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リーンのガラパゴスサロン~趣味や娯楽の広場

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 山下達郎は2001年9月11日に米国内で発生した同時多発テロのときにも、自らのラジオ番組でコメントを述べていた。


 こんなことが発生したとき、私にできるのは歌を作って“癒し”を与えること。


 自らを洋楽オタクと自称するほどマニアックな選曲を楽しそうに披歴する『山下達郎のSunday Song Book』において異例なほど鎮痛な発言をしたことに、ワールドトレードセンターに飛行機が衝突したことの事態の重さを感じさせた。今年8月に発売されたアルバム『Ray Of Hope』は東日本大震災で傷ついた人のために、それでも達郎の音楽が必要な人にとって心が休まる内容に仕上がっている。10年前のコメントを思い出すにつけ、今回のアルバムは達郎の心の軌跡がずっとファンの心をそっと励まし、日常の片隅でいつも聞いてもらえる音楽であることを目指してきたことの延長戦上にあることを確認できる。


 私はテロ発生当時、東京有楽町のマリオンビルのなかにある某映画館に勤務しており、時折一般公開前の映画を見る機会に恵まれていた。いわゆる同時多発テロがあった翌日、マリオンの目の前にあるニュー東京ビル内のニュー東宝シネマ(現、有楽座)で『ジュラシックパーク3』のプリントテスト(公開前に実際にスクリーンにかけ、音響や画質のチェックをすること)を早朝に拝見し、その後赤い色が少々汚れかかったロビーで例の衝突の瞬間について劇場係員と話をしたことを思い出す。


 当時何をしていたかを鮮明に思い出す社会的出来事は、私にとってはこのテロ事件だけだった。はずだった。


 達郎は翌年2002年にコンサートツアーを行ったあと、2005年にアルバムを1枚発売しただけで対外的にはまったく沈黙してしまったかのように活動休止状態にはいった。私はやむを得ずの転職を強いられ某ファーストフード業界で働くことになり、休日をとることもままならなず、毎日御前様の日々をすごすことになった。達郎はコンサートを行わず、こちらは仕事ばかりで音楽を聴かない日が増えた。転職したら映画を見る機会も極端に減った。毎日、180度に熱された鉄板で焼かれるミートのまるで感覚を麻痺するようなすこし焦げた匂いを嗅ぎつづけ、それをパンに挟むだけの日々が過ぎていった。


 達郎のコンサートがない日々が続けば、ファンであることを忘れるのは簡単だった。


 1998年の秋に山下達郎ファンクラブの会員になり翌年1999年の2月4日、ところはNHKホールで初めてコンサートを拝見した。


「今度コンサートに来るときは、もっと真っ当な男になっていたい」


 2002年のツアーも2回拝見し、いつも何かを心に刻んできた。不思議なもので、コンサートを見るとその後人生の状況が必ず変わってきた。ところが達郎のコンサートは2008年まで開かれなかった。その間、私はただただ焼ける肉の臭いを体に染み込ませるだけの日々を過ごすことになった。


 ようやくコンサートを開くまでに至った達郎の身辺は決して穏やかとはいえない状況が覆いかぶさっていた。スタッフの病死、バックミュージシャンの体調不良と帯同不能による変更、所属レコード会社内部にあったシビアな採算主義、といった難しい問題が山積していた。そこを乗り越えようやく6年ぶりにコンサートツアーを挙行した。そこで達郎が見たものは、人生の困難にあって疲れ、やつれた顔をした中年の表情だった。


「久しぶりにお客さんの顔を直接見るとね、リーマン・ショックなんかもあって、閉塞感みたいなものがあるんですよ。僕のリスナーは40代くらいがコアなので。特に男性の場合、リストラだ、倒産だ、そういうのが顔に出てる。体調も悪くなる年頃だし(笑)」

                   (ミュージックマガジン9月号より)


 私も閉塞感があるリスナーのひとりだ。2010年に東京から田舎に帰り、それこそ人生の第2のスタートを切った。やはり達郎のコンサートを聴きにいくと人生が変わる。けれど、これから出会う状況がいいことなのかはわからない。まだ、なにひとつうまくいっていない。


 音楽業界の激変の中で、今後はコンサートを行うのがこれからの道、と決断し状況を変えてきた達郎だが、なおも所属レコード会社の社長の自殺などに遭遇する。決して運命はいい状況ばかりもたらさない。


 そして同時多発テロがおきてから9年半後、日本で東北地方と長野県栄村を地震、津波、福島第一原発事故などの複合的災害が起きた。いわゆる東日本大震災。テロが起きたとき「音楽で癒しを与える」

と、いった達郎のことばが10年のときを経て実現されるときが図らずもやってきた。


                              (次回に続く)



