赤穂浅野家では、良質の塩を作っていた。その製塩法を吉良が盗みに行ったとか、江戸での市場を獲得するために吉良上野介が赤穂の塩を江戸に入れないようにしたなど、塩をめぐる確執が刃傷事件の原因であった、といわれてきました。
どうもおかしい。こんな説は、江戸時代にはなかった。明治になっても、大正時代にもなかったのです。
昭和の、しかも戦後になって出たようにみえる。
調べてみると、大坂(大阪)を除く臨海の地ではどこでも塩をつくっていたし、「真塩」と呼ばれるまっ白な塩を作るのには特別な技術を要するものでもないし、赤穂で作った真塩は大坂までしか入っていなかったのです。
のちに塩問屋を通じて江戸近郊の醤油醸造家が仕入れた赤穂の塩は、「差塩」と呼ばれるニガリを含む茶色っぽい塩でした。
赤穂は確かに塩の名産地でしたが、潮の干満による水位差を利用した「入浜式塩田」を作るのに適した地で、しかも年間の晴天日数が多いという好条件もあって、低いコストで大量の塩を作ることができたのです。
人力によって海水を運ぶ「揚浜式塩田」では当然コストが高くなるし、非効率的だから製塩量からいっても浅野の塩と吉良の塩とで市場獲得の争いが起きるはずがない。
調査の結果わかったのは、吉良の領土に近い三河湾岸に塩田があったことは間違いないのですが、その塩田は上総大喜多の大河内家(二万石)の飛び地の領土だったのです。
前に書いた 「浅野内匠頭は赤穂藩主ではなかった」 でも書いたとおり、大名などの領土は都道府県や市町村のように決まった領域ではなかった。川・海・道路などによって線で囲まれた地であるとは限らず、本領から離れたところに飛び地の領土があることは珍しくなかったのです。