下の画像は、事件の半世紀後に作られた『仮名手本忠臣蔵』ですが。。。
赤穂四十六士が切腹した元禄十六年二月四日(1703年3月20日)から12日後、江戸の中村座で 『曙曽我夜討』(あけぼのそがのようち) という芝居の公演があった。しかし、初日から3日間で上演を差し止められた、という話があります。
この上演差し止めを、さも史実のように書いている忠臣蔵本はたくさんあるけれど、出典まで確認しているものはほとんどないようです。
証拠になるようなものはあるのでしょうか。
「徳川実記」と総称されるもののうち、五代将軍綱吉治世について書いた「常憲院殿御実記」には、次のようにあります。
――前々も命ぜられし如く、当時異事のある時、謡曲小歌につくり、 はた梓(あずさ)にのぼせ売りひさぐ事、いよいよ禁ずべし、堺町木挽町劇場にても、近き異常を擬する事なすべからずとなり――
堺町とは中村座、木挽町とは森田座の別名です。
当時はニュース性のあるものを題材にした芝居がよくありました(とはいっても、主に大坂などですが)。
たとえば遣唐使によって伝来し、800年使い続けられた宣明暦から国産初の貞享暦に改暦されたとき(1862年)は、当時は社会問題として話題となり、井原西鶴は 『暦』、近松門左衛門は 『賢女手習並新暦』 を執筆し、競演されました。
曽根崎の森での心中事件は、赤穂四十六士切腹の二ヶ月後にありましたが、翌月には近松門左衛門によって劇化され、竹本座の累積赤字を消すほど大ヒットしたそうです。
赤穂四十七士による仇討事件は江戸で大きな話題になったことから、事前に公演禁止(公演差し止めではない)としたと解釈すべきでしょう。
さて、 『曙曽我夜討』 については、天明五年(1785)に出た 『古今いろは評林』 に、俳諧師の榎本其角(えのもときかく)が友人に手紙に書いて送ったと書かれています。でも、その友人が誰かは書かれていないし、原本はない。
この 『古今いろは評林』、事件から80年以上も後に書かれたもので、事件当時は江戸で超有名人だった其角も、「むかしの人」です。
江戸後期の大坂の劇作家・西沢一鳳(にしざわいっぽう)の随筆『伝記作書』によれば、『曙曾我夜討』の話は其角が大坂にいる近松門左衛門に送った手紙に書かれていた、ということになっています。
西沢一鳳の生年は、享和二年(1802)です。『伝記作書』は 『古今いろは評林』が出て半世紀以上経った弘化・嘉永初頭(1840年代中頃)に執筆したと考えられています。
ふふふ。『曙曾我夜討』の話、だんだん怪しいところが見えてきました。
さらに面白いのは、近松が其角に宛てた返事があったというのです。
これはなんと曲亭馬琴が主に天保四年(1833)から七年の出来事を書きつづった 『異聞雑稿』 に書かれているだけで、これも原本はない。
其角 ⇒ 近松
「このほどの一件も二月四日片付き候て甚だ噂とりどり花やかな説も多く候て上なき忠臣と取り沙汰この節其の事ばかりに候 堺町勘三郎にて十六日より曽我夜討に致し候て十郎に少長、五郎に伝吉いたし候へども当時の事遠慮あるべき由にて三日にて相止め候」
近松 ⇒ 其角
「尚々此の程の一件も二月四日に片付き候処当地にても噂とりどり上なき忠臣との評判いずくも其の事ばかりに候 仰せ越しには堺町勘三郎にて曽我夜討の取り組み十郎少長、五郎伝吉との事当時の儀遠慮もあるべく存じ候処花やかなる御知らせ此方にても愚案に仕立て申すべくと存じ候間猶亦委しく御沙汰御聞かせ下さるべく候」
なんじゃらほい。
ほとんど同じ内容だ(笑)
西沢一鳳は、 『古今いろは評林』 を参考に書いたに違いない。 『古今いろは評林』 で は、其角が出した手紙の相手は書かれていないので、近松門左衛門としたのは、西沢一鳳でしょう。
ということで、曲亭馬琴の 『異聞雑稿』 に書かれたなかにあったものも贋作だったと考えられます。
『曙曽我夜討』 の言いだしっぺは、『古今いろは評林』 の編者、三世八文字屋自笑に違いない。筆名が「自笑」というのだから面白い。
自笑こ『古今いろは評林』は 『仮名手本忠臣蔵』 の初演以降の歌舞伎の上演年表と、主要な役についての劇評については信頼できるものの、歌舞伎関係の資料には 『曙曽我夜討』 は見つからない。
また、上に書いた 「伝吉」 は、宮崎伝吉という役者の外には考えられない。
当時、役者は座元と一年の専属契約でした。この契約更新をするのは毎年十一月で、顔見せは芝居町の正月とされていたのです。
宮崎伝吉の出演ははほとんど森田座で、元禄十六年に彼が中村座に出演していたというのはまず考えられないことです。
ということで、 『曙曽我夜討』 の一件は、史実としては認められない、ということになります。