忠臣蔵 の なぞとき

忠臣蔵 の なぞとき

忠臣蔵に特化して。

何がホントでどれがウソか徹底追及しよう。

新しい発見も!

どれがホントで何がウソなのか。

忠臣蔵を覗いてみよう。


討入事件現場は本所松坂町にあった。 ウソ


そばを食べたのは、やみ営業の風俗店。 ホント


浅野内匠頭は赤穂藩主だった。 ウソ


討入事件現場はボロ屋敷だった。 ウソ


再就職したくて大石内蔵助に従った人がいた。 ホント


大石内蔵助は女好きの遊び人だった。 ホント


城内の刃傷事件加害者で即日の死刑は浅野内匠頭だけ。 ウソ

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 下の画像は、事件の半世紀後に作られた『仮名手本忠臣蔵』ですが。。。


忠臣蔵 の なぞとき-仮名手本 表紙


忠臣蔵 の なぞとき-仮名手本 内容



 赤穂四十六士が切腹した元禄十六年二月四日(1703年3月20日)から12日後、江戸の中村座で 『曙曽我夜討』(あけぼのそがのようち) という芝居の公演があった。しかし、初日から3日間で上演を差し止められた、という話があります。


 この上演差し止めを、さも史実のように書いている忠臣蔵本はたくさんあるけれど、出典まで確認しているものはほとんどないようです。

 証拠になるようなものはあるのでしょうか。


「徳川実記」と総称されるもののうち、五代将軍綱吉治世について書いた「常憲院殿御実記」には、次のようにあります。


――前々も命ぜられし如く、当時異事のある時、謡曲小歌につくり、 はた梓(あずさ)にのぼせ売りひさぐ事、いよいよ禁ずべし、堺町木挽町劇場にても、近き異常を擬する事なすべからずとなり――


 堺町とは中村座、木挽町とは森田座の別名です。


 当時はニュース性のあるものを題材にした芝居がよくありました(とはいっても、主に大坂などですが)。


 たとえば遣唐使によって伝来し、800年使い続けられた宣明暦から国産初の貞享暦に改暦されたとき(1862年)は、当時は社会問題として話題となり、井原西鶴は 『暦』、近松門左衛門は 『賢女手習並新暦』 を執筆し、競演されました。

 曽根崎の森での心中事件は、赤穂四十六士切腹の二ヶ月後にありましたが、翌月には近松門左衛門によって劇化され、竹本座の累積赤字を消すほど大ヒットしたそうです。


 赤穂四十七士による仇討事件は江戸で大きな話題になったことから、事前に公演禁止(公演差し止めではない)としたと解釈すべきでしょう。


 さて、 『曙曽我夜討』 については、天明五年(1785)に出た 『古今いろは評林』 に、俳諧師の榎本其角(えのもときかく)が友人に手紙に書いて送ったと書かれています。でも、その友人が誰かは書かれていないし、原本はない。


 この 『古今いろは評林』、事件から80年以上も後に書かれたもので、事件当時は江戸で超有名人だった其角も、「むかしの人」です。


 江戸後期の大坂の劇作家・西沢一鳳(にしざわいっぽう)の随筆『伝記作書』によれば、『曙曾我夜討』の話は其角が大坂にいる近松門左衛門に送った手紙に書かれていた、ということになっています。

 西沢一鳳の生年は、享和二年(1802)です。『伝記作書』は 『古今いろは評林』が出て半世紀以上経った弘化・嘉永初頭(1840年代中頃)に執筆したと考えられています。

 ふふふ。『曙曾我夜討』の話、だんだん怪しいところが見えてきました。

 さらに面白いのは、近松が其角に宛てた返事があったというのです。

 これはなんと曲亭馬琴が主に天保四年(1833)から七年の出来事を書きつづった 『異聞雑稿』 に書かれているだけで、これも原本はない。
 
 其角 ⇒ 近松
「このほどの一件も二月四日片付き候て甚だ噂とりどり花やかな説も多く候て上なき忠臣と取り沙汰この節其の事ばかりに候  堺町勘三郎にて十六日より曽我夜討に致し候て十郎に少長、五郎に伝吉いたし候へども当時の事遠慮あるべき由にて三日にて相止め候」


 近松 ⇒ 其角
「尚々此の程の一件も二月四日に片付き候処当地にても噂とりどり上なき忠臣との評判いずくも其の事ばかりに候 仰せ越しには堺町勘三郎にて曽我夜討の取り組み十郎少長、五郎伝吉との事当時の儀遠慮もあるべく存じ候処花やかなる御知らせ此方にても愚案に仕立て申すべくと存じ候間猶亦委しく御沙汰御聞かせ下さるべく候」