 

 今回の主人公は中山安兵衛(高橋和也)なんですけど、私には典膳(山本耕史)の悲哀が心に残る。


「主君のいない浪人などそれも出来ぬのだ」


 武士は死に場所を選ぶために生きている。いいかえれば、主君の名誉が汚されたなら、その汚名を被るために切腹することができる。扱っている時代は、太平の元禄のころでしょうか、殉死は禁止されていたのでしょうか。でも、


 武士道とは死ぬことと見つけたり


 と、いったのはどなたか忘れましたが、それが美化された武士道の核心なのでしょう。平成の世に他人のために、上司のために死ぬなどあり得ない、そんなことがまかりとおるのが江戸時代なのですね。恐ろしい時代です。人間は世の中に蔓延する常識を超えられない。タイムマシンで私が江戸時代にタイムスリップしたら、江戸時代の人間は死ぬことばかり考えていると思ってを嫌うかもしれない。だが向こうの時代の人間からすれば私などちゃらちゃらしているごみみたいな奴とみるだろう。異常だけれど、妙にすがすがしい、実に奇妙な死生観が、のんびりと自堕落に生きるこちらを突いてくる。


 浪人となった典膳は道場入門の労を取ってやった安兵衛に助けられるかたちで長屋に住むことになる。気ままな暮らし、朝寝坊もできる。向かいの長屋に住む下女に肩をもんでもらうこともできる。


 しかし、なにか物足りない。


 そんなとき、安兵衛が一世一代の事件を起こす。世にいう高田馬場の決闘。伊予松平藩で世話になった叔父のために助太刀を果たし、6人を殺傷する。おそらく、江戸時代では普通に済まされる出来事だったかもしれないが、なぜか今でいうワイドショーネタになるような好事家に蔓延する事件に昇華する。安兵衛が殺めた人数が6人から、9人、やがて18人に増えるところ、噂が噂を呼ぶところなど実に恰好なネタになっている。太平の時代ともなれば、刺激的な事件が起きてほしいし話題にしたいということでしょう。この時代も江戸時代の中では平和ボケした時代なのかもしれない。


 今回、ようやく歴史の片隅に登場する事件があらわれたが、そんな中で典膳は剣を捨てられずに悶々としているかのようだ。安兵衛が華々しく耳目に上る中、典膳のひそやかな焦り、死に場所を得られない無念さがこの後大きく人生を変えていく。浪人暮らしに堕しないで生きられるか、人生の正念場といったところですかね。

 ウィンブルドンテニス&クロッケークラブが初めてロジャー・フェデラーに背中を向けた。グランドスラムイベントの姿ではなく五輪の服を着たとき、笑顔を向けてきたスイスの絶対王者に悪魔の顔を見せて奈落の底に叩き落とした。


 ロンドン五輪のテニス会場はウィンブルドンではなかった。と、書きたくなるほど、1ヶ月前とはちがう光景がセンターコートに広がっていた。


 紫色のフェンス。


 選手がまとう国旗をあしらった色とりどりのユニフォーム。


 そして、テニスを見に来ているのではなく、地元選手の金メダルを期待する観客。


 第1セットの序盤、マレーのブレークを期待するところからすでに“アンディ・コール”が巻き起こっていた。ウィンブルドン選手権ではようやく試合の最終盤で地元選手を後押ししたというのに。選手がサービスモーションに入ろうとしているのに声援や口笛がなかなか収まらない。ここの観客は静寂と歓声が醸し出すさまがプレーの妨げにならずテレビ観戦をしていても心地いいものだったが、今日はみていて苦々しいものだった。


 男子シングルスの決勝戦は地元英国のアンディ・マレーが6-2、6-1、6-4でスイスのロジャー・フェデラーを一方的に下した。フェデラーが欲したゴールデンスラムの夢は無残に砕け散った。マレーのストロークは重くて深く、ストローク戦では常に主導権を握っていた。一方、フェデラーはデルポトロ戦で時折見せたフォアボレーのミスが今回も続出し、加えてウィンブルドンの決勝では緩急をつけるうえで効果的だったバックハンドのスライスがチャンスボールのようにマレーに叩かれた。そしてアンフォーストエラーが多く、マレーが取りたいポイントをことごとくものにされてはフェデラーはなすすべがなかった。


