大人はどこへ行ったのか? | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

昔、わたしは1歳年上の人であれば随分と立派に思っていたし、二十歳を超えたくらいの人はみんな「大人」に見えていた。

「自分が成ってみると案外そんなことはない」とはよく聞かれる月並みなコメントだが、本当にそんな単純な話だろうか?

 

まず、わたしは「大人」とは相対的な概念だと考えていた。

要するに、自分より年上が「大人」で年下は「大人ではない」といった具合である。

ただ、この分け方だと、自分より年上でも大人とは思えない人の存在を説明できない。

自分よりも年上の人を大人と感じられないことそのものが、今のアニメはつまらないというくらいのエゴだろうか?

 

大人か否かを示す指標として、「家庭を持っている」というのはあるかもしれない。

自分だけでなく、家族も支えているというというのは、人一人が人一倍以上の働きをしていると考えられる。

ただ、仮にこれを年下の(二十歳くらいの)人がしていたとすると、そこに抱くストレートな感想は「大人だなぁ」よりも「立派だなぁ」である。この感覚は、若手役職者や若手社長に対して感じるものに近い。おそらく、そういった人々のことは、自分の延長線上にいるとは思えないのだろう。

 

じゃあ、何故この人々のことを「自分の延長線上にいるとは思えなくなった」のか?

それを説明するのに都合が良さそうな言葉が、最近よく言われる「VUCA時代」である。

つまり、将来が予測不可能になり、個人の人生観がバラバラになってしまった。一昔前であれば、「学校⇒就職⇒結婚⇒子ども⇒退職⇒隠居」というような非可逆な構図があり、年上は必ず先輩だった(少なくとも、そう思い込んでいた)。その構図が壊れたことは、わたしが「大人」を見失ったことと無関係ではないように思う。

 

また、平成時代に起こった急激な変化も、世代間のギャップを大きくしている。

よく言われるのがデジタルネイティブについてである。これは、昭和生まれの人がパソコンのキーボードに四苦八苦しているのに対し、平成生まれは難なく扱えるというような話で、自分よりできない人をどうやって尊敬しろというのか?という考えに結びつく。令和であれば、スマホアプリを使いこなしているか否かは大きい差だと感じる(ただ、スマホは感覚的に理解しやすいように設計されているためか、パソコン程の不便さはないように思う)。

 

もっとも、ここで培った自尊心は、社会に出た後に砕かれることになる。日本の骨格は昭和時代に完成しているので、ただの若者のままではどこかで必ず衝突する。また、仮に進んだ価値観の社会に入り込んだとしても、そこにあるのは効率重視の実力社会だろう。そうでなければ、たまたま運が良かったのだと思う。

 

 

 

まあ、話としてはこんなところで、別に大した内容でもない。

ただ、昨日以下の記事を目にしたので、「大人ってなんだっけ?」と思っただけの話である。

片渕須直監督が「後期思春期」という言葉を用いているが、要するに世界では40代まで思春期として扱われているということのようだ。

正直意味が分からなかったが、どうやらアニメの対象年齢についての話らしい。若いアニメキャラの悩みとか何かに40代が共感して楽しんでいるのが現状ということだろう。

わたしはその辺りの共感力は低いと思っていたが、そういえば未だにアニソンに共感することはある。もしかすると、そもそもそれ自体が未熟なのかもしれない。

 

じゃあ、今時の大人とはなんだろう?

健康寿命を延ばすために夕方散歩している人達のことだろうか?