 なんじゃらほい。
 ほとんど同じ内容だ(笑)


 西沢一鳳は、 『古今いろは評林』 を参考に書いたに違いない。 『古今いろは評林』 で は、其角が出した手紙の相手は書かれていないので、近松門左衛門としたのは、西沢一鳳でしょう。

 ということで、曲亭馬琴の 『異聞雑稿』 に書かれたなかにあったものも贋作だったと考えられます。


  『曙曽我夜討』 の言いだしっぺは、『古今いろは評林』 の編者、三世八文字屋自笑に違いない。筆名が「自笑」というのだから面白い。


 自笑こ『古今いろは評林』は 『仮名手本忠臣蔵』 の初演以降の歌舞伎の上演年表と、主要な役についての劇評については信頼できるものの、歌舞伎関係の資料には 『曙曽我夜討』 は見つからない。

 また、上に書いた 「伝吉」 は、宮崎伝吉という役者の外には考えられない。


 当時、役者は座元と一年の専属契約でした。この契約更新をするのは毎年十一月で、顔見せは芝居町の正月とされていたのです。


 宮崎伝吉の出演ははほとんど森田座で、元禄十六年に彼が中村座に出演していたというのはまず考えられないことです。


 ということで、 『曙曽我夜討』 の一件は、史実としては認められない、ということになります。



『忠臣蔵――赤穂事件・史実の肉声』(野口武彦著・ちくま新書・1994年)という本があります。著者は神戸大学教授(当時)で文学博士。


 集団襲撃・仇討があった本所吉良屋敷の前主は、かつては「近藤登之助」といわれていましたが、その通説は崩壊し、いまでは将軍小姓の松平登信望(まつだいら・のぼりのすけ・のぶもち) となっています。


 ところが、野口武彦氏の『忠臣蔵』には、次のように書かれていたのです。

 ――本所の松平愛之助旧邸は「上り屋敷」(空家)でサラ地同然だったから普請に手間取り、転居は十二月十三日になった。――(111ページ)

「上り屋敷」は、以前に誰かが住んでいて立ち退いたあとの屋敷という意味です。
「サラ地」 が 「更地」 ということならば、「建物が建っていない空地」 ということ。


「空家」 は 「住んでいた人が立ち退いて誰も住んでいない家屋」 なので、空家があったとすれば 「サラ地同然」 ということはない。


 なんだかなあ。

『野口忠臣蔵』 に書かれていた 「松平愛之助」 という名を、私は見たことがなかったのですが・・・

 友人は、こう言いました。

「愛之助といえば、歌舞伎俳優の片岡愛之助でしょ。五代目と六代目は忠臣蔵の芝居に出演しているし、それ以前の片岡愛之助も忠臣蔵の芝居に出演していると思う」

 まさか歌舞伎俳優の片岡愛之助の影響でもないでしょう。でも、松平愛之助という名の該当者は 『寛政重修諸家譜』 で調べても見つからなかった。

 別の友人は、新撰組の前身 「浪士組」 結成のとき 「浪士取扱」 となった松平上総介(主税助忠敏)の父親が松平愛之助(親芳)だったと言っていた。

 他の忠臣蔵本に松平愛之助が出てこないとはいっても、歌舞伎役者や新撰組の影響で本所吉良屋敷の前主が松平愛之助になったということは……。


 いや、あるかも知れない。
 まったく考えられないでもない。

 史料集を丹念に読んでいったら、野口武彦氏が参考にしたと思われるものが、わかりました。

『野口忠臣蔵』 の 「松平愛之助」 は、『江赤見聞記』 という史料にあったのです。

「巳(元禄十四年)の八月十九日に吉良左兵衛が召し出され、梶橋(鍛冶橋)の内にある上野介殿の屋敷を願いとおり召上げ、松平愛之助殿の本所の上り屋敷を下された」


【原文】
巳の八月十九日、吉良左兵衛殿被為召、梶橋之内上野介殿屋敷、依御願被召上、為替松平愛之助殿本所之上り屋敷被下之

 続いてこのように書かれている。


「鍛冶橋の蜂須賀飛騨守が気心知れた老中に、もし騒動があったときにはどうしましょうか、と訊ねたら、上野介の屋敷で騒動があっても一切構うことはない。屋敷の内を堅固に守っていればいい、とのことだった」


【原文】 
鍛冶橋之内之屋敷隣蜂須賀飛騨守殿御手寄御老中へ被得御内意候、若及騒動候はヾ如何可仕哉と御尋候時、御返答に、上野介方に騒動候共、一切構有之間敷候、屋敷之内堅固に可被相守由御指圖有之由也



