前記事の森部城から長良川の堤防を少し北に駒を進める。

 

 

 

岐阜県大垣市墨俣町

美濃・墨俣城(すのまたじょう)別名:墨俣一夜城、一夜城

 

墨俣城は永禄年間に織田信長さまによる美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(秀吉)が小六、前将、内匠らの通称・川並衆を従え、わずかな期間でこの地に城を築いたことから一夜城という名で知られてはおります。

 

駄菓子

 

まぁ皆さんすでにご存じでしょう、史料にまったく記載がない実在しなかった城 なんですね。ざんねん!

 

元々戦略上の要地で城か砦かは築かれた(治承5年の「墨俣川の戦い」とか天正12年の「小牧長久手の戦い」のときとか)ようですが、少なくとも藤吉郎が築いた城はなかったということでよろしいかと。おしい!

 

現在は、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。公園内には大垣城の天守を模した大垣市墨俣歴史資料館(墨俣一夜城)が建てられています。

 

そんな墨俣城へこの度の美濃攻めの一環としてやってまいりました。

 

犀川提の駐車場からぼちぼち歩いて攻城開始。すでに立派すぎる歴史資料館(模擬天守)が目に入る。

 

公園内へ突入する太閤出世橋手前から。

 

太閤出世橋模擬天守

 

橋手前の石碑裏側。『武功夜話』(前野家古文書)による墨俣一夜城築城の経緯が記されてる。駄菓子!この「前野家古文書」は偽書として信頼性ないものと世に知られている真顔

 

藤吉郎(秀吉)の馬印は「ひょうたん」と、ひょうたんをいっぱいぶら下げた「千成瓢箪」が有名であるが、実際はひょうたん1つだけのようである。

 

大垣城まんまの複合式層塔型4層6階、歴史資料館という名のRC造模擬天守。大垣城との違いは窓の形だけか? どうせ「前野家古文書」を推すのなら、簡素な砦モドキで良かったのでは? まあわしのお金で建てたんちゃうから別にええけど真顔

 

誰かが座ってた。

 

付櫓がある左へ廻り込んでみる。歴史資料館入口は右の階段のとこね。こちらの扉は倉庫かなにか。

 

裏側から見る。裏の扉も倉庫か非常口か。

 

「前野家古文書」に記録されてる一部が展示されてた。興味のある方はお読みください。こと細かく描かれてるが、史実かどうか信用するもしないのもアナタ次第。

 

洲股(墨俣)築城犠牲者の墓。いつの築城犠牲者なのやろか?

 

天守の裏にある白髭神社。元々犀川河川敷に祀られていたのを、ここに移したという。

 

ピュー

 

いちおうお参りしました。ちなみに 御祭神は導きの神である猿田彦大神(さるたひこおおかみ)である。

 

玉取り獅子さん子取り狛犬さん。今回はツーショットでどうぞ。

 

境内社の豊国神社。いわずと知れた豊臣秀吉を祀っている。

 

こちらはアップで玉取り獅子さん

 

子取り狛犬さん

 

公園北口に馬柵がある。

 

お読みください。ちなみに 「ませ」または「うませ」と読む。

 

いちおう裏からも撮る。表か?

 

 

歴史資料館へ乱入します。

 

館内の展示は「前野家古文書」に基づいた一夜城築城と秀吉の歩んだ道を中心に紹介されてる。

 

そもそも『武功夜話』「前野家古文書」とは、尾張国の土豪・前野家の歴史をまとめた書物であり、愛知県江南市の旧家吉田家に、先祖であると称する前野氏の歴史をまとめた書物として伝わっているもので、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で蔵中に入水し、中が露見して見つかったと称する。

まあいうてみれば秀吉に仕えた前野将右衛門長康(通称・前将。小六の義兄弟。秀次事件に連座して自害)の物語みたいなもんです。

 

頭を垂れよ。

 

 

 

歴史史料館 そこそこ見ごたえはありました。

 

 

模擬天からの眺望 東。

 

南。出世橋先の駐車場今んなって空いとる。くそっ

 

西

 

北。右奥のとんがってるのが岐阜城の金華山である。

 

金華山をアップで。岐阜城天守が見えた。

 

 

引き上げじゃ~

 

サル際にもう1枚。去り際の間違いじゃ~爆笑 

 

 

 

登城記念符(御城印)は資料館内で分捕り買取り。

 

 

 

 

 

ほなまた。

 

 

 

 

 

24年6月