非常勤講師の部屋 -4ページ目

先従隗始

古文助動詞の歌

考査時の変な慣習

常勤をやっていたときから変だなーと思っていたことがある。


考査の答案を集めて綴じる際に表紙として付けるあの紙の事だ。


テストの作成者と監督者双方の名前が書いてあるわけだが、最初は作成者の名が呼び捨てに、そして監督者の名の横には先生と書いてある。


そして、考査実施時に監督者が、自分の名前の「先生」を二重線で消し、作成者の名に「先生」を付けるという事が、どこの学校でも半ば慣習化しているのだ。


私はこれが気持ち悪い。


どちらも呼び捨てでいいではないか。

同じ職場の職員同士、何故そんな気色の悪い気の遣い方をするのか解らない。


と、ずーっと変だなーと思って来たのだが、今日、「これだ!」と思う表紙についに出合った。


そこまで言うと大げさかも知れないが、監督した考査答案の表紙の私の名前が呼び捨てで書いてあったのだ。


もしかしたらこの先生もこの慣習に気持ち悪さを抱いているのかもしれないと、勝手に想像して連帯感を覚え嬉しくなってしまった。(うーん、これも気持悪いかもしれない)


自分が呼び捨てにされれば、敢えて相手を先生付けする必要もないだろう。

というわけで、作成者欄に呼び捨てで書かれた名に「先生」付けをすることなく、考査後の答案をその方にお返ししたのだった。


こんな感じで、皆がもっとシンプルに仕事をすればいいのになあと、学校の中ではよく思う。

忘年会

非常勤講師は月々の親睦会費を納めていないので、いざ職員全体の忘年会や歓送迎会のようなものに出席しようとすると、べらぼうな金額を請求される。


一応、会に声はかかるのだが、何故か教諭の先生方の出欠を締め切った後でのお声掛かりで、まあ「来なくていいよ」という裏の声を聞いてしまうような気がする。

皮肉ではなく、素直にそう思うので仕方が無い。


特に私のような幼い子どもを抱える身では、平日の夜に出て行くことは至難の技なので、参加はほぼ不可能だ。


で。


その代わりというわけでは全くないが、非常勤には非常勤の忘年会がある。


去る土曜日、仲の良い女性の先生ばかり5人で酒席を囲んできた。

土曜日ならば、夫が休日で子どもの面倒を見てくれるので、何週間も前から頼み込んでの参加だった。


先生方は私を含め全員家庭がある身で、働く境遇が似通っている為か、話していると本当に楽しい。


また、古くから学校にいらっしゃる先生から、学校に関する裏話や、教諭の先生方の力関係の話を聞くことが出来て、日ごろ何の情報も入らない身としては、正直有難い。


他の先生方がどんな授業をされているかも垣間見えて興味深かった。


形式だけの飲み会が多い中、本当に楽しいひと時だった。

また週明けから頑張ろうと思う。

丹波に出雲といふところあり

現代文

読んでいる本 にこんな事が書いてあった。


「現国(現代国語)の問題を解くとき大切なのは、問題が何を問うているかを見極めて、素直にそれに従う事である。素直になるには、先入観をもたないようにする。そのためには本をたくさん読む。読めば読むほど先入観がなくなる」


著者が高校の先生に言われた言葉らしい。

この先生も素敵だし、言われた事をしっかり記憶していてまた文に直せる著者もすごい。

国語と私

こんな事を書くと怒られそうだが、どうして私は国語の教員をやっているんだろうとたまに思う。


学生の頃から好きな教科ではあった。

四月に配布される教科書は、もらったその日のうちに全部読んでしまう子どもだった。

別に勉強というわけではなく、純粋に「読むと面白いから」読んでいた。

何度も読み返すので、いざ授業に入る頃にはもう飽きて退屈で。

あまり先生の話は聞いていなかったが、いつもテストをするとなんとなくいつもいい点が取れた。


そうだ。私の弱点はこの「なんとなく」にある。

別に苦労して勉強せずとも、国語だけはクラスの皆を引き離す点数を獲得する事が出来たのだ。

勢いそれで私は「国語が得意」と先生にも友達にも目されて来た訳だが、果たして私は本当に国語が「得意」なのだろうか。

ただ単に「国語のテストで高得点を取る事が出来る」特技を持っているというだけではなかっただろうか。


実際、この特技を以ってして大学受験を成功させる事が出来たわけだが、労せずして大学入学の切符を得てしまった私は、ここでそれ以上自分を伸ばそうとする事をやめてしまった気がする。


ここに駄文を露呈していることからもわかるように、文章能力を磨くことも、薫り高い文学にすすんで触れる事も無く、いたずらにここまで齢を重ねてしまった。


生徒に聞かれると困るのだ。

「どうしたら国語の成績が上がりますか」と。


この教科について努力した事の無い私は答えようがない。

強いて答えるなら「好きになる事」だが、好きになろうと思ってなれるものではない。

およそ、この質問をしに来た生徒にとっては無意味な回答である。

そして私はいつも途方に暮れるのだ。


でも。


これからは生徒と共に、国語という教科について研鑚を積みたいと思う。

そしていつか問いに答えられる日が来れば嬉しい。

週末課題

この学校では、主要三教科について週末課題を課している。


国語科では薄い冊子状の問題集、現・古合わせて二冊。

各々について見開きの一題ずつを、毎週明けにやってくるように指示しているのだが、これの提出の仕方に生徒各々の性格が垣間見えて面白い。


ただやるだけでなく、解らない所は辞書できっちり調べ、空欄が全く無いもの。


適度にきちんとやってあるのもの。


「やればいいんでしょ、やれば」という呟きが聞こえてきそうな、空欄おびただしいもの。でも未提出だった事は無い。


明らかに誰かのを「写しました」と言わんばかりのもの。誤答の的外れ具合まで真似ているので思わず笑ってしまう。



正直なところ、これらの回収&提出チェック&はんこ押しは、結構時間のかかる仕事なので、いつも時間に追われている私にはなかなかキツいのだが、生徒の一人一人の顔をゆっくり思い浮かべる好機でもあるので、ついつい入念に赤を入れたりして、楽しんでしまう。