『江赤見聞記』 に書かれた上の文。後に書いたほうは、前の文より一段下げて書かれているので、のちに追記されたのかも知れない。

 前の文では「梶橋」で後の文で 「鍛冶橋」 と書いてあるは、史料集の 『江赤見聞記』 に書かれたことそのままです。

 忠臣蔵に詳しい方ならば上に引用したことは、「松平愛之助」 以前に気になることがあると思います。

 そう。吉良上野介が回向院の近くに引っ越す前の屋敷は御城のそばの 「呉服橋内」 にあったのでした。

 それ以前、吉良上野介の屋敷は 「鍛冶橋内」 にあったのですが、火事で焼けた。そこで、呉服橋内に新たな屋敷を拝領した。吉良上野介の本所の屋敷への移転は、呉服橋内の屋敷から、ということでした。

 ここであげた二つ。『江赤見聞記』 に書かれたのと同じ内容が、広島の浅野本家で作成された浅野内匠頭長矩に関する伝記 『冷光君御伝記』 の 「附録」 に記されていました。

 ただし 『冷光君御伝記・附録』 のほうは、「松平愛之助」 ではなく、「松平登之助」 になっているし、前後の文とも 「鍛冶橋」 になっている。

 それと、『冷光君御伝記・附録』 ではあとのほうの文は小さな文字で書かれている。これも後で追記されたものでしょう。

『冷光君御伝記』 には、『家秘抄』 という記録から引いた部分がかなりあって、それらは 『江赤見聞記』 の内容によく似ている。

 もともと同じもので 「江赤見聞記=家秘抄」 は浅野内匠頭未亡人(瑤泉院)の用人・落合与左衛門によって書かれたとされているようです。

「江赤見聞記=家秘抄」 の著者と目されている落合は、情報を集めやすい立場にあった。そうだとしても 「江赤見聞記=家秘抄」 に書かれたそれぞれの情報源は不明です。筆写・転載が繰り返されれば、さらにノイズも入る。「梶橋」 や「松平愛之助」がいつどこで文中に現れたのかはわからないけど、『家秘抄』では 「鍛冶橋」 「松平登之助」 であれば、『江赤見聞記』 としての記録が伝わる過程で文字の写し間違いがあったということになります。


 浅野内匠頭未亡人(瑤泉院)の用人・落合与左衛門ならば、元禄十一年九月にあった大火を知らないわけはない。大火の前後で、江戸市中はがらりと変わったのだから。


 上記の間違った記述は、のちの時代の人で当時の江戸を知らない人が、元禄十一年九月の大火以前の地図あるいは武鑑などをみて 「鍛冶橋内」 としたのでしょう。

 筆写者の記憶に歌舞伎俳優あるいは新撰組の情報が詰まっていたとすれば、それが吉良屋敷前主の名前に入り込んだ可能性はある。



この下に張り付けた動画の最初のシーンの太鼓の音。歌舞伎の「雪音」という効果音です。

 長いバチの先を綿で包んだ上から布をかぶせて縛る。このバチで大太鼓を叩くとやわらかい音になるので、これで雪の降る情景を表現します。

 大石内蔵助が叩いたとされてきた陣太鼓は、どうもこれをヒントにしたようです。





 あたた! 「南部坂雪の別れ その1」 の続きを書き忘れていました。近日中にアップします(2012-02-16)。

 忠臣蔵の時代」は、その1~3の連載です


 「忠臣蔵の時代」その1
 http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11134394838.html


 「忠臣蔵の時代」その2
 http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11134395274.html



 忠臣蔵の時代 その2 につづく


 江戸で寄席が現れたのは享和の頃(1801~3年)といわれているが、『寛天見聞記』にはこうある。



「むかしは寄席という場所がなかったので、軍書講釈も手跡稽古所(習字塾)や明店(空店)で夜にやっていたが、今は一町内に二、三ヵ所、寄席といって看板に行燈をかけ、咄に音を入れ、役者の声色・物まね、娘も上り、八人芸・浮世節などの芸人を集めるなど、寄席を専業とする家が多くなった」



 江戸時代になる前から、「太平記読み」というものがあった。太平記などを講釈するもので、講談の原形である。その常席はなかったとしても、手跡稽古所や空店のほか、寺の本堂などでも講釈が行われていたようである。


 忠臣蔵事件の数年後に出た忠臣蔵ものの本、都乃錦著『播磨椙原』(はりますぎはら)は講釈調で書かれているので、おそらく「太平記読み」のようなかたちでの公演を目論んで書かれたものだろう。



「元禄時代に店構えのそば屋があった」と書かれたものがあった。

その根拠は、『定本 武江年表』(今井金吾校訂・ちくま学芸文庫・2004年2月)の元禄年間記事項中に、当時評判の「手そばきり、鈴木町丹波屋与作」があるということだった。


