまやや柵などは作られているが、いかにも居館っぽい雰囲気✨


ここから、山頂に向かって登ってゆく。

けっこう急だが、階段などが付けられた公園の園路だな。


少し登って、早くも上が見えようかというところで、左の山頂への分岐があった。


ここは左に入ってみる。

こちらも階段道だが、入ってすぐ左へカーブするところの正面に、何やら竪堀状が刻み込まれていた。

すぐ上で終わっていたが、往時のものか?


階段をさらに登ってゆくと、間もなく尾根に出る。

ごく狭い平場があって、端っこに あずまやが立っている。


山頂へはさらに緩い坂道を登るようなので登ってゆくと、間もなくバドミントンコートぐらいの広さの山頂に出た。

ここが主郭でもあったらしい。


石碑と、説明板が立っていた。


ここから、道は奥に向かって下ってゆく。

この下、太子堂の立つ曲輪との間に堀切が横たわっているのだが…

見るからにデカくて、しかし浅そう…

階段道を降りてゆくと堀底に降りられる。
ここは園路の通り道にもなっている。
向こう側一段上に太子堂が立っているが、その間に横たわる堀は意外と深さが残っているみたい✨

太子堂のあるところが北側の曲輪のようで、いまは階段で登っている。
だいぶ緑に覆われているな…😮

曲輪は…完全に🌿🌿の園だった😂
町中の公園といえど🌿🌿の生命力は容赦してくれないらしい💦

というわけで、ここから北の方の探索はムリそうなので、ここまでで撤収することにした。
帰りは、往路で通った尾根の裾を通る道からにした。
斜面の傾斜はふつうの山という感じで、この高低差と傾斜で守っていた城か。

それにしても山上の城はコンパクトで、守護所どころか国衆の詰城にしても小さかった…

この山はやっぱり詰城のようなところで、主要部は麓の堀の中にあった、ということなのだろう…?


★鷺山城

岐阜県岐阜市鷺山

南東の鷺山公園に駐車場あり。狭い路地へ入ってゆくので注意。

山城

 

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(2025年8月27日 記)

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牛洞陣屋は大野町の西端ちかく、三水川が山間から平地に出てくるあたりに構えていた。ちょうど北側の山を背に、三水川を西側の堀代わりにしたような立地。

延宝五年(1677年)に旗本戸田氏胤が築いた。この家は大垣藩戸田家の分家で、氏胤は父氏照の知行4000石のうち3500石を引き継いだ。

いまは郭内が民家の庭となっており大野町指定史跡、また東に5km離れた同町稲富地区の民家に表門が移築されていて、これも重要文化財。


朝イチで登った北方城から撤収する頃には真夏の強烈な日差しが照りつけ、わずかな時間の訪問だったが大汗をかくことになった💦


集落の中の狭い道を山懐まで入ってゆく。

山上ではなく懐に築くあたりが、戦国時代とかの城とは違う陣屋の建て方、なのか…?


現在位置(Googleマップで)

やがて、立派な石垣が道の右側に立っているのが見えてくる。この右奥が陣屋か。


すぐに、門らしいところが見えてくる。

中は民家なので、表だけ。


石垣は、近世の城とかとは違った、石が細かく不揃いな打込み接ぎといった感じ。


少し進むと、道の反対側に高札場跡の石碑が立っている。


この右奥、陣屋と通りを挟んで反対側には長念寺というお寺さんがある。

開創1244年という古刹で、陣屋と何らかの関係があってもおかしくなさそうだが、確からしい情報は無かった…

 

このあたりで郭内が段になっていたらしく、石垣も一段高くなっている。


この手前側が陣屋の門だったらしく、見事な石畳が敷かれている。

ただし民家の敷地内なので撮影は遠慮。

隣には史跡の標柱も立っている。

 

この角の石垣は、周囲よりも大きな石を位置合わせして積んでいるようだった。


中が民家なのでようすは分からないが、石垣などを普請したのはこちら側だけで、山側や西を流れる大谷(平地に出て三水川)に面した側には何もないようだ。

 

