松平愛之助とは誰だ! | 忠臣蔵 の なぞとき

忠臣蔵 の なぞとき

忠臣蔵に特化して。

何がホントでどれがウソか徹底追及しよう。

新しい発見も!

『忠臣蔵――赤穂事件・史実の肉声』(野口武彦著・ちくま新書・1994年)という本があります。著者は神戸大学教授(当時)で文学博士。


 集団襲撃・仇討があった本所吉良屋敷の前主は、かつては「近藤登之助」といわれていましたが、その通説は崩壊し、いまでは将軍小姓の松平登信望(まつだいら・のぼりのすけ・のぶもち) となっています。


 ところが、野口武彦氏の『忠臣蔵』には、次のように書かれていたのです。

 ――本所の松平愛之助旧邸は「上り屋敷」(空家)でサラ地同然だったから普請に手間取り、転居は十二月十三日になった。――(111ページ)

「上り屋敷」は、以前に誰かが住んでいて立ち退いたあとの屋敷という意味です。
「サラ地」 が 「更地」 ということならば、「建物が建っていない空地」 ということ。


「空家」 は 「住んでいた人が立ち退いて誰も住んでいない家屋」 なので、空家があったとすれば 「サラ地同然」 ということはない。


 なんだかなあ。

『野口忠臣蔵』 に書かれていた 「松平愛之助」 という名を、私は見たことがなかったのですが・・・

 友人は、こう言いました。

「愛之助といえば、歌舞伎俳優の片岡愛之助でしょ。五代目と六代目は忠臣蔵の芝居に出演しているし、それ以前の片岡愛之助も忠臣蔵の芝居に出演していると思う」

 まさか歌舞伎俳優の片岡愛之助の影響でもないでしょう。でも、松平愛之助という名の該当者は 『寛政重修諸家譜』 で調べても見つからなかった。

 別の友人は、新撰組の前身 「浪士組」 結成のとき 「浪士取扱」 となった松平上総介(主税助忠敏)の父親が松平愛之助(親芳)だったと言っていた。

 他の忠臣蔵本に松平愛之助が出てこないとはいっても、歌舞伎役者や新撰組の影響で本所吉良屋敷の前主が松平愛之助になったということは……。


 いや、あるかも知れない。
 まったく考えられないでもない。

 史料集を丹念に読んでいったら、野口武彦氏が参考にしたと思われるものが、わかりました。

『野口忠臣蔵』 の 「松平愛之助」 は、『江赤見聞記』 という史料にあったのです。

「巳(元禄十四年)の八月十九日に吉良左兵衛が召し出され、梶橋(鍛冶橋)の内にある上野介殿の屋敷を願いとおり召上げ、松平愛之助殿の本所の上り屋敷を下された」


【原文】
巳の八月十九日、吉良左兵衛殿被為召、梶橋之内上野介殿屋敷、依御願被召上、為替松平愛之助殿本所之上り屋敷被下之

 続いてこのように書かれている。


「鍛冶橋の蜂須賀飛騨守が気心知れた老中に、もし騒動があったときにはどうしましょうか、と訊ねたら、上野介の屋敷で騒動があっても一切構うことはない。屋敷の内を堅固に守っていればいい、とのことだった」


【原文】 
鍛冶橋之内之屋敷隣蜂須賀飛騨守殿御手寄御老中へ被得御内意候、若及騒動候はヾ如何可仕哉と御尋候時、御返答に、上野介方に騒動候共、一切構有之間敷候、屋敷之内堅固に可被相守由御指圖有之由也



『江赤見聞記』 に書かれた上の文。後に書いたほうは、前の文より一段下げて書かれているので、のちに追記されたのかも知れない。

 前の文では「梶橋」で後の文で 「鍛冶橋」 と書いてあるは、史料集の 『江赤見聞記』 に書かれたことそのままです。

 忠臣蔵に詳しい方ならば上に引用したことは、「松平愛之助」 以前に気になることがあると思います。

 そう。吉良上野介が回向院の近くに引っ越す前の屋敷は御城のそばの 「呉服橋内」 にあったのでした。

 それ以前、吉良上野介の屋敷は 「鍛冶橋内」 にあったのですが、火事で焼けた。そこで、呉服橋内に新たな屋敷を拝領した。吉良上野介の本所の屋敷への移転は、呉服橋内の屋敷から、ということでした。

 ここであげた二つ。『江赤見聞記』 に書かれたのと同じ内容が、広島の浅野本家で作成された浅野内匠頭長矩に関する伝記 『冷光君御伝記』 の 「附録」 に記されていました。

 ただし 『冷光君御伝記・附録』 のほうは、「松平愛之助」 ではなく、「松平登之助」 になっているし、前後の文とも 「鍛冶橋」 になっている。

 それと、『冷光君御伝記・附録』 ではあとのほうの文は小さな文字で書かれている。これも後で追記されたものでしょう。

『冷光君御伝記』 には、『家秘抄』 という記録から引いた部分がかなりあって、それらは 『江赤見聞記』 の内容によく似ている。

 もともと同じもので 「江赤見聞記=家秘抄」 は浅野内匠頭未亡人(瑤泉院)の用人・落合与左衛門によって書かれたとされているようです。

「江赤見聞記=家秘抄」 の著者と目されている落合は、情報を集めやすい立場にあった。そうだとしても 「江赤見聞記=家秘抄」 に書かれたそれぞれの情報源は不明です。筆写・転載が繰り返されれば、さらにノイズも入る。「梶橋」 や「松平愛之助」がいつどこで文中に現れたのかはわからないけど、『家秘抄』では 「鍛冶橋」 「松平登之助」 であれば、『江赤見聞記』 としての記録が伝わる過程で文字の写し間違いがあったということになります。


 浅野内匠頭未亡人(瑤泉院)の用人・落合与左衛門ならば、元禄十一年九月にあった大火を知らないわけはない。大火の前後で、江戸市中はがらりと変わったのだから。


 上記の間違った記述は、のちの時代の人で当時の江戸を知らない人が、元禄十一年九月の大火以前の地図あるいは武鑑などをみて 「鍛冶橋内」 としたのでしょう。

 筆写者の記憶に歌舞伎俳優あるいは新撰組の情報が詰まっていたとすれば、それが吉良屋敷前主の名前に入り込んだ可能性はある。