祟りであります。
祟りといって、あっしが思い浮かべるのは横溝正史の怪奇小説を映画化した『八墓村』でしょう。ガキだったあっしは、これを見てオシッコをちびるかと思ったものです。あまりにもインパクトが強すぎました。
悪いことすると、怖いおじさんが来る?
この、わけのわからんオッサンも怖かった!
なお、この作品は昭和13年、岡山県で実際に起こった事件(「津山事件」、「加茂の30人殺し」)をモデルにしたものとされます。
小説の方は、最初はかくまった八人の落ち武者を、関わりになるのを恐れたのと、その持っていた財物に目が眩み、村中で皆殺しにしてしまったことの祟りというものがテーマになっておりました。
して、そもそも、この祟りとはどういうものなのか。
神仏や霊魂のような超自然的存在が人間に災いを与えることを言うようです。
民俗学者である折口信夫はこの祟りをして、もともとは神の示現(立ち現れる)という意味であったものが、災いをもたらすものに変化したのだとしております。
そもそも、日本の神もそうですが、神は隠れた存在であり通常は人間の前に登場するようなことはありません。
しかし、人間が神の意に反したことを行った、あるいは十分な敬意を払わずないがしろにしたといった場合は怒って、その存在を何らかの災いをもって示そうとするのであります。
疫病、飢饉、天災などは、ことごとく神の怒りの表われ、それこそ祟りとされておりました。
ゆえに、人間はそのような神の怒りに触れぬよう細心の注意を払い、さらには祭礼を行って神の歓心を買うべく努力してきたのでしょう。
このような考え方は古代宗教一般に言えるもので、神を喜ばせるために生贄や、さらには人身御供、人柱などというものまで行ってきました。
目を転じてユダヤ教の世界に目を向けますに、こちらでも祟りというか、神の怒りが人々に重くのしかかっておりました。
歴史書でもある『旧約聖書』にあっては、まず、バベルの塔、ノアの洪水があり、さらにはエジプト、バビロニア、古代ローマ帝国といった強大国からの圧迫、搾取により、最後は国そのものがなくなって、彼らは放浪の民になってしまいます。
では、いったい何が神の怒りを買ったのか?
ユダヤ民族は、この問題を徹底的に突き詰めて考えておりました。
普通に考えれば自分達には何の問題もないはず?
いや、いや、やはり、自分達に何か至らぬ点があったのだから、これはもう、これまで以上に清く正しく美しく生きて、神を讃え、その示すところに忠実であろうと。
何かあった時、その理由を外部(誰か)のせい、責任だとすることを心理学では「他罰的」としますが、これに対し、自分のせいとすることを「自罰的」といいますが、ユダヤ民族はまさにこの自罰的な考えをする方々でした。
まあ、自己省察性に優れるといえなくもないのでしょうが、そして「全ては西側諸国が悪い」なんて言っているロシアのプーチンさんや、北の国のボンボンのごとき他罰的な方々よりはずっとましだとは思いますが、しかし、これも度が過ぎますと、自己否定から、ついには自殺するなんてところまで行ってしまう危険性もあるといいます。
しかしながら、このような祟りなり、神の怒りだとすることは、言うなれば人間の側からの投影心理的なものと考えることもできます。
例えばの話、森林をどんどん伐採し、その結果として山や崖崩れが起こったり、河川の氾濫、洪水が起こったりした場合、これを祟りや神の怒りとすることもできますが、実際は人災、つまり人間が為した行為の結果としての災難というべきでしょう。
まあ、今日ではこういった自然摂理というか法則も、科学的に理解できるようになってきておりますが、昔はもう全て祟りや神の怒りにしてしまっていたのではないかと思います。
日本では老木を切ると、そこから血が流れ出てきたなんて話が全国的にあるようですが、これまた我々日本人の自然を尊重する思考がそのようなタブー的な発想、伝承を作り出したのではないかと思います。
また、河川の傍らに水神を祀る祠があったりもしますが、水は農耕に欠かせないものゆえ、これを大切にするという思いと同時に、河川が反乱しないようにといった祈りがそこにあるように思います。
自然を怖れ敬うという考え方ですねえ。
自然は恩恵も与えてくれますが、災いも起こします。
さて、祟りに限って言えば自然以外にも、動物や人間もまた祟ります。
狐や蛇は古来神の使いとされ、これを殺すと祟るとされてきましたし、「猫を殺すと七代まで祟る」なんて言われております。
あっしが本で読んだ話としては、とある庭付きの家に引っ越してきた方の家族が次々に原因不明の病となったのは、その庭にある池で死んでいた猫の祟りだった、というものがありましたねえ。
しかしながら、この話において、この猫の目に釘が刺さっていたというものでしたが、その恨みというなら、本来なら実際にそれをやった人間に対して祟るというのが筋でしょう。
なんで無関係な者に祟るのだ、と。
これは、お化けと幽霊について言えることでして、そもそもお化けは誰であれ脅かしますが、幽霊はあくまで恨みを抱いた相手だけのはずです。
例えばの話、あっしが殺したわけでもないのに、あっしのところに、お岩さんが、
恨めしや―
なんて出てこられてもねえ。
あっしが何をしたというのだ
それに時代と場所を間違えてねーか?
なーんて言いたくもなります。
えっ、間違えたらしいが、この際、誰でもいい、って・・・
そーいう問題じゃねだろ。
続いて人です。冒頭にあげました『八墓村』などもそうですが、よく知られているのは菅原道真や崇徳上皇、そして平将門といった恨みを残して亡くなった方々です。お岩さんもそうでしょう。
して、やはり祟るとすれば、その恨みを買うようなことをした方々に対してのはずです。
ゆえに、あえて言えば無関係の方ならなにも心配することはないはずです。
まあ、ないはずなんですが・・・、先のお岩さんのような例もあるのかもしれない。
新興宗教などが水子供養や先祖供養の重要さを説き、これを十分に行わないと祟る、などと言っております。
中絶の増加や、核家族化に伴ってのことだともされます。
しかしながら、悪質商法の一つである「不安商法」(※ その必要もないのに、白アリ駆除や耐震補強工事が必要などと言って勧誘するもの)ではありませんが、ある意味では似たようなものでしょう。
ちなみに、あっしの家にも、「お宅には、何かよくない悪霊が付いているようだから除霊、お祓いをしたほうがいい」なんて方が来たこともあります。
お前こそが、その悪霊なんじゃねーのか?
と言って帰ってもらいましたが。悪霊退散です。
気分はセーラー・マーズですねえ。
ざまーみやがれ、と。
さてさて、平安時代は菅原道真のものを筆頭に、怨霊(御霊)信仰なるものがありましたが、これを「祟る神」とし、これを仏教の加持祈祷により鎮めることが行われました。まさに「鎮める仏」であります。
つまるところ、異国の神とされた仏の方が、日本の神よりも強い、とされていたというべきか。
それよりもさらに強いのがセーラー・マーズ!?