さて、この陣屋にあった移築門が5kmほど東の稲富地区にあるようなので、そちらへも行ってみる。

が、こりゃ完全な民家だわな…


門の外に駐車場もあるし、この写真だけ撮ってそそくさと退散💨

こういうところに残る文化財、なかなか難しそう…


★牛洞陣屋

岐阜県揖斐郡大野町牛洞

郭内は民家で見学不可。表の石垣鑑賞が主となろう。長念寺の駐車場が見学に利用できるかは未確認。

平城

 

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(2025年8月27日 記)

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北方城は揖斐川が山間から出てくるあたりの左岸に盛り上がる、その名も「城山」の頂上とその周辺にあった。

後醍醐天皇の建武新政が失敗して南北朝時代に突入する建武、延元のころに吉田休三入道が築き、越前方面で敗れた堀口貞満がこの地に退いてきたことで南朝方の有力な拠点の一つとなったらしい。

いまは桜の木が植えられ「城山さくらの森」と名付けられて公園化もされ、地形の改変もだいぶ受けているようで往時の面影を偲ぶのは難しいだろう。


夏休み遠征も6日目になり、前日までいた越前方面から夜のうちに冠山〜徳山湖と通り抜け、朝イチに訪問した。


現在位置(Googleマップで)

今回は乙門の北の方から登ってみる。

車道なりに登ってゆくと、途中の墓地少し上から分岐してゆく道がある。

これは旧北山街道らしい。


傍らには説明板も立っている。

このすぐ上に武家屋敷があったということだが、道の反対側に見える、この斜面の上だろうか…?


ここは斜面を登らなくても少し上から入ることが出来る。

かなり広い平坦地で、山に抱かれていて家臣団とかの屋敷だったらしい雰囲気はある。

もちろん往時の切岸とかは形をだいぶ弄られたのだろうけど…

さらに上にも曲輪らしい平場があるようす…


道はすぐ先でヘアピンカーブで左に曲がり、この平場の横を通り抜ける。

ここもそれなりの広さがあるが、少し外傾している。


そのすぐ上から「くつろぎの小径」なる石畳の道が登っている。

これは出丸へと登ってゆくらしい。


そのすぐ先でコンクリートのタンクのような施設のある谷のようなところを通るが、ここは本丸と出丸を仕切る堀切だったらしい。


せっかくなので、「くつろぎの小径」から出丸へと登ってみる。

緩い登りで上に見えてくるピークの裾を通り抜けてしまうのかと思ったら、ちゃんと登ってゆく。


そして、出丸らしい小ピークに横付けで通過してゆく。

出丸は「くつろぎ広場」という名前が付いているようだが、案内などがもう読み取れなくなっている…

それでも、少し丸いピークだが城の曲輪らしい雰囲気は漂っていた。


出丸から東への尾根続きは、虎口や堀切などは見えなかった。

園地全体が何でもかんでも改変、遺構が消しまくられたような感じではなさそうなので、これは自然のままに近いのだろう。


さて、くつろぎの小径を戻って車道に出る。

この先で丁字路になっている。

右に曲がってさらに城山へと登ってゆくと、終点は小さなロータリーになっていた。駐車場も無い。


ここが二の丸だったらしい。

 

ここには「城山さくらの森案内図」が立っているが、だいぶ草臥れているようだ…

城跡なことを意識された様子が全く見えない園地のようすが、また…😮


見れば、隣に立派な城址碑😮


で、それらの裏が城塁っぽく盛り上がっている😮


ここが城内最高所で、切岸の雰囲気を残したコレがあれば、十分✨

本丸に向けて、コンクリ舗装された坂道を登ってゆく💨


登った本丸には、あずまやとかコンクリの土管とかタンクみたいなのとか、よく分からないものが立っている。

しかし中央部は空いていて、しっかり削平された空間は山城の曲輪らしい雰囲気だった。

広さは野球の内野ぐらいか。


樹木があって展望は少し遮られるが、揖斐川町方面が見渡せるようだ。

朝方にはモロ逆光になるが…

 

周囲の斜面は、思ったよりなだらか…


端の方にひっそりと立つ城址碑…

手を入れられまくっているようだが、これでも町指定史跡だそうだ。


築城が建武とか延元とかだと、この時代の武家の城はろくに土木工事をせず自然地形のまま駐屯するのがふつうだったようで、もともとハッキリ見える遺構のない城だった…のかな?