 優勝が決まった瞬間、マレーは顔を覆って湧き起こる感激をかみしめていた。そしてファミリーボックスに駆け上り家族や関係者と抱擁を交わした。ここにレンドルがいればもっとよかったのに。地元選手優勝に感動した歓声がセンターコートに巻き起こった。フェデラーは荷物を担ぎ身を隠すようにコートを後にした。準優勝者の健闘をたたえる拍手もおこったが、同胞の優勝に湧く観客の拍手がなおも多くそれをかき消した。フェデラーは“銀”色の涙を隠し、うつむいたまま消えていった。グランドスラムの決勝戦の後なら準優勝者もたたえる式典があるのに、五輪は絶対王者を英国民の喜びのいけにえにささげ、残酷に噛み砕いた。準湯勝者をいないものであるかのように扱ったウィンブルドンと英国民を今日だけは許せない。

 のちに行われたメダル授与式でフェデラーがほっとした笑顔を見せたのが救いだった。4年に一度の祭典を勝つのは球技年齢のピークが合う運が必要だ。フェデラーは結局五輪には合わなかった。それはグランドスラムに17回も勝ったが故のことでしかたがないことだろう。テニスとグランドスラムに愛されたフェデラーは五輪には見放された。まあ、それでもメダルを取っているのだから言い過ぎかもしれないけれど。

 試合時間が4時間26分、これはプロテニスの3セットマッチとしては最長時間だという。ロンドン五輪テニス男子シングルス準決勝、ロジャー・フェデラーVSファン・マルティン=デルポトロ。決着がつくのが信じられない試合だった。


 マラソンマッチに勝ったのはフェデラーだった。安堵の表情を見せ、左胸のスイス国家のクロスに口づけをした。もはや勝ち方を知っているとしか言いようがない、神がかった精神力で切り抜けた。デルポトロは涙を流す。絶対に決着がつくのがスポーツ。しかし、テニスのそれはあまりに残酷に過ぎる。


 この試合はフェデラーが負けてもおかしくない試合だった。アンフォーストエラーはフェデラーが多く、覚えているだけでもスマッシュを2本ミスし、決められそうなフォアボレーを何本もオーバーした。加えてフレームショットが多い。一方のデルポトロは肝心なところでファーストサーブをことごとく入れてきた。芝生の試合でサーブが好調だとブレークが困難になる。第1セットはデルポトロが1ブレークを生かして取り、第2セットはタイブレークでフェデラーがものにした。そして、地獄の第3セット。タイブレークがない最終セットはお互いにサービスキープが続く。最初からサーブの調子がいいデルポトロ、徐々に調子を上げてきたフェデラー、お互いの白熱したプレーで均衡が続く。第19ゲームでフェデラーがブレークするが、なんとサービングフォーザマッチの第20ゲームをラブゲームで落としてしまう。フェデラーが攻め急いだ印象だ。そのあとはまたキープが続き、35ゲームで再びブレークして勝ち切った。


 試合後ネットを挟んで二人は抱き合ってお互いをねぎらった。デルポトロは芝生のコートで最高の試合をしたのにフェデラーに勝てなかった。顔を上げることができないほど落胆の表情を見せた。フェデラーが絶対王者といわれる所以は非常なまでに勝ちに徹し冷静さを保てる精神力を持ち合わせていることだ。2007年ごろからナダルと白熱したライバル対決を繰り広げるようになってから、フェデラーはギリギリのところを勝ち抜く精神力の強さが際立ってきた。それが30歳を超えても勝てる要因である。


 この記事を書いているのは8月5日21時30分ごろ。あともう少しで決勝戦が始まる。相手は英国のアンディ・マレー。ウィンブルドンの再戦である。体力と地元の利があるマレーが有利かもしれないが、フェデラーのよりどころは精神力。そして今回は5セットマッチ。また眠れない試合になるだろう。どちらが勝っても残酷な結末が待っているだろう。テニスというスポーツが持つ、敗者に容赦ない悲嘆を迫る瞬間が待っている。

 柔道男子100キロ級に出場した穴井選手は2回戦で敗退した。抑え込みを裏返された形で隙をつかれた残念なものだった。柔道の強化にレスリングなど違うスポーツを積極的に取れ入れたらどうだろうと思った。


 だが、恥ずべきことは負けたあとにおこった。


 勝った21歳のチェコ人選手は試合の後深々と、そしてゆっくり頭を下げ握手を求めた。それに対し穴井はどうしたか。


 ぼんやりとして視線が定まらない様子で、頭も中途半端に下げず、礼も返さなかった。


 礼を失した行為だ。


 畳を降り、コーチに背中をたたかれて涙があふれてきたのだろう、顔を何度もぬぐっていた。ようやく我に返ったのだろう。試合中は冷静な精神で臨んでいなかったと見える。相手の礼に礼をもって返さないのは恥ずべきことである。それが柔の道か?ニッポン柔道か?まともな礼もつくせない選手に日本代表となってほしくない。柔道界は心と礼儀から見直すべし!!