『Ray Of Hope』これが山下達郎の“東日本大震災鎮魂プログラム”(2011.9.11記) | リーンのガラパゴスサロン~趣味や娯楽の広場

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 山下達郎は2001年9月11日に米国内で発生した同時多発テロのときにも、自らのラジオ番組でコメントを述べていた。


 こんなことが発生したとき、私にできるのは歌を作って“癒し”を与えること。


 自らを洋楽オタクと自称するほどマニアックな選曲を楽しそうに披歴する『山下達郎のSunday Song Book』において異例なほど鎮痛な発言をしたことに、ワールドトレードセンターに飛行機が衝突したことの事態の重さを感じさせた。今年8月に発売されたアルバム『Ray Of Hope』は東日本大震災で傷ついた人のために、それでも達郎の音楽が必要な人にとって心が休まる内容に仕上がっている。10年前のコメントを思い出すにつけ、今回のアルバムは達郎の心の軌跡がずっとファンの心をそっと励まし、日常の片隅でいつも聞いてもらえる音楽であることを目指してきたことの延長戦上にあることを確認できる。


 私はテロ発生当時、東京有楽町のマリオンビルのなかにある某映画館に勤務しており、時折一般公開前の映画を見る機会に恵まれていた。いわゆる同時多発テロがあった翌日、マリオンの目の前にあるニュー東京ビル内のニュー東宝シネマ(現、有楽座)で『ジュラシックパーク3』のプリントテスト(公開前に実際にスクリーンにかけ、音響や画質のチェックをすること)を早朝に拝見し、その後赤い色が少々汚れかかったロビーで例の衝突の瞬間について劇場係員と話をしたことを思い出す。


 当時何をしていたかを鮮明に思い出す社会的出来事は、私にとってはこのテロ事件だけだった。はずだった。


 達郎は翌年2002年にコンサートツアーを行ったあと、2005年にアルバムを1枚発売しただけで対外的にはまったく沈黙してしまったかのように活動休止状態にはいった。私はやむを得ずの転職を強いられ某ファーストフード業界で働くことになり、休日をとることもままならなず、毎日御前様の日々をすごすことになった。達郎はコンサートを行わず、こちらは仕事ばかりで音楽を聴かない日が増えた。転職したら映画を見る機会も極端に減った。毎日、180度に熱された鉄板で焼かれるミートのまるで感覚を麻痺するようなすこし焦げた匂いを嗅ぎつづけ、それをパンに挟むだけの日々が過ぎていった。


 達郎のコンサートがない日々が続けば、ファンであることを忘れるのは簡単だった。


 1998年の秋に山下達郎ファンクラブの会員になり翌年1999年の2月4日、ところはNHKホールで初めてコンサートを拝見した。


「今度コンサートに来るときは、もっと真っ当な男になっていたい」


 2002年のツアーも2回拝見し、いつも何かを心に刻んできた。不思議なもので、コンサートを見るとその後人生の状況が必ず変わってきた。ところが達郎のコンサートは2008年まで開かれなかった。その間、私はただただ焼ける肉の臭いを体に染み込ませるだけの日々を過ごすことになった。


 ようやくコンサートを開くまでに至った達郎の身辺は決して穏やかとはいえない状況が覆いかぶさっていた。スタッフの病死、バックミュージシャンの体調不良と帯同不能による変更、所属レコード会社内部にあったシビアな採算主義、といった難しい問題が山積していた。そこを乗り越えようやく6年ぶりにコンサートツアーを挙行した。そこで達郎が見たものは、人生の困難にあって疲れ、やつれた顔をした中年の表情だった。


「久しぶりにお客さんの顔を直接見るとね、リーマン・ショックなんかもあって、閉塞感みたいなものがあるんですよ。僕のリスナーは40代くらいがコアなので。特に男性の場合、リストラだ、倒産だ、そういうのが顔に出てる。体調も悪くなる年頃だし(笑)」

                   (ミュージックマガジン9月号より)


 私も閉塞感があるリスナーのひとりだ。2010年に東京から田舎に帰り、それこそ人生の第2のスタートを切った。やはり達郎のコンサートを聴きにいくと人生が変わる。けれど、これから出会う状況がいいことなのかはわからない。まだ、なにひとつうまくいっていない。


 音楽業界の激変の中で、今後はコンサートを行うのがこれからの道、と決断し状況を変えてきた達郎だが、なおも所属レコード会社の社長の自殺などに遭遇する。決して運命はいい状況ばかりもたらさない。


 そして同時多発テロがおきてから9年半後、日本で東北地方と長野県栄村を地震、津波、福島第一原発事故などの複合的災害が起きた。いわゆる東日本大震災。テロが起きたとき「音楽で癒しを与える」

と、いった達郎のことばが10年のときを経て実現されるときが図らずもやってきた。


                              (次回に続く)