それにしても、見事に桜の公園に変えられたこの城、諏訪の桜城と同じくそろそろ大規模リニューアルが要りそうな…

 

★北方城

岐阜県揖斐郡揖斐町北方

公園化されているが駐車場は無いようす。本丸下の車道終点は狭いので注意。

山城


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(2025年8月26日 記)

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西光寺丸城は城砦群の東端に構えていて、木ノ芽峠からは300メートルほど南東に離れている。

織田信長との戦いのときには西光寺真教が守っていたのでこの名があるという。結局このときは背後の越前府中(いまの越前市中心地)に攻め込まれたことで城砦群にいた軍勢は撤退し、ここでの合戦は起こらなかったとのこと。


北西の鉢伏山城から順番に訪問していたこの日のグランドツアーだったが、峠のすぐ脇にある木ノ芽峠城は民家の敷地の可能性があるため登らず、反対側の端にあるこの城でラストにした。

 

現在位置(Googleマップで)

西光寺丸城の登り口は、木ノ芽峠の下をだいぶ過ぎたこのあたり。

道はハッキリしていて送電線巡視路にもなっているようだが、標柱ぶっ倒れてる…💦


最初は斜面を少しずつ登っていた道は、間もなく階段になって直登してゆく。

そして、ほどなく尾根上へ。

西光寺丸城は左、木ノ芽峠城は右。


左を向くと、もう城塁が見えてくる😮

ここは、右側へ入ってゆく階段道を登ってゆく。


登ればすぐに主郭かと思ったら、虎口の前の馬出状に通される。


虎口はすぐ奥、土塁に切れ目が入っている。


主郭に入ろうとしたら、なんと虎口に説明板が立っている😮

いちおう、一度は歴史公園みたく整備されたらしい…😢


そして、主郭。

テニスコートより少し広いぐらいか。

樹林が上空まで覆っていて、展望はもちろん空も見えにくい…


中央に、この城を使ったという真教法師の石碑が立っている。


主郭は、全周土塁に守られている。

観音丸城に比べると低いが、それでもちゃんと守っている。

そして、もう一つの虎口が東側に開口している。


この虎口の外が、なかなか色々なものを見られて面白い。

まず、虎口の外の空間は南に向かって広がっている。虎口から外を見ると正面の土塁で行き止まりになっているように見える。


その南側には、主郭と同じくらいの広さがある空間が広がっている😮

曲輪だろうが、やや凸凹が多い。


この端の方に、また虎口らしいものが開口している。
外の尾根は南東に向かって続いており、ずっと進むとやがて栃ノ木峠に出る。

虎口から出ると、曲輪を囲うように空堀が伸びている。
南の方は右に緩やかなカーブを描いている。

北側はヤブになっていて分かりにくいが、直線的に伸びているようす。

で、ここを外から見ると…
中央に土橋、両側に空堀が伸びていて土橋を渡ると虎口。
だいぶ大人しくはなっているが、教科書に出てきそうな土橋虎口コンボ😮

こういうところ、何となくつくりが織豊系っぽい感じにも見える…

いっぽう、この曲輪の北側には、折れを伴った見事な空堀✨

東から入ってきて眼の前で向こう側へ折れ、北に向かって主郭の外側を守っている。


こんなところで、こんなスゴイ光景に出会えるとは思わなかった🙌


東へ出た空堀は、今度は下りながら南へ折れて、虎口のほうへ伸びている。

これは虎口まで繋がっているのだろう😮


この他にも南と北に土木の跡が若干あるようだが、強烈な日差しの中を徒手空拳で長時間歩き回ったものだから、もうヘトヘトだった…

主だったところはだいたい収めたので、これで撤収💨

残る木ノ芽峠城は峠に住まわれているお宅の庭にあたり、立入りは了承を得てとのことで、今回は入城せず。


どの城にもけっこう凝った感じの土木遺構がめぐらされていたが、特にこの西光寺丸城は広い平坦地に土塁空堀をめぐらせたところや、大手らしい南東側から主郭に向かって虎口と曲輪でキッチリ序列を付けているような感じが織豊系城郭に似た印象を受けた。

織田信長とは敵対していた一向衆も、持っていた技術とか縄張りの思想は共通だったのか…?