『武江年表』は、正・続で一二巻があって、正編は嘉永三年(1850年)に成立。続編が成立したのはその30年後。忠臣蔵事件から百数十年後である。


『定本 武江年表』で挙げている「鈴木町丹波屋与作」の名の初出は、亨保十九年(1734)に出た『本朝世事談稿』(菊岡沾涼)にある「けんどん」の説明だ。次のように書かれている。



「江府瀬戸物町信濃屋という者が初めてこれ考えた。そののち流行って、さかい町市川屋・堀江町若菜屋・本町布袋屋・大鋸町桐屋という者が有名になった」



『本朝世事談稿』では、「けんどん」は「つっけんどん」からきたという説をとっているが、建築用語で障子などで上げ下げする構造を「けんどん」といった。そのような構造の箱に材料・道具を入れて持ち運びしていた可能性もある。



『本朝世事談稿』によれば、鈴木町丹波屋与作の前に瀬戸物町信濃屋が「けんどん」を始めている。


『増訂武江年表』(金子光晴較訂・平凡社)には「寛文四年に、けんどん蕎麦切始まる」とある。


 同書は、『武江年表』の正・続と『武江年表補正』(刊行年不祥)によってつくられたもので、昭和43年(1968)に平凡社から出たものだ。


 同じことが天保十四年(1843)に出た『三省録』(志賀理齊著)と『近世風俗志』(守貞謾稿)に載っている。出典はいずれも享保年間(1716~1736)に出た『昔々物語』で、こう書かれている。



「寛文辰年、けんとんというものが出来て下々の者が買い食う。貴人には食う者なし。これも近年はお歴々の衆も食う。結構な座敷に上がるので大名けんとんといって出す」



 寛文辰年は、寛文四年(1664)。この年の干支は甲辰である。


寛文四年に出来た「けんとん」は買い食いするようなもので、その「けんとん」(すぐに食べられるそば切を出す者)が座敷のある店を構えたのは、享保になってからである。おそらく忠臣蔵事件から、20年以上は後のことだろう。



 吉良屋敷襲撃事件に参加した元赤穂浅野家の家来、吉田忠左衛門組の足軽・寺坂吉右衛門が遺した記録によれば、真夜中に米沢町の堀部弥兵衛宅を辞した吉田ら数名は、本所林町五丁目にある集合場所・堀部安兵衛の相宅に向かう途中、両国橋向川岸町の亀田屋という茶屋でそば切などを食べて時を過ごし、約束の時刻までに集合場所に行った。


「両国橋向川岸町」は、両国橋を渡った先の竪川の川岸。一之橋の手前の町である(正規の町ではない)。ここはのちに「岡場所」といわれるところになる。深夜でも客を入れたことでもわかるように、亀田屋は非公認の風俗店であった




 忠臣蔵の時代 了


 「忠臣蔵の時代」は、その1~3の連載です


 「忠臣蔵の時代」その1
 http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11134394838.html


 「忠臣蔵の時代」その2
 http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11134395274.html
















 忠臣蔵の時代」は、その1~3の連載です 


「忠臣蔵の時代」その1
http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11134394838.html


忠臣蔵の時代 その1 のつづき


『鬼平犯科帳』(池波正太郎著)の「鬼平」のモデル、長谷川平蔵宣以は火付盗賊改として活躍し、寛政七年(1795)に没した。


寛政(1789~1801年)から天保(1831~1845年)まで、およそ50年ほどの時の流れのなかで風俗がどのように変化したかを書いた『寛天見聞記』という史料がある。同書によれば、



「酒の器といえば鉄でできた銚子と塗の杯だったのが、いつの頃からか銚子は染付の陶器となり杯は猪口と変わって、酒は土器でなければ飲めないといい、杯洗いといって、丼に水を入れてそのなかに猪口をいくつも浮かべるようになった」



銚子はその字面でわかるとおり、金属製の器である。もともとは長い柄と注ぎ口のついた鉄製の酒器。おひなさまの三人官女の一人が持っている、といえばわかると思う。


忠臣蔵では吉良屋敷襲撃の直前、堀部弥兵衛宅で前祝と称した宴があった。そのとき出された癇酒は、鉄製の銚子を使って直火で温められたものだった。


銚子は鬼平の時代くらいまでで、その後、湯せんで燗をしたほうが風味がいいということで銚子は消えて陶器の徳利になり、木製漆塗りの杯も陶器の猪口に変わった。猪口といっても、ぐい飲みのようなものだろう。