学級崩壊

私の勤務校の話ではなく、息子の通う小学校の話。


子どもは公立小学校の一年生。

時々、通院などの事情で、彼を教室まで迎えに行く事がある。


息子のクラスの様子は至って普通なのだが、いつも気になるのは隣のクラスの事だった。


帰りの会の時間だと言うのに、誰一人着席していない。それだけならばまだしも、3分の1くらいの児童が教室を出たり入ったりしているのだ。

そしてその後から担任の先生が追いかけてきて、「みなさ~ん、教室に入ってくれなくては困ります~」と悲壮感漂う表情で叫んでいるのだ。地声が小さいらしく、先生の必死の叫びは騒ぐ児童達には聞こえない。

1人連れ戻しているうちに、また1人、2人と教室を脱走するという、誠に気の毒な状況だった。


先生の疲れ切った表情を拝見していて、「小学校の先生も大変だなあ」といつも思っていた。


私もかつては指導困難校と呼ばれる高校に勤務したことがあって、担任なんかもしていたので確かに大変だったけれど、子どもが全く自分の方を向いてくれない状況というのには幸い遭遇しなかった。だからこの先生が味わっているであろう悲壮感には今まで縁が無い。


小学校へ5週間の教育実習に赴いた事もあるが、その時も体はしんどかったが楽しいこと尽くしだった。(まあこの時は、現職になったらこうはいかないだろうという予感はあった)


話を息子の小学校の事に戻す。

ただ、「大変だなあ」と思っていただけだったのだが、内実はもっとひどかったらしい。


他人を無差別に物で叩きまくる子、人の服に落書きして「お母さんに言ったら殺すぞ」という子、授業中、着席していたためしが無い子、のべつ幕なしに大声を上げている子・・・。

普通の大人しい子は、怖くて学校に通うのが命がけの状況なのだそうだ。


この度、保護者の抗議に対して、学校側が「学級崩壊」を認めたそうだ。

いわゆる「お手上げ」の児童がこのクラスに5人もいるらしい。

で、教頭先生が言う事には「これは保育所での指導が悪かったのであって、本校の責任ではない」と。


担任の先生をかばっての発言なのか、はたまた本心か。


保育所出身者を幼稚園同と区別して言及している点が気になるが、

仮に、保育所出身の児童の行動が荒くても、それを抑えつつうまく操縦するのが先生の仕事だ。

どのクラスにも保育所出身児童は万遍なくいるだろうのに、この先生のクラスの子だけ顕著に暴れているという状況に対して、個人的には先生の指導力不足と思わざるを得ない。


どちらにしても、現在の時点で有効な手を打つ予定はないそうだ。


そうは言われても、当のクラスに通わせている児童の保護者達は大人しく引き下がるわけにもいかないだろう。


楽しい小学校生活を送る権利を奪われて泣き寝入りしている場合ではない。


どうしたらよいのか、私も考え中である。


今回、つくづく思ったのは、子どもを学校に預けているというよりは、「担任の先生に預けている」ということだ。先生が信頼に足る人ならば、こちらも安心して子どもを送り出せるが、そうでない場合は、今回のような騒動が起きる。

隣のクラスには、息子の友達が多数いるので胸を痛めているが、その一方で「うちのクラスはいい先生で良かった」と密かに思う、自己中心的な私が潜んでいる。

いい大人

ここは中堅の進学校なので、熱心な生徒から教科の事で質問を受けることが多い。

その場で即答できることならば良いが、そうでないことも時々ある。(未熟者ゆえ)


そうなると、その場で一応の回答を示しつつも、一旦生徒と別れて、辞書や専門書で調べたりする。


そうして解決した事柄を携えて、また生徒を捕まえて話をするわけだ。


わたし的には普通の事なのだが、他の先生方はお忙しいためかそういうことをされる人は少ないらしい。

たとえ、調べる必要のある質問をされても、「自分で調べとけ」と生徒に申し渡すそうだ。

まあ確かに、そちらの方が正解かもしれない。

勉強は、自分で苦労して調べてこそ身に付く物であることに間違いはないからだ。


でも、自分の専門教科で即答できない事が悔しくて、私はやっぱり自分で調べてしまい、調べて疑問が氷解すると、生徒にも話したくなるのだ。


先日も、「いにけり」の口語訳をめぐって訪れた生徒が一人。

「いってしまった」と訳すのが一般的なのだが、なぜ完了の助動詞が使われていないのに「てしまった」なのか、という疑問だ。うーん、確かに。


後で調べて、「いぬ」という単語自体に「いっ『てしまう』」というニュアンスが含まれていることを知る。(教員としてはかなり情け無いですね)


その事を翌日、件の生徒に話していたら、傍で見ていた生徒がポツリと一言。

「先生っていい大人。」


彼女いわく、そんな大人は他にあまりいないそうで、何やら感動するそうだ。

先生ではなく、大人という言い方に彼女のこだわりを垣間見る。


生徒にこちらの労力を評価される機会というのは、普段はほとんどない。

それをしてもらえたということに、私の方が感動してしまった。



ここのところ少し忙しく嫌な事もあったりしたさなかの、嬉しい出来事だった。

またがんばろう。