「忠臣蔵の時代」は、その1~3の連載です
「忠臣蔵の時代」その1
http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11134394838.html
「忠臣蔵の時代」その2
http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11134395274.html
忠臣蔵の時代 その2 につづく
江戸で寄席が現れたのは享和の頃(1801~3年)といわれているが、『寛天見聞記』にはこうある。
「むかしは寄席という場所がなかったので、軍書講釈も手跡稽古所(習字塾)や明店(空店)で夜にやっていたが、今は一町内に二、三ヵ所、寄席といって看板に行燈をかけ、咄に音を入れ、役者の声色・物まね、娘も上り、八人芸・浮世節などの芸人を集めるなど、寄席を専業とする家が多くなった」
江戸時代になる前から、「太平記読み」というものがあった。太平記などを講釈するもので、講談の原形である。その常席はなかったとしても、手跡稽古所や空店のほか、寺の本堂などでも講釈が行われていたようである。
忠臣蔵事件の数年後に出た忠臣蔵ものの本、都乃錦著『播磨椙原』(はりますぎはら)は講釈調で書かれているので、おそらく「太平記読み」のようなかたちでの公演を目論んで書かれたものだろう。
「元禄時代に店構えのそば屋があった」と書かれたものがあった。
その根拠は、『定本 武江年表』(今井金吾校訂・ちくま学芸文庫・2004年2月)の元禄年間記事項中に、当時評判の「手そばきり、鈴木町丹波屋与作」があるということだった。
『武江年表』は、正・続で一二巻があって、正編は嘉永三年(1850年)に成立。続編が成立したのはその30年後。忠臣蔵事件から百数十年後である。
『定本 武江年表』で挙げている「鈴木町丹波屋与作」の名の初出は、亨保十九年(1734)に出た『本朝世事談稿』(菊岡沾涼)にある「けんどん」の説明だ。次のように書かれている。
「江府瀬戸物町信濃屋という者が初めてこれ考えた。そののち流行って、さかい町市川屋・堀江町若菜屋・本町布袋屋・大鋸町桐屋という者が有名になった」
『本朝世事談稿』では、「けんどん」は「つっけんどん」からきたという説をとっているが、建築用語で障子などで上げ下げする構造を「けんどん」といった。そのような構造の箱に材料・道具を入れて持ち運びしていた可能性もある。
『本朝世事談稿』によれば、鈴木町丹波屋与作の前に瀬戸物町信濃屋が「けんどん」を始めている。
『増訂武江年表』(金子光晴較訂・平凡社)には「寛文四年に、けんどん蕎麦切始まる」とある。
同書は、『武江年表』の正・続と『武江年表補正』(刊行年不祥)によってつくられたもので、昭和43年(1968)に平凡社から出たものだ。
同じことが天保十四年(1843)に出た『三省録』(志賀理齊著)と『近世風俗志』(守貞謾稿)に載っている。出典はいずれも享保年間(1716~1736)に出た『昔々物語』で、こう書かれている。
「寛文辰年、けんとんというものが出来て下々の者が買い食う。貴人には食う者なし。これも近年はお歴々の衆も食う。結構な座敷に上がるので大名けんとんといって出す」
寛文辰年は、寛文四年(1664)。この年の干支は甲辰である。
寛文四年に出来た「けんとん」は買い食いするようなもので、その「けんとん」(すぐに食べられるそば切を出す者)が座敷のある店を構えたのは、享保になってからである。おそらく忠臣蔵事件から、20年以上は後のことだろう。
吉良屋敷襲撃事件に参加した元赤穂浅野家の家来、吉田忠左衛門組の足軽・寺坂吉右衛門が遺した記録によれば、真夜中に米沢町の堀部弥兵衛宅を辞した吉田ら数名は、本所林町五丁目にある集合場所・堀部安兵衛の相宅に向かう途中、両国橋向川岸町の亀田屋という茶屋でそば切などを食べて時を過ごし、約束の時刻までに集合場所に行った。
忠臣蔵の時代 了
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