『近世風俗志』に、こうある。



「銅製のちろりは、京坂(京・大阪)ではたんぽともいう。最近はちろりにて湯煎する」



「ちろり」(銚)は、注ぎ口と把手のある急須のような形であったが、だんだん筒形になった。底のとがった形のものもあって、これは囲炉裏の熱灰に突き立てて燗をする。


ちろりがいつ頃出現したのかはわからないが、今でも錫やアルミニューム製のものが燗酒を出す店で使われている。


居酒屋などで「お銚子、一本」などといって注文しているが、間違っても三人官女のような女性が銚子を持ってしずしずと現れることなどない。正しくは「徳利、一本」である。



『寛天見聞記』には、こんなことも。



「そば屋の皿もりも丼になって、箸の太いのはそば屋のようだといっていたものが、いつのまにか細い杉箸になった」



 忠臣蔵事件があった元禄の頃は、そば切の器としては、丼はもちろん、皿を使うこともなかった。主に使われたのは木製の椀と蒸籠のようなものだった。


『寛天見聞記』には書かれていないが、白味醂(今の味醂に相当する)が調味料として使われだし、「醤油と味醂は一対一」の江戸の味ができあがっていったのは、長谷川平蔵のが没する前あたりからである。


 元禄時代の江戸では、醤油もまだ一般には普及していなかった。白味醂は当然ない。江戸時代からあったと思われている本枯節が作られたのはずっとあと、明治40年代だから、そば汁は今のものとはかなり違う。





「忠臣蔵の時代」 その3 に つづく



「忠臣蔵の時代」その3
 http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11134400123.html



 忠臣蔵の時代」は、その1~3の連載です


















「忠臣蔵の時代」は、その1~3の連載です



多くの人がイメージする江戸時代は、おそらく300年近く続いた江戸時代の後のほう、1800年よりも後の情報から作られたものがほとんどだと思う。


忠臣蔵の事件があった頃と多くの人がイメージする江戸時代は、100年以上、場合によっては150年以上も隔たっている。


テレビの人気番組だった『水戸黄門』の主人公のモデル、水戸徳川家二代光圀が亡くなったのは、元禄十三年十二月(1701年1月)であった。その三ヵ月ほどのち、元禄十四年三月に忠臣蔵の発端となった事件があった。



天下分け目の関ヶ原の合戦が1600年なので、このあたりを江戸時代のスタートポイントとすれば、多くの人がイメージする江戸時代は江戸時代の初めから200年以上も離れている、ということになる。


少し若返ったつもりで、2000年の位置に立って振り返ってみよう。


400年前に関ヶ原の合戦があった。


300年前に水戸黄門が亡くなり、その三ヶ月後に忠臣蔵事件が始まった。


200年よりももっと手前、たとえば150年前くらいのイメージで江戸時代をみていた。



テレビ番組の『水戸黄門』は、講談『水戸黄門漫遊記』が原点である。この講談は、弥次喜多道中でおなじみ『東海道膝栗毛』などを参考に、明治近くになってから作られたものであった。



江戸時代は今よりゆっくり時が流れていた、といっても、100年以上もの開きがあれば、別世界だ。



「甘酒は江戸時代には夏の飲み物だった」と、よくいわれる。

俳句でも甘酒は夏の季語であるが、江戸で甘酒が夏の飲み物になったのは1700年代の中頃を過ぎてからだ。


 忠臣蔵事件があった時代には夏に甘酒を飲む人はいなかったし、忠臣蔵事件の少し前に亡くなった松尾芭蕉の発句にも、夏の甘酒はない。


 文化十一年(1814)、小石川養生所肝煎後見人だった小川顕道(当時七十九歳)の随筆集「塵塚談」には甘酒について、次のようにある。



「私が三十歳の頃までは寒冬の夜のみ売り歩いていた。今は暑中往来を売り歩き、かえって夜は売る者は少ない」



「江戸時代はこうでした」と、江戸時代をひとくくりにして説明する本は多い。しかし、それらのほとんどは「文化・文政期」(1804~1830年)以降のことを書いたものである。


江戸の風物などについては、天保八年(1837)から明治になる寸前の30年間に書かれた『近世風俗志』(守貞謾稿)から引いたものも多い。

 


 つづく


 忠臣蔵の時代」は、その1~3の連載です


「忠臣蔵の時代」その2
http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11134395274.html


「忠臣蔵の時代」その3
http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11134400123.html


















