パッション THE PASSION OF THE CHRIST
メル・ギブソンが私財を投じて造ったというこの映画も、痛い。
見返してみて、宗教画をみてるような気分にさせることに気づいた。
ビル・ヴィオラの映像パフォーマンスを、森美術館でみた事を思い出した。絵画的なコスチュームをまとった人物を超ハイスピードで撮影し標準スピードで再生する。まるで止まってる絵画だが、その実動いてることがわかる。絵画に動きが加わった感覚。構図や光が宗教画を連想させるという意味で、ビル・ビオラの映像との類似点があるかもしれない。
パゾリーニの「奇跡の丘」とスコセッシの「最後の誘惑」にメル・ギブソンの「パッション」が加わる。
「受難」をリアリズムで描くことは、もう今後一切必要ないと思わせる。
なぜなら、この映画が極限まで推し進めて、それを果たしたからである。
「アポカリプト」 APOCALYPTO
APOCALYPTOはギリシャ語で「除幕、新たな時代」を意味するという。けれどこの題名から我々はコッポラの「地獄の黙示録」(1979)のAPOCALYPSE NOWを想起する。実際、マヤ文明崩壊前夜の神殿周辺の様相はカーツ大佐(マーロン・ブランド)の狂気の王国と通じる造型が垣間見れる。
冒頭の狩猟シーンの追跡劇、襲撃と虐殺、異文化の生贄の儀式と後半の追跡劇とが、呼応する形で配置されていて、異文化の衝突に意識が向かった。
初めてみるマヤ文明の表現は、昔観たピエル・パオロ・パゾリーニ監督の「アポロンの地獄」で描かれた古代ギリシアの描写に通じる荒々しさだった。メル・ギブソン監督は映画史的な造型をさらに深化させているのかもしれない。
いい映画とは何か?
それに答えを与える映画である。
未知の世界を我々はみる。アクション(行動)でみせる。
過酷な運命にあっても、生きる力を与えてくれる映画に違いない。
男が自立を果たす為に観るべき映画で、女性が観たい映画ではないかもしれないけれど。
「ニュー・シネマ・パラダイス」 NUOVO CINEMA PARADISO(1988)
エンニオ・モリコーネ Ennio Morriconeのテーマ曲がこの映画のすべてを照らし出している。郷愁と愛惜。そして映画に対する愛。
監督ジュゼッペ・トルナトーレ GiuseppeTornatore は映画の先達に対する尊敬の念を吐露してえる。それは敬虔な信仰にも通じる思いで、舞台となったシチリア島の映画館パラダイス座の支配人は、司祭であったりもする。喜劇的な、それでいてキス・シーンを検閲してカットする司祭は本当は映画の毒に一番先にやられてたのかもしれない。
映画館が大衆娯楽の場だった頃の、観客の描写が秀逸だ。温かく人間を見据える視点が、今はない共同体が成立していた頃の市井の喜び・悲しみを見詰めていく。映画は娯楽だったし、未知の世界へ開かれた窓だった。
主人公のトトが恋に落ちる。若い女性のアップが眩しい程美しい。その美しさはヨーロッパ映画の美しさだ。何故、ハリウッド映画にこのように美しいショットが撮れないのだろうか?それはきっと恋する気持ちで映画を造れはしないシステムのせいだから。
私淑したミケランジェロ・アントニオーニの「さすらい」が上映され、映画のプロット上でも重要な伏線を担う。「いい映画だけれど、わからない・・・」と登場人物に語らせるあたり、トルナトーレの茶目っ気を感じた。アントニオーニは映画を藝術の域に高めた映画監督のひとり。ベルナルド・ベルトルッチは「ドリーマー」で、師匠のゴダールの「勝手にしやがれ」に同様の手法でオマージュを捧げてる。
自分の映画の血脈はと問われれば、イタリアの血が濃いと答える。
ニュー・シネマ・パラダイスを観て、予感が確信に変わった。