一般的に、休日というのは正しく「自由」と言える。

仕事の心配とかテスト勉強とか身内の都合とかの問題が無ければだが、一般的には「自由」と言えるはずだ。

 

仮に、やるべきことが完全になくなった場合、この「自由」は何に消費されるか?

人間が生きていく上で必要な要素である衣食住娯楽人間関係の中では、「娯楽」が受け皿になることだろう。なぜなら、他の要素には全て限界がある。

例えば、ドル・ストリートの所得レベル4であれば、衣食住を満足させることが(生活水準を下げることをいとわなければ)可能である。

人間関係についても、ダンバー数という上限があり、それを超えるものを求めるならそれは「娯楽」の範疇になるだろう。

つまり、「娯楽」という曖昧で広範な概念が、可処分自由の落とし所として適している。

 

問題は、「娯楽」が過剰に「自由」を吸い取るところにあるだろう。

前述の通り、「娯楽」には限界がないため、基本的には限界のある「自由」ではとても足りない。ならば、「自由」というリソースの振り分けを考えなくてはいけないわけだが、この効率化の思考そのものが「自由」を束縛してしまう節がある。具体的には、「自由」を意味のあるものに昇華しようとしてしまう。これがなんとも不自由である。

極論から言えば、「自由」の効率化の限界は「現世からの解放」であり、要するに「死」である。

死に急ぐのでなければ、やはりバランスをとらなくてはいけないわけで、今回の話のオチも結局「中庸」に落ち着いてしまう。

 

なんというか、人の生き方に関する結論そのものはもうとっくの昔に出ており、言葉や概念としても知ってはいるが、それを理解できていないが故に同じところをグルグル回ってしまう気がする。

どうしてもそれをしてしまうのが人間の本能なのだろうか?