「手打蕎麦(てうちそば)って江戸時代からあるのよね」


「え? おそばを作る機械(製麺機)は江戸時代にあったの?」



「手打」 が機械をつかわない手作りの意味だとして、「手打蕎麦」 という言葉が江戸時代からあったとすれば、製麺機も江戸時代からあった・・・ということになりますが、


 実用的な製麺機が出来たのは、明治16年(1883)の春です。
 これだって、手動式ですよ。


「江戸時代のおそばは、全部が手打だったの? それじゃ、わざわざ手打蕎麦ということもないのに」


「手打蕎麦切」 という言葉は、たしかに江戸時代からあったのです。


「蕎麦切」 は、今日でいう「そば」。そば粉を水で練って延し、麺状に切ったもの。


「手打蕎麦切」 は、江戸時代中期、宝暦(1751-1764年)頃からの言葉です。


「宝暦」といってもピンとこないかも知れませんが、『仮名手本忠臣蔵』 の初演は寛延元年(1748)なので、そのちょっと後です。


 ちなみに、「鬼平」のモデルとなった長谷川平蔵は延享二年(1745)生まれ。ということで、「手打蕎麦切」 は、長谷川平蔵が子どもの頃に生まれた言葉といっていいでしょう。


『仮名手本忠臣蔵』の題材は、初演の47~45年前にあった一連の事件です。


「手打蕎麦切」 は元禄時代にはあった、と主張する人がいるけれど、元禄時代に書かれたものをどんなに探してもみつからない。


『仮名手本忠臣蔵』は人形浄瑠璃で大ヒットし、すぐに歌舞伎にもなりました。


歌舞伎のセレモニーの一つに 「手打」 というのがあります。「手打衆」 と呼ばれる贔屓(ひいき)筋が公演のヒットを願って手打ちをするというものです。


この「手打ち」と同じように事の成就を願って 「手を打つ」とか、無事終わったことを祝して 「手を打つ」。それに 「手討ち」 をかけたものとして、「手打蕎麦切」 ができたというのが私の説です。


『仮名手本忠臣蔵』の題材になった元禄の事件にまつわる話のなかに、討入前に蕎麦屋の二階に集合したという話がでてきます。

 序文に元禄十六歳と書かれた 『易水連袂録』 という史料のなかに、饂飩屋久兵衛(うどんや・きゅうべえ)が登場します。

 この話のなかでは堀部弥兵衛(ほりべ・やひょうえ)が饂飩屋久兵衛(うどんや・きゅうべえ)に金子三両を渡して吉良屋敷討入前の集合場所としたということになっています。


『泉岳寺書上』 という史料では、饂飩屋久兵衛が蕎麦屋の楠屋十兵衛にかわっています。
 九から十に出世した(笑)


で、この 『泉岳寺書上』 のなかに 「手打蕎麦切」 がでてくるのです。


『易水連袂録』 にしろ 『泉岳寺書上』 にしても、史料とはいうものの

史実からはかけはなれた 「物語」 で、『泉岳寺書上』が書かれたのは事件から半世紀以上のちであると考えられます。


 四十七士のなかでただ一人切腹を免れた寺坂吉右衛門の自記によれば、吉良屋敷討入前に、向川岸町の亀田屋という茶屋で数人が 「蕎麦切などを食べた」 ということです。これは史実とみてよいでしょう。


「討入前に蕎麦を食べた」 という話が大きく膨らんで、「手討ち前の蕎麦切」 となったのでしょうね。


さて、ほうとうや饂飩(うどん)を作ることについては、「打つ」 という表現は古くからみられます。

このことから、元禄時代にはすでに 「手打蕎麦切」 という言葉はあったと主張するのでしょうけど、ちょっと待った!
宝暦以前に書かれた史料には、上に書いたように 「打つ」 という表現はあっても、「手打蕎麦切」 という言葉は見当たりません。


「蕎麦切を打つ」 からいきなり一般名詞の 「手打蕎麦切」 が生まれたのでしょうか。

そもそも「手」は何に由来するものか。


「手打蕎麦切」 は、商売上の差別化につかわれたものと考えます。それがいつの時代からなのか。


「手打蕎麦切」 という言葉は 「宝暦頃からのもの」 と記しましたが、その出典は越智為久の 『反古染』(宝暦三年写)で、そのなかにこうあります。



「元文の頃より夜鷹蕎麦切、其後手打蕎麦切、大平盛り、宝暦の頃、風鈴蕎麦切品々出る」


元文は、1736~1741年です。元禄は、十七年(1704)三月まで。

なので、元禄の頃から「手打蕎麦切」があったというのはおかしい。


「手打蕎麦切」 は 「宝暦になる直前」 に現れて、宝暦になると広く用いられるようになったと考えられます。


宝暦三年の写本に書かれたことなので、「手打蕎麦切」 は新造語のひとつであったと考えるべきで、下記をみても忠臣蔵に深く関係していたことが明らかです。



 以下、「仮名手本忠臣蔵」より

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 いや夫は。ハテ扨祝ふて手打の蕎麥切。ヤ手打とは吉相。然らば大鷲矢間御兩人は跡に殘。先手組の人/\は。郷右衞門力彌を誘ひ。佐田の森迄お先へ。

