誰も助けてくれない | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

転職活動し、仕事を辞め、無職となり、就活し、移住し、再就職し、ついにここまで来た。

長い道のりだった。日々、自分の不安定な精神との戦いだった。

これまでの記事を振り返って見ると、その不安定さが良く表れていた。

 

 

 

 

 

 

 

このような経験を通じてわたしが学び、確信したこと。

それは、誰も助けてくれないということ。

別に、「わたしは自分の力で平穏を手に入れた!」とかそういうことが言いたいのではない。

そんなものは100%運である。ただし、挑戦しなければ、勝率が小数点以下というだけの話だ。

 

「誰か助けて」は酷く抽象的な表現だが、これ以上でもこれ以下でもない。少なくとも、当事者はそこで思考が止まっているくらいには追い詰められているのだ。だから、その状況をなんとかして欲しいのである。しかし、誰も助けてはくれないのである。別に、周りの人全員が悪者で、当事者を嵌めようとしているとか、そんなわけではない。むしろ、頼りさえすれば「助けてあげたい」くらいには思うだろう。じゃあ、なぜそれができないのかと言えば、上記で示したように「誰か助けて」が抽象的なままで止まっているからだ。しかも、心の底で本当に求めているものは、「(子どもの頃にしか与えられず、子どもの頃にしか素直に受け取ることのできないような)無償の愛情」のようなもので、そんなもの他人に下さいと言っても、得られないのは道理である。強いて言えば性愛のようなものが擬似的にそれを満たすかもしれないが、そんなものは砂漠に水で根本的な解決にはならないだろう。仮に、その抽象的な感情を全て言語化でき、相手に伝えられれば状態も好転するかもしれないが、そんなことは限りなく理想に近いだろう。

 

「誰も助けてくれない」というのは、より正確に言えば

「誰もわたしを助けられない」である。

漫画「スパイラル~推理の絆~」の最終刊で、主人公がブレードチルドレン(悪人になることが運命付けられている子ども達)に「自分を救えるのは自分だけだぞ」と伝えていたが、その言葉が今更腑に落ちたような気がする。

とは言え、自分で自分を救えるのなら誰も苦労はしない。だから、今のわたしが至った境地は、とにかく祈ること。他にはない。

別に祈る対象はない。神の存在を疑ってはいないが、信じてもいない。推している偶像(アイドル)だってない。とにかく、自分の力量とか行いとか、そんなものとは無関係なところで勝手に人生の方向は定められる。月並みだが、人生は船のようなもので、多くの場合流される他ないのだろうと思う。ガチャに成功した者であれば船が丈夫だったり、帆走術を学んでいたりするのかもしれない。けれども、そんな人はメディアで取り上げらるほど多くはないだろう。むしろ、少ないからこそ取り上げられているのであり、それに憧れる方が本来無謀だ。

「大きな船なら遠くまで行けようが、小船なら陸の近くに留まるべきだ。」
– ベンジャミン・フランクリン シヴィロペディアより抜粋

別に、助けを求めることを否定するわけではない。むしろ、奨励したい。

ただし、助けを求めるだけでは助からず、助かろうとしても助かるとは限らないこと。

おそらく最大の助けになるのは、似たような境遇の人が、そこから脱した方法を知ることではないだろうか?

「筋書きの欠如(スクリプトレスネス)」という言葉があるらしい。

思春期の恋愛で叶わぬ恋に破れた人は比較的回復するものの、叶わぬ恋をされた側は案外引きずってしまうものらしい。この違いは、前者は物語の題材になることが多く、間接的にその心境を克服する方法が示されているが、後者はそれがないためどうしたらいいか分からなくなっているということらしい。

現在、インターネット上では「誰か助けて」に類似する言葉が溢れているが、行き着く先はコールセンターか薬物かスピリチュアルか悪徳商法である。仮に助かった人がいたとしても、身近ではないから共感の対象にはなりえないだろう。

 

とは言え、こういった人生の道に迷う人はこれからも確実に増える。

そうなれば、そういった人を救う方法も徐々に確立されていくのではないだろうか?

ただし、それを確立するのは自分自身ではない。

だから、その日が祈り続ける他ない。