それにしても、これだけの城砦を並べた峠をあっさり回避されて、背後の越前府中を急襲されたことで一揆勢が敗北したのが事実なら、いろいろ示唆するものがあるような…


★西光寺丸城

福井県敦賀市新保

木ノ芽峠付近は車両でのアプローチ不可。今庄365スキー場に車を置いて徒歩。

山城

 

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(2025年8月26日 記)

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木ノ芽峠からは北西に1kmほど離れた鉢伏山城からスタートした木ノ芽峠城砦群グランドツアーは、続いて峠の西側にある観音丸城にいたった。

ここには一揆勢の総大将たる下間頼照が本陣を置いたともいわれるとか。

木ノ芽峠を挟んで木ノ芽峠城と反対側にある。両者を一体とする見方が支配的らしい。

 

コンクリ道が尾根から降りてゆく手前で樹林の中の道へ移ると、少し下ればたどり着く。

この階段道が右へカーブしてゆくところ…


これが、じつは外側の堀を渡る土橋😮

その右側に、立派な空堀✨


左側は🌿🌿の中だが、こっちもちゃんと空堀になってる。


で、道は右から回り込むように城へ入って行くのだが、城の南側へ入る手前に…

 

でっけ〜空堀っ🤯


こんな人里離れた峠に構えた城とは思えない巨大な空堀で尾根が抉られていた。

写真をよ〜く見ると、右の城内側少し上に段のようなものが写っているが、撮ったときにはもちろん気づかず…😅

それにしても、最早こんなものを掘るのはどうってこと無い、みたいな感じだな…😑

 

ここから主郭へ登る踏跡が付けられているが、まずは道なりに南へ。

左側の斜面も、上まで7メートルぐらいありそう…


で、この先に城址の標柱と説明板が立っていたんだが…

標柱は説明板にもたれかかってるし…

説明板の文字は完全に消えていた😢

このあたりの雪との戦いの厳しさ…あるいは複雑な事情が…?


この裏側から、主郭へ登る動線らしいものが辛うじて残っていたので、そこから登ってみる。

とは言っても、こんなところだったが😂


登りきる直下、主郭の周り。
もしや、石積んでた?


同じく一揆勢が立て籠もっていた後方の燧ヶ城にもガッツリ石垣が築かれていたところを見ると、ここにもあっておかしくないだろう。

そして、主郭はキレイに削平されたテニスコートぐらいの平坦地だった。

🌿🌿で様子はよく分からない…


ほぼ全周が土塁に守られている。

一部は相当な高さがあり、そのせいで曲輪が狭苦しく感じるほどだった。

南側


西側の、大きな堀に面した側が特に高い。


その裾には、武者走りのような狭い段がある。


そして、南西の隅に虎口があるじゃんか😮


ちゃんと土塁に切れ目を入れて、外の空堀との間で往来できるようになっていた。


虎口を出ると、西を這う大堀切の上の方に設えられた段のようなところに出た。ここは堀底まで坂道のように登降出来るようになっていたようだ。

堀底はまだかなり下で、いまは逆茂木のヤブに覆い尽くされているが…😂


ここから外の山道に戻って退城した。

 

そして、すぐ下が木ノ芽峠。

ここには茅葺き屋根の民家が建っているが、前の石畳の道が往時の北国街道で、ここは通れるらしい。

南側から入ってくる切通し、石垣で固められている…



傍らに立つ道元禅師の塔の前に、峠の説明板があった。


さて、峠の反対側に構える木ノ芽峠城は民家の敷地の向こうで、今は入ることが出来ないとのこと。

ここは下の道路に降りて、東端の西光寺丸城をラストにするか。


木ノ芽峠城と観音丸城は峠を挟む一体の城と見られているらしいが、城の標柱と説明板が立っていたところが主郭を囲む土塁の東端、そこから峠までは多少高低差も距離もあったように見えたが、そのあたりは🌿🌿で様子が全く窺えなかった。

見逃した曲輪とか、あったかな…?😅

またまた追試フラグが…💦


木ノ芽峠城砦群 西光寺丸城に続く)


★観音山城

福井県敦賀市新保

木ノ芽峠付近は2025年8月現在車両でのアプローチ不可。今庄365スキー場に車を置いて徒歩。

山城

 

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(2025年8月25日 記)