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「手打蕎麦切」 の 「手打」 は、そもそもは 「自家手製」 ではなく、事の成就を願って 「手を打つ」、無事終わったことを祝して 「手を打つ」、「敵を打(討)つ」 などの意を持たせた造語であったとみるべきでしょう。


下記は、大田蜀山人の「そばの文」(文化六年三月二十七日/1809年5月11日)より


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 それ蕎麦はもと麦の類にはあらねど、食料にあつる故に麦と名つくる事、加古川ならぬや本草綱目にみえたり、されば手打のめでたきは天河屋が手なみをみせし事忠臣蔵に詳なり・・・

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「加古川」は、「仮名手本忠臣蔵」に出てくる加古川本蔵(かこがわ・ほんぞう)。

「天河屋」も、「仮名手本忠臣蔵」の登場人物です。「天河屋義平は男でござる」という科白(せりふ)は有名ですね。



元禄のころといえば将軍綱吉が大名を集めて、中国の古典を原語で講義していたことは有名です。


当時の教養人は漢詩をたしなむことは当たり前。


で、中国語の 「打」 の用法をみると、


 打賭:賭けをする
 打針:注射を打つ
 打工:仕事する
 打傘:傘をさす
 打包:梱包する
 打飯:食べ物を売り買いする 食べ物をのこす 
 打禅:座禅を組む
 打車:車に乗る
 打架:喧嘩する
 打魚:魚を獲る


調べていただければわかりますが、「○○を打つ」 というのはうどんや蕎麦に限らず昔から使われていました。


「○○を打つ」=「○○をする」


しかし、「手打蕎麦切」 という言葉は、宝暦のころにならないと出てこないし、中国語にもこの言葉はなかったものです。


「ネズミを打ちに行こう」 は、「ミッキーマウスのいるディズニーランドに行こう」 という意味で使われています。


忠臣蔵 の なぞとき-鬼あざみ

 赤穂浅野家では、良質の塩を作っていた。その製塩法を吉良が盗みに行ったとか、江戸での市場を獲得するために吉良上野介が赤穂の塩を江戸に入れないようにしたなど、塩をめぐる確執が刃傷事件の原因であった、といわれてきました。


 どうもおかしい。こんな説は、江戸時代にはなかった。明治になっても、大正時代にもなかったのです。


 昭和の、しかも戦後になって出たようにみえる。


 調べてみると、大坂(大阪)を除く臨海の地ではどこでも塩をつくっていたし、「真塩」と呼ばれるまっ白な塩を作るのには特別な技術を要するものでもないし、赤穂で作った真塩は大坂までしか入っていなかったのです。


 のちに塩問屋を通じて江戸近郊の醤油醸造家が仕入れた赤穂の塩は、「差塩」と呼ばれるニガリを含む茶色っぽい塩でした。


 赤穂は確かに塩の名産地でしたが、潮の干満による水位差を利用した「入浜式塩田」を作るのに適した地で、しかも年間の晴天日数が多いという好条件もあって、低いコストで大量の塩を作ることができたのです。


 人力によって海水を運ぶ「揚浜式塩田」では当然コストが高くなるし、非効率的だから製塩量からいっても浅野の塩と吉良の塩とで市場獲得の争いが起きるはずがない。


 調査の結果わかったのは、吉良の領土に近い三河湾岸に塩田があったことは間違いないのですが、その塩田は上総大喜多の大河内家(二万石)の飛び地の領土だったのです。


 前に書いた 「浅野内匠頭は赤穂藩主ではなかった」 でも書いたとおり、大名などの領土は都道府県や市町村のように決まった領域ではなかった。川・海・道路などによって線で囲まれた地であるとは限らず、本領から離れたところに飛び地の領土があることは珍しくなかったのです。

 まえに書いた「浅野内匠頭の辞世は誰の作品?」 http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11088679471.html  のところで、下のように書きましたが、その後の調査によって訂正させていただきます。


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 都乃錦は元禄十六年五月(1703年6月)に大坂から江戸に出たとき無宿人として捕えられ薩摩の永野金山に配流され、脱走を試みるも失敗し、宝永二年七月(1705年8月)に鹿籠(かご)に移された。「播磨椙原」は鹿籠金山で執筆されたということです。浅野内匠頭切腹の4年後ということですが??? 宝永八年(1711)という説もあります。


 上の画像にあるように「寶永年中」に書かれたものでしょうが、無宿者として佐渡に流され金山で水汲人足として働かされた者の労働状況を照らしてみると、金山配流中にはとても執筆活動などできません。


 宝永六年七月十六日(1709年8月21日)の大赦で釈放されたのち、上方に戻って執筆活動を再開。宝永九年(1712)に『当世智恵鑑』を著しています。

『薩摩椙原』は、宝永八年(1711)成立という説のほうが正しいとみたほうがいいでしょう。

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 下記のように訂正します。


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 都乃錦は元禄十六年五月(1703年6月)に大坂から江戸に出たとき、市中見回り役の布施孫兵衛に無宿人として捕えられ、同年十月(11月)に薩摩の永野金山に配流されて水汲人足として働かされることになります。

 宝永元年七月二十二日(1704年8月22日)の夜に脱走を試みるも失敗し、牢獄に送られました。ここでも苦痛に耐えかねて「斬首嘆願書」を提出。

 その嘆願書には自分の血筋や家の系図があって、何も罪を犯していないのに無宿人狩りという理不尽な落とし穴に落ちた。そんなことを書いた最後に、こんな辞世まで載せていたのです。


 捨てにけり 今日の命は惜しからず 亡殻になる 恥のかなしさ


 ちょうどそのころ、島津家二十一代の綱貴が江戸で亡くなり、吉貴が二十二代島津家の当主となった。

 そんなことから都乃錦の訴状は吟味され、家系のよさや学識があることなどが認められて同年十二月「公儀流人」として再び永野金山に送られます。役人はいうにおよばず、鉱夫たちの見る目がちがうようになった。水汲人足から坑外雑役にまわされることが多くなったといいます。


 そして宝永二年七月十日(1705年8月28日)には、鹿籠(かご)に移された。鹿籠金山では罪人として服役した様子はなかった。文筆活動とあわせて寺子屋を開いていたようです。


 ということで、『播磨椙原』執筆は、浅野内匠頭切腹の4年後ということになります。





 江戸時代には都道府県のようなものとして 「藩」 があり、それぞれの藩は大名が治めていた、と思っている人が多いようです。じつは私も、そう思っていました。


 ところが、忠臣蔵の調査をはじめてまもなく、江戸時代を通じて公式には 「藩」 は使われていなかったことを知りました。

 

 元々は 「藩」 という語は、古代中国、周の時代(紀元前1046年頃~紀元前256年)に天子である王によって決められた国の支配者の支配領域を指したもので、日本では元禄十五年(1702)成立の新井白石著 『藩翰譜』[はんかんふ] に載ったのが最初。徳川将軍によって与えられた大名の領土を指す言葉として使われたのでした。


 新井白石の 『藩翰譜』 は、大名などの家伝・系譜書で、337家の由来と事績を集録したものです。この書に書かれたことは伝説的なものが多く含まれていたことから、実用にならなかったようです。


 いずれにせよ、浅野内匠頭が刃傷事件を起こして切腹した翌年に和製の 「藩」 が産声をあげたので、浅野内匠頭が生きている時代の史料をいくら探しても 「赤穂藩主」 というのは出てこないのです。


 新井白石は、儒者(儒教学者)です。「藩」 は、『藩翰譜』 成立以降、儒者の間で細々と使われてきたらしいのですが、私が見たなかでは 『藩翰譜』 を除けば江戸時代後期にまとめられた徳川実記と総称する史料のなかで使われたもの初めてでした。


 江戸時代も終わりに近づくと、手紙や随筆のなかに 「藩」 がでてきます。インテリっぽい流行語だったのかも知れません。しかし統一した表記はなかったようで、領土の地名によって 「赤穂藩」 のようにいったり、領主の姓から 「森藩」 などといわれることもありました。


 ちなみに森家が支配していた赤穂藩は、二万石です。


 赤穂浅野家の前領土は笠間(現在の茨城県内)で、五万三千石でした。赤穂に転封(領土替え)になったときは、笠間のときと同じ五万三千石の領土を与えられましたが、そのうちの三千石と新田を内匠頭(長矩)の二人の叔父(祖父・内匠頭長直の養子)に分与したので赤穂浅野家の表高は五万石でした。


 赤穂が領土といっても、森家の時代は浅野家の半分以下の石高しかありません。


 これからもわかるとおり、大名の領土は一定の区域を指すものではなかったのです。


 もともと赤穂の地は、播磨国主の池田武蔵守照正の領土でした。

 赤穂が独立した領土となったのは、播磨国の一部であった赤穂郡三万五千石を五男の右京大夫政綱に分知したことがはじまりです。

 池田政綱が亡くなったあと、佐用郡平副で二万五千石を領していた弟の右近大夫輝興が赤穂の領土を相続したのです。


「藩」 が公式に使われたのは明治二年六月二十二日(1869年7月30日)の 「版籍奉還」 から。赤穂森家十二代の森忠儀[もり・ただのり]が赤穂藩知事に任じられ、明治四年七月十四日(1871年8月29日)の 「廃藩置県」 で藩知事を免